テラーノベル
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朝、蝉の声で目が覚めた。
いつもより少しだけ早い時間。
窓を細く開けて寝ていたから、夏の朝の湿った空気が、カーテンをふわりと持ち上げていた。
ぼんやりと天井を見上げたまま、思う。
─今日が終わったら、明日からはお祭りだ。
風送り。
町中に風鈴が揺れる、年に一度の、あの三日間。
─楽しみだな。
少しにやけるように呟いて、勢いよく布団を跳ね上げる。
制服に袖を通しながら、ふと思い出す。
昨日の彼の顔。
玄関を出たときには、そんなモヤモヤも、潮風に紛れて吹き飛んでいた。
「─おーい!」
角を曲がったところで、彼の声が聞こえた。
手を振りながら近づいてくるその姿に、思わず笑ってしまう。
相変わらず、寝癖がひどい。
「ちゃんと起きてきたじゃん、偉い偉い」
「うるせーよ」
むくれたような顔をして、でもすぐに笑い返してくれる。
それだけで、朝の空気がほんの少し軽くなる気がした。
二人で並んで歩きながら、たわいない話をした。
今日の授業のこと、部活のこと、明日からのお祭りのこと─。
ほんとうに、ただ、それだけだった。
坂を下って、学校へ向かう。
道沿いの家々には、すでに風鈴が吊るされ始めていた。
カラン、カラン。
淡い音が、潮風に乗って耳元を撫でる。
「なあ、明日、どうする?」
「うん、夜にお祭り、行こうよ。屋台、いっぱい出るし」
「金魚すくいリベンジ?」
「うん!友達増やしてあげようよ。」
「自信ねぇ」
「ふふ、がんばろ?」
ふざけ合いながら歩く坂道。
見上げた空は、どこまでも青くて、果てしなく遠かった。
**
─教室の窓から、夏の光が差し込んでいた。
もうすぐ放課後。
外では、蝉の声がけたたましく響いている。
私は、机に肘をつきながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
お祭りの準備で忙しない町。
もうすぐ始まる風送りのお祭りで賑わう町の光景が広がっている。
今年も、あの屋台が出るんだろうな。
あの金魚すくい。わたあめ。射的。
そして、坂の中腹で毎年見上げる、小さな花火。
─また、今年もいっしょに。嬉しいな。
そんなことを思っていたら、不意に後ろから肩を叩かれた。
「なぁ」
振り向けば、そこに、彼が立っていた。 ちょっと不器用そうに、でもどこか期待するような顔で。
「……なに?」
「明日さ、学校終わったらすぐ集合な」
私は、思わず口元をほころばせた。 ─やっぱり、同じことを考えてたんだ。
「うん。」
お互い、ちょっとだけ大人になったけど、こうしてまた一緒にお祭りに行けることが嬉しかった。
「今年はな、ちゃんと金魚すくってやるから」
「えー、無理でしょ。だって下手じゃん。」
私が笑うと、彼はふてくされた顔をした。
でも、その顔も、私には眩しかった。
夏の光が、彼の髪を透かしている。
汗ばんだシャツの袖口を、彼は無造作にまくり上げた。
─こんな時が、ずっと続けばいいのに。
そんな願いが、ふっと胸に浮かんだ。
「なぁ」
彼が、ちょっと真剣な顔で言った。
「明日……浴衣、着てくる?」
「え?」
「いや、その……。別にどっちでもいいけどさ」
急に視線をそらすその様子が、なんだか可笑しくて、私は吹き出しそうになった。
「着てこっかな」
「マジか」
「ふふ、期待しといて」
軽く手を振って、私は先に教室を出た。
廊下に出ると、外の光が眩しかった。
彼は、ちゃんと私の後を追ってきた。
─来年も、再来年も。
こんなふうに、一緒に歩ける気がしていた。
当然のように、ずっと。
教室には私たち以外ほとんど残っていない。
教室を出ると、一気に熱気が押し寄せる。
階段を降りて、靴を履き替えながら、私はそっと自分の胸に手を当てた。
胸の奥で、何かが小さく脈打っている。
嬉しかった。
「明日、坂の下の広場で待ち合わせな」
靴を履き終えた彼が、後ろから声をかけてきた。
「うん、わかった」
「七時な。遅れんなよ」
「そっちこそ」
