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夏休みのある日、音楽室でいつものように座っていると、廊下から小さな声が聞こえた。「由乃さーん、何してるの?」
わたしは小さくため息をつき、紬の顔をちらりと見る。
「……放っておいて」
「ふーん」
紬は鍵盤の上で指を止めもせず、ただ「うん」と答えた。
その無関心さが、妙に安心する。
午後の光が床に伸び、埃が金色に揺れる。
わたしは手帳に落書きをしながら、つい笑ってしまった。
「ねえ、紬って、冷たい飲み物飲むと顔赤くならないの?」
「ならないよ」
「ずるいなあ」
「うん」
言葉にならないやり取りでも、何かが通じている気がして、少し心が温かくなる。
ある日、窓を開けて風に髪を遊ばせていた紬が、ふと手を止めた。
「ねえ、由乃」
「なに?」
「もしさ、誰かにバレたら、逃げる?」
「逃げる…かな」
「ふーん。じゃあ、逃げない人はいるんだね」
「……わかんない」
そのときの紬の横顔は、少しだけ怖くて、でもどこか儚かった。
わたしたちはいつも同じことを繰り返していた。
ピアノを弾き、風を感じ、窓際で黙る。
それだけで、夏の時間は過ぎていく。
けれど、その小さな日常の積み重ねの中に、わたしは少しずつ気づき始めていた。
紬の「うん」は、ただの同意ではなく、なにかを諦めた声だと。
わたしが笑っても、ふざけても、彼女の心はどこか遠くにあって、決して届かない。
それでも、わたしは毎日通った。
来るたびに、少しだけ違う会話があり、少しだけ違う表情があり、
それを拾うことが、生きている証のように思えたからだ。
けれど、そのかけがえのない日常は、夏の終わりと共に静かに崩れ始めていた。