「凪、あのさー就職したら即籍入れような? 早く凪と一緒になりたい。まあ俺は凪みたいに大学は短期じゃないから多く通わなきゃいけないけどさー」
「…………アハハ」
乾いた笑いを返す私を疑問に思ったのか、ヒロシは肩を寄せて私の顔を覗き込んで来た。
急にヒロシが語る『結婚』という言葉が薄っぺらいものに感じた。
「凪、どうしたんだよ? なんか悩んでる?」
「ううん。なんでもないよ。大丈夫」
ヒロシとは気が合うと思う。一緒にいて楽しいし、話も合うし、気も楽だ。何年も付き合っているけれど、別れたいと思ったことは1度たりともない。
1度たりともないんだ。今は深く考えるのはやめよう。
アパートに着き、玄関に入り靴を脱ぐ。
「凪、ここに置いとくから」
「うん」
リビングのテーブルにコンビニの袋を置いたヒロシは、『凪ぃぃい〜』と、抱きついていつものように甘えてきた。
ヒロシは私の一個年上だけど、本当に年上だとは思えない。そんな所が可愛かったりもする。
私の胸に顔を埋めながら、上目遣いで私を見る。
「ねぇ、凪。今日、ベランダでシてみない?」
「……え? 通行人に見られちゃうよ」
「下から見れないようになってから大丈夫だって」
「で、でも、声が……それに、音も」
「優しくするから……ダメ?」
「ダメっていうか……イヤ。非常識だよ……」
「大丈夫だって」と、私の腕を掴みベランダに連れ出すヒロシ。
確かに、今の時間帯は偶然にも人が通ってはいない。けれど、いつ通ってもおかしくはない。
「ね、大丈夫でしょ?」
ヒロシは私に相槌を求めた。けれど、やっぱりヒロシが言っていることが理解ができない。
どう言えばヒロシを説得できるか考えながらベランダから見える外の景色に視線を移す。
「お願いだよ、凪~」
いつもと違う場所で、理性を失っているヒロシ。
人目がつく公共の場で後ろから抱きつかれることに恥ずかしさしかない。必死にベランダにしがみついていると、木の陰から紺色の髪の色をした男の人が出てきて、こちらを見上げている。
……あれは。
仁王立ちで堂々と下から見上げているその人は、紛れもなく長谷川奏人だった。熱い視線でこちらを見ている。
ーーどうしよう、今すぐヒロシに離してもらわないと。
首筋に顔を埋め、私の匂いを嗅ぐヒロシ。
「ヒロシ、もう、やだ。離れて」
「んー、ちょっとだけ」
お願い、やめて。長谷川奏人が見てる……
ヒロシが離れてくれることを息を殺すようにジッと耐える。視界に長谷川奏人を入れないように、ぐっと目を瞑る。
ーーどれだけ時間が経っただろうか、「はーっ、ありがとう、凪」ヒロシは私の首から離れ、顔を上げた。
「……で、下がなんだって? 誰もいないけど」
「……あっ」
急いで下に目を向けると、もう長谷川奏人の姿はなかった。
その後ベランダにいるのはなんとなく気まずくなり、ヒロシを置いて先に部屋