にやっと笑って、彼は先に外へ出て行った。
私はその背中を見送りながら、そっと小さく呟いた。
─気合い入れてこっ。
夕暮れの空に、夏の風が吹いた。
あの日と同じ、海の匂いが混じった風が。
誰にも気づかれないように顔をほころばせながら。
ひそかに心を躍らせた。
先に出た彼の後を追うと、
何かもの言いたげに、彼は立っていた。
「どうしたの?」
「いや、別に……ちょっと、寄り道して帰ろうぜ」
「え?」
急な誘いに驚いたけれど、うれしかった。
「……うん、いいよ」
鞄を持ち直して、彼のあとを追いかける。
寄り道したのは、海沿いの堤防だった。
ここは、高校に入学してから二人のお気に入りの場所。
潮の匂いと、風鈴坂から流れてくる風が混じり合う。
ふたり、並んで座った。
潮風が髪を揺らす。
私はそっと隣に目を向けた。
彼は、何も言わずに海を見ていた。深く、どこか遠い場所を見つめるように。
堤防の上、ふたり並んで腰掛ける。コンクリートの冷たさが、薄い制服越しに伝わってくるけれど、それすらも心地よかった。
白い波が岸をなぞるたび、さざめく音が、胸の奥をかき混ぜる。
「なあ」
「ん?」
「……明日、晴れるかな」
「きっと晴れるよ。だって、今日もこんなにいい天気だもん」
彼は、確かにとうなずきながら、ポケットから小さな紙袋を取り出した。
中には─小さなガラス細工の、風鈴の飾り。
「お前に、やる」
「え、なにこれ……」
差し出されたそれを、そっと手のひらに乗せる。
光を透かして、小さな花模様が浮かび上がった。
「お守りみたいなもんだ」
「……ありがとう」
不器用な渡し方に、胸がきゅっとなった。
何かを言いたかったのに、うまく言葉が出てこなかった。
ただ、ぎゅっと、その小さな風鈴を握りしめる。
私は、何かを言おうと唇を開きかけて、やめた。
この静けさを、壊したくなかった。
言葉にしてしまったら、きっと、今この瞬間が、どこかへ行ってしまいそうで。
ただ、そっと、目を閉じた。
風のにおいと、彼の隣にいる温もりを、心に焼きつけるように。
世界は、こんなにも広いのに、今、私たちは、誰よりも近くにいる気がした。
日が暮れてきて、町の明かりがひとつ、またひとつと灯り始めた。
「そろそろ、帰るか」
「……うん」
立ち上がって、堤防を降りる。
彼と並んで歩く夕暮れ道。
交差点に差し掛かったときだった。
遠くから、車のライトが近づいてくるのが見えた。
─なんか、速い。
ほんの一瞬、そんな違和感がよぎった。
「危ない─!」
彼が私を突き飛ばした。
視界が、ぐるりと回る。
アスファルトに手をついた衝撃。
血の味。
何が起きたのか、わからなかった。
そして。
彼の姿が、視界の端で、吹き飛んでいくのを─
見た。
叫ぼうとした。
けれど声は、出なかった。
世界が、音を失っていた。
彼の名を呼ぶ声も、
助けを求める叫びも、
すべて、風の中に、溶けていった。
意識が、遠のきそうになる。
誰かが叫んでいる。
誰かが走ってくる。
でも─そのどれもが、すごく遠かった。
転がった身体を必死に起こして、私は地面に手をつく。
膝が震えて、うまく立ち上がれない。
それでも、彼のもとへ駆け寄ろうとする。
この腕で、彼に触れなければ。
この声で、彼の名前を呼ばなければ。
「──っ!」
喉から声にならない叫びが漏れた。
ぼやけた視界の中で、彼が倒れているのが見えた。
ぐしゃりと曲がった手足。
投げ出された鞄。
割れたスマホ。
血に濡れたアスファルト。
─嘘だ。
こんなの、絶対、夢だ。
膝をすりむきながら、彼のそばへ這うように近づく。
「─凪!」
声になったかどうかも、わからなかった。
でも、必死で彼の肩に手を伸ばす。
返事はない。
恐怖が、胸を貫いた。
「凪! お願い、目開けて、ねえ!」
彼の顔を覗き込む。
閉じた瞼。
微かに震えるまつ毛。
血の気の引いた唇。
「大丈夫、すぐ、すぐ助け呼ぶから!」
ポケットからスマホを取り出す。
手が震えて、うまく操作できない。
指がすべって、何度も番号を押し間違える。
─お願い、お願い、早く、早く!
