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あの夏の憂鬱

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あの夏の憂鬱

2 - 脆く儚く

♥

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2025年11月09日

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夏休みのある日、音楽室でいつものように座っていると、廊下から小さな声が聞こえた。「由乃さーん、何してるの?」

わたしは小さくため息をつき、紬の顔をちらりと見る。

「……放っておいて」

「ふーん」

紬は鍵盤の上で指を止めもせず、ただ「うん」と答えた。

その無関心さが、妙に安心する。


午後の光が床に伸び、埃が金色に揺れる。

わたしは手帳に落書きをしながら、つい笑ってしまった。

「ねえ、紬って、冷たい飲み物飲むと顔赤くならないの?」

「ならないよ」

「ずるいなあ」

「うん」

言葉にならないやり取りでも、何かが通じている気がして、少し心が温かくなる。


ある日、窓を開けて風に髪を遊ばせていた紬が、ふと手を止めた。

「ねえ、由乃」

「なに?」

「もしさ、誰かにバレたら、逃げる?」

「逃げる…かな」

「ふーん。じゃあ、逃げない人はいるんだね」

「……わかんない」

そのときの紬の横顔は、少しだけ怖くて、でもどこか儚かった。


わたしたちはいつも同じことを繰り返していた。

ピアノを弾き、風を感じ、窓際で黙る。

それだけで、夏の時間は過ぎていく。

けれど、その小さな日常の積み重ねの中に、わたしは少しずつ気づき始めていた。

紬の「うん」は、ただの同意ではなく、なにかを諦めた声だと。

わたしが笑っても、ふざけても、彼女の心はどこか遠くにあって、決して届かない。


それでも、わたしは毎日通った。

来るたびに、少しだけ違う会話があり、少しだけ違う表情があり、

それを拾うことが、生きている証のように思えたからだ。

けれど、そのかけがえのない日常は、夏の終わりと共に静かに崩れ始めていた。


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