やっとの思いで救急を呼んだ。
でも、すぐには来ない。
その間にも、彼の身体はどんどん冷たくなっていく気がした。
「ダメ、寝たらダメだよ!」
泣きながら、何度も彼の名前を呼ぶ。
意識をつなぎとめるために、必死で喋り続けた。
「明日、お祭り行くって言ったじゃん」
「金魚すくい、リベンジするって言ったじゃん」
「ほら、あたし、また絶対失敗するから、凪が、掬ってくれるって……」
「……だから、だから─」
涙でぐしゃぐしゃになりながら、必死で彼に語りかける。
でも、返事はない。
遠くでサイレンの音が近づいてきた。
赤い光が、夜道に滲んでいく。
救急車が止まり、救急隊員たちが駆け寄ってくる。
「彼女、大丈夫?」
「こっちだ、こっちに!」
誰かに肩を掴まれる。
強引に引き離される。
彼のそばにいられない。
「いや、離さないで!」
叫んだ。
必死で手を伸ばした。
でも届かない。
─彼に、触れられない。
泣きながら、引きずられるように道端に座り込んだ。
救急隊員たちが彼に処置を施している。
見たくない。
でも、目を逸らせない。
─凪。
お願い、
まだ、間に合うよね。
きっと、大丈夫だよね。
だって、まだ約束してるんだよ。
明日、一緒にお祭り、行こうって─。
─約束。
─ねぇ。
搬送用のストレッチャーに乗せられて、彼が救急車に運び込まれる。
「この子も、乗せてあげて!」
誰かが叫ぶ。
目の前に、白い制服がかがみこむ。
「大丈夫、一緒に行くからね」
柔らかい声と同時に、私は救急車も乗せられる。
彼の隣、すぐそばに。
救急車の扉が閉じられる瞬間、かすかに見えた。
灰色の空に、ちらちらと、夏の終わりの光がにじんでいた。
祭りの準備をする提灯の明かりが、
遠く、ぼんやりと滲んでいる。
それは、まるで─
取り返しのつかない何かを、
静かに、ただ静かに、見下ろしているようだった。
─どうして。
─なんで、こんなことに。
走る車の中、彼は、
目を開けてくれるだろうか。
名前を呼んだら、振り向いてくれるだろうか。
涙でにじむ視界の中、
私はただ、震える指でスマホを握りしめた。
けれど、かけるべき番号も、かけるべき相手も、すぐには浮かばなかった。
─お願い、間に合って。
─まだ、遅くないよね。
走る車内で、何度も祈った。
神様なんて、信じたことなかったのに。
病院に着いたのは、それからすぐだった。
夜の救急外来。
白い蛍光灯が冷たく光るロビー。
椅子に座ったまま、私は両手を組んで、祈るように頭を垂れた。
彼は、処置室に運ばれていった。
扉の向こうでは、今も、誰かが必死で、彼を引き戻そうとしてくれている。
そう信じたかった。
時々、誰かが慌ただしく廊下を走る音がする。
機械音が鳴り響く。
ストレッチャーが動く音がする。
でも、
でも─
彼のことを告げに来る人は、いない。
時間が、凍りついたみたいに動かなかった。
スマホを見る。
バッテリーがじりじりと減っていくのに、時刻だけは何も変わっていないように感じた。
ふと、ポケットの中の、もう一つの存在に気づく。
─風鈴。
今日、彼がくれた、小さな風鈴。
可憐で、軽やかな音色。
飾ってるところを、見てほしかった。
―でも。
―でも。
─叶わないかもしれない。
胸が、ぎゅうっと締め付けられる。
怖い。
怖い。
ねぇ。
やだ。
扉が、音を立てて開いた。
白衣の医師が、こちらへ向かってくる。
後ろには、血のついたガーゼを抱えた看護師たち。
私は、立ち上がった。
足が震えた。
「……あの」
声が震えて、うまく出ない。
医師は、ほんの一瞬だけ、顔を曇らせた。
そして─首を、横に振った。
─全てが、崩れた。
「ウソ、だよね」
震える声が、知らない誰かのものみたいだった。
「だって、明日、祭り行くって……!」
手に持っていた風鈴が、指先から滑り落ちる。
ガシャ、と小さな音を立てて、床に転がった。
自分の世界の壊れる音だった。
看護師が何かを言っている。
医師が、申し訳なさそうな顔をしている。
でも、もう、何も聞こえなかった。
頭の中で、あの日の約束が、あのくだらない日々が、あの瞬間が何度も何度もリフレインした。
─来年も、また。
なのに。
なのに、
どうして、こんなことに。
力が抜けた。
その場に崩れ落ちた。
膝が床にぶつかって痛かったはずなのに、痛みも、感じなかった。
ただ、ただ─
「……凪……」
名前を、呼んだ。
震える声で、何度も何度も。
─でも、彼は、もう。
どこにも、いなかった。
夜の病院は、ただ静かに、
私の絶望を、吸い込んでいくだけだった。
**
その夜、私は一睡もできなかった。
ぼんやりとした頭のまま、
もう動かない彼の横に座ったまま、夜明けを待った。
何度も、スマホを開いては、彼とのトーク画面を見た。
─「明日、朝一緒に学校いかね?」
─「朝起きれるの?笑 7時くらいにいつもの通学路ね。」
─「おっけ」
最後のやりとりが、
液晶の向こうで、乾いた記憶みたいに並んでいる。
いまでも、メッセージを送ったら、彼の不器用な返事が返ってくる気がして。
─でも。
─でも。
スクロールすればするほど、彼の声が、遠くなっていく。
─あたし、あたし、どうすればいいの。
消えたメッセージに向かって、問いかけても、
もう動かない彼に話しかけても
何も返ってこなかった。
ポケットの中で、風鈴が、かすかに鳴った。
**
病院の小さな個室。
白い天井。
冷たく乾いた空気。
私は、そこにいた。
彼のすぐ隣に。
─彼は、静かだった。
いつもみたいに、軽口を叩くこともない。
目を閉じ、微かに寝息を立てるでもなく。
ただ、そこに、“ある”だけだった。
ベッドの脇の椅子に座り、私は彼の顔を見つめ続けた。
点滴も、酸素マスクも、すべて取り外されている。
どこまでも、静かな寝顔だった。
少し乱れた髪を、そっと指先で撫でた。
─ねぇ、起きてよ。
そう言いたかった。
でも、声に出したら、取り返しのつかないことになりそうで、怖くて、何も言えなかった。
だから私は、ただ、手を握った。
冷たかった。
こんなにも。
あの日、坂を一緒に登ったとき、
浴衣姿で並んで歩いたとき、
手をつないだら、いつも、あったかかったのに。
今は、もう─。
時間がどれだけ経ったのか、分からなかった。
看護師さんが何度か顔を出してくれた。
「辛かったら、少し休まれてください」と優しく言ってくれた。
でも私は、首を振った。
この時間を、手放したくなかった。
だって、
目を離したら、
今度こそ、本当に、彼がいなくなってしまう気がしたから。
夜が深くなっていく。
窓の外の空は、黒く沈み、
やがて、白んでいった。
蝉の声も、夜の喧騒も、
何もかも、どこか遠くなって。
**
朝になった。
医師が、再び部屋に入ってきた。
何かを告げる声がする。
でも、聞き取れなかった。
ただ、分かった。
─もう、行かないといけないんだ。
私は、彼の手を最後にぎゅっと握りしめた。
指を離すのが、怖かった。
けれど─。
離さなきゃいけなかった。
彼の指先は、もう動かない。
それでも、私は、そっと、もう一度だけ撫でた。
「……また、会おうね」
誰に向けたともわからない言葉を、ぽつりとこぼす。
次、また病院に来たら、軽口をたたいてくれるんじゃないか。
そんな気がして。
病院のロビーに降りると、
両親が来ていた。
父は無言で立ち尽くしていて、
母は、ハンカチを握りしめたまま、顔を上げられないでいた。
私は、ふらふらとその前に立つ。
「……」
「……」
言葉は、なかった。
いや、あったのかもしれない。
でも、どんな言葉を選んでも、この現実には到底届かない気がして。
私たちは、ただ、うなずきあった。
それだけだった。
**
帰りの車の中、父は一言も話さなかった。
母も、静かに涙を拭うだけだった。
窓の外を流れていく町並み。
朝の光が、痛いくらい眩しかった。
─みんな、知らないんだ。
今、この世界から、
たった一人、大事な人が消えたことを。
学校も、坂道も、海も、
何も変わらない顔で、そこにある。
それが、たまらなく悔しかった。
**
家に着いた。
玄関のドアを開ける。
靴を脱ぎ、制服を脱ぎ捨て、
鞄をソファに放り投げる。
でも、部屋にいても、耐えられなかった。
空気が重かった。
何もかもが、空っぽだった。
私は、また外へ出た。
─どこへ行く?
足が、自然に答えを出していた。
風鈴坂だ。
送り堂だ。
あの町の、坂の上へ。
彼と一緒に、何度も登った、あの坂道へ。
**
坂道は、朝の光に照らされていた。
すれ違う町の人たちは、誰も私に気づかないみたいだった。
─それで、よかった。
だって、今の私は、
きっと、誰の目にも映らないくらい、
ぼろぼろだったから。
ふと、胸ポケットに触れる。
そこに、風鈴がある。
─忘れないために。
─逆さに吊るすんだ。
今の私にできることは、それだけな気がしたから。
私は、それを持って、坂を登った。
脚は重かった。
でも、歩みは止めなかった。
坂の途中、見覚えのある家々が、静かに佇んでいる。
彼と歩いた通学路。
彼と隠れた神社の裏道。
ひとつひとつが、胸を締め付けた。
─風が、吹いた。
暖かい、夏の風。
髪が揺れた。
目を閉じると、彼の声が聞こえた気がした。
─なにしてんの。行くぞ。
私は、唇を噛んで、
また一歩、坂を登った。
**
送り堂の門をくぐると、
そこには、おばあちゃんがいた。
小さな体で、静かに、風の音を聞いていた。
私を見ると、にこりと笑った。
「来たかい」
その声に、私は堪えきれず、しゃくり上げる。
ばあは、何も言わず、そっと手を差し出してくれた。
その手を、私はぎゅっと握った。
子供みたいに。
「……おばあちゃん」
声が震えた。
「……あたし、……あたし、忘れたくない」
嗚咽混じりに、そう言った。
ばあは、静かにうなずいた。
「忘れんでも、ええ。─大事なもんはな、風がちゃんと、運んでくれるんじゃ」
私は、ポケットから風鈴を取り出した。
小さな、透き通ったガラスの器。
西の空に、にじむような花の模様。
送り堂の境内には、私とおばあちゃんだけ。
ただ、風だけが、ささやくように吹き抜けていた。
私は、そっと手のひらを差し出す。
その上には、小さな風鈴。
「――お願い。風よ―」
声にならない声を、私は風に溶かした。
次の瞬間だった。
指先に置かれていた風鈴が、ふわり、と浮いた。
まるで、見えない糸に導かれるように。
私は両手を合わせる。
その間に、風鈴をそっと、逆さまに支える。
耳をすますと、風鈴の中から、かすかに音がした気がした。
「ここに、いて」
私は願う。強く、強く。
見えない力に引かれるように、逆さになった風鈴が、欄干に、吸い寄せられていく。
誰が吊るしたわけでもない。
ただ、想いが、そうさせた。
カラン、と。
静かな音が、境内に広がった。
逆さまの風鈴は、まるで宙に浮かぶ花のように、ゆらり、ゆらりと揺れていた。
私は目を閉じた。
その音が、あの人に届くことを、ただ信じながら。
─忘れたくない。
「前なんて、向けるわけがないじゃん……」
彼と過ごした日々を。
彼が笑った声を。
彼が、私の名前を呼んだあの音を。
「……また、会おうね」
私は、そう呟いた。
風が、吹いた。
逆風鈴が、小さく、小さく、音を鳴らした。
─君のことを、
─私は、絶対に、忘れない。
―忘れちゃいけないんだ。私のために命を落とした彼のことを。
―背負って生きていかないといけないんだ。
朝の光の中で、
その小さな音だけが、確かに響いていた。
**
逆風鈴を吊るしたあとは、しばらくその場を離れられなかった。
風は、やさしく吹いていた。
朝の、まだ湿り気を帯びた風。
でも、その風にすら、私は小さな寂しさを感じていた。
─これで、よかったのかな。
そう心の中で問いかける。
逆風鈴は、静かに揺れていた。
透明なガラスに朝の光が透けて、淡く虹色を映していた。
町中様々な所から届く思いを乗せた風に、
風の層に、
呼応するようにかすかに─ほとんど耳に届かないくらいに、
チリ……チリ……と、鳴っている。
その小さな音が、
今、私がこの世界にとどめている、たったひとつの希望だった。
─彼を、忘れたくない。
─どんなに時間が経っても、
─どれだけ世界が変わっても、
─私は、彼のことを覚えている。
―彼を、凪を背負って生きていくんだ。
絶対に、消したくなかった。
逆風鈴を見上げながら、私はぎゅっと両手を胸の前で組んだ。
そして、小さく、声に出さない声で願った。
─ずっと、ずっと、あなたを思い続けるよ。
風が、ふっと吹いた。
逆風鈴が、ひときわ、柔らかな音を立てた。
**
送り堂を後にして、坂を下りる。
靴音が、石畳に乾いた音を立てる。
町は、風送りの日の準備に追われていた。
白い幕が商店街に張り渡され、
子供たちは、手作りの短冊を手に走り回っている。
風鈴屋の店先には、色とりどりの風鈴が並び、
店主たちはその手を休めることなく動かしていた。
だけど。
そのどれも、私には、まるで別世界の出来事のように感じられた。
─なんで、こんなに、世界はふつうなんだろう。
誰もが笑っている。
誰もが、今日という日を祝っている。
でも、私の中では、たったひとつの世界が、たったひとりの人が─
取り返しのつかないほど、失われている。
私は、足早に通りを抜けた。
人の波の中を、すり抜けるように。
風鈴の音が、あちこちから聞こえる。
チリン、チリン─。
それらは、どれも涼しげな音だった。
夏の匂いを運ぶ音だった。
だけど、私には、その音すら、胸に痛かった。
だって、どんなに澄んだ音も──
彼の声じゃない。
**
家に戻ると、部屋は暖かな日差しに満たされていた。
けれど、窓を開けても、光を浴びても、
心は、暗い井戸の底に沈んだままだった。
私は、制服を脱いだままのソファにうずくまった。
目を閉じても、何も浮かばない。
彼の顔だけが、心の中に静かに沈んでいた。
─ごめんね。
─私が、守れなくて。
─私の、せいで
何度も、何度も、心の中で謝った。
だけど、いくら謝っても、
彼の手が、もう二度と私に触れることはない。
**
─夜。
私は、病院にいた。
白く塗られた壁も、
蛍光灯の冷たい光も、
どこまでも静まり返った廊下も。
全部、現実感がなかった。
─夢ならいいのに。
そう、何度も思った。
けれど、手元に握りしめたスマホがじわりと手のひらに食い込んでいる。
痛みだけは、いやに生々しかった。
彼は、あの扉の向こうにいる。
私は、ゆっくりと扉に手をかけた。
指先が震えていた。
でも、ためらっていたら、二度と会えなくなる気がして─
私は思い切って、扉を押した。
**
部屋の中は、静かだった。
カーテンが引かれ、ほとんど光も入っていない。
ベッドの上に、彼がいた。
白いシーツに包まれて、目を閉じていた。
まるで、眠っているみたいだった。
ほんの少し前まで、いつものように、くだらないことで笑ってた顔だった。
…………
私は、そっと近づいた。
彼の頬に、手を伸ばす。
でも、怖くて、途中で止まった。
もし、触れてしまったら──
本当に、もう戻ってこないって、認めてしまう気がして。
私は、ベッドの脇にしゃがみこんだ。
震える膝を抱きしめた。
「……ごめんね」
声が、かすれた。
どうしても、それしか言えなかった。
「ごめんね……ごめんね……」
唇を噛みしめた。
涙がこぼれる音すら、耳に痛かった。
私は、ずっと彼の横にいた。
誰もいない夜の病室で、
ただ、彼の傍にいた。
呼吸を止めた彼の身体は、既に冷たくなっていった。
その冷たさが、現実を、静かに突き刺してきた。
─嫌だ、こんなの。
─まだ、話したいことたくさんあったのに。
私たち、まだ何も、ちゃんと話せてなかったのに。
進路のことも、卒業後のことも、
来年の夏にまた祭りに行こうって約束も─
全部、全部、まだだったのに。
「ねぇ、起きてよ……」
私は小さく呼びかけた。
でも、彼は、もう二度と目を開けることはなかった。
**
気づけば、三日が経っていた。
朝も夜も、ほとんど覚えていない。
ただ、空だけが、毎日違う色に染まって、やがてまた暗くなった。
それを、ぼんやりと眺めていただけだった。
あの日、交差点で―
彼が、いなくなった。
世界はそれでも、何事もなかったみたいに、時間を進めていく。
誰かが話しかけてきたこともあった気がする。
けれど、耳に届いた言葉は、すぐに海の底へ沈んでいった。
ただ、胸の奥に、ぽっかりと開いた穴だけが、ずっと消えない。
何をしても、何を見ても、そこから風が吹き抜けていった。
あの日のことは、夢みたいに曖昧だった。
でも、現実は、待ってくれなかった。
**
彼のお葬式の日。
私は、喪服に袖を通した。
黒い布の重みが、やけに堪えた。
髪をひとつにまとめ、鏡の前に立つ。
だけど、そこに映る自分の顔は、
知らない誰かのように、やつれて見えた。
父と母と一緒に、葬儀場へ向かう。
外は、痛いほどの青空だった。
蝉が、絶え間なく鳴いていた。
照りつける太陽の光が、アスファルトを焦がしていた。
─なんで、こんなにも。
**
葬儀場には、たくさんの人が集まっていた。
彼の両親、親戚、クラスメート、先生。
みんな、黙ったまま、俯いていた。
遺影の中の彼は、笑っていた。
あの、いつもの、照れくさいような、不器用な笑顔。
香のにおいが、喉の奥を締めつける。
彼の写真が、壇上に飾られている。
笑ったままのその顔を、私は、まっすぐに見ることができなかった。
手を合わせたまま、必死に、奥歯を噛みしめる。
泣いたら、きっと、もう立っていられなくなる。
だから、絶対に泣かない。泣かないって、心の中で何度も唱えた。
でも、こみあげてくるものは止められなかった。
視界が、じわりと滲む。
瞬きをしても、拭っても、熱いものはあとからあとからあふれてきた。
白い花が揺れている。
線香の煙がゆらゆらと昇っていく。
まるで、彼の気配まで、少しずつ、空に溶けていってしまうみたいで。
胸が、ぎゅっと縮こまった。
―嫌だ。
―まだ、行かないで。
声にならない叫びを、私は必死に飲み込んだ。
唇を噛んだまま、涙をこらえた。
でも、こらえきれなかった。
一粒だけ、頬をつたって、零れた。
その涙は、音もなく、黒い喪服に落ちた。
私は、喪服の袖をぎゅっと握りしめる。
お経が響く。
**
棺が、運び出される。
その上に、小さな花がそっと置かれている。
係の人たちが、静かに指示を出す。
家族たちは、決められた動作で、それに従って動いていく。
私も、足を動かす。
まるで誰かに操られているかのように。
最後に顔を見てあげてください──。
誰かが、そう言った。
私は、ふらりと近づく。
膝をついて、棺の中をのぞき込む。
彼は、眠っていた。
─変わらない顔で。
だけど。もう。
私は、震える手で、小さな花を彼の胸元にそっと置いた。
―ありがとう。
―ごめんね。
―ずっと大好きだよ。
―ごめんね、ごめんね。
ほんとうは、声に出して言いたかった。
でも、声が出なかった。
喉が、凍りついたみたいに固まって、何も出てこなかった。
私は、唇をぎゅっと噛んだ。
……だめだ。
……こんなんじゃ。
彼に、何も伝えられない。
─ねぇ。
声にならない声が、胸の奥から、溢れた。
─ねぇ、行かないでよ。
─お願いだよ、起きてよ。
─わたし、まだ、何にも……
やはり、こぼれる涙を、もう止めることはできなかった。
目の前が滲んで、彼の顔すらよく見えなくなった。
棺が、少しずつ閉じられていく。
私は、手を伸ばした。
でも、触れることはできなかった。
閉じられた棺に、そっと額を押し付ける。
「……っ……っ……!」
声にならない声が、何度も、何度も、喉を震わせた。
誰にも届かない。
この世界のどこにも、届かない。
でも、それでも。
私は、叫びたかった。
彼にだけ、届けばよかった。
─凪、好きだよ。
─まだ、そばにいたかった。
そのすべてを、言葉にならないまま、押し出した。
**
棺が、運ばれていく。
彼は、遠ざかっていく。
私の世界から、静かに、確実に、遠ざかっていく。
黒い喪服たちが、列を作る。
誰もが、黙って歩く。
泣いている人もいるけれど、私の耳には、何も聞こえなかった。
私は、ただ、彼がくれた風鈴だけを、ぎゅっと握りしめていた。
─もう、彼はいないのに。
風が吹く。
夏の終わりの、ぬるく湿った風だった。
その中に、ほんの一瞬だけ、かすかな音が聞こえた気がした。
─チリン。
どこかで、風鈴の音が聞こえる。
それは、彼が最後に残してくれた、声だったのかもしれない。
夏の空は、青かった。
蝉の声は、遠く、響き続けていた。
でも、世界は、もう、あの日の世界とは違っていた。
私の中の季節は、
あの日から、ずっと、止まったままだ。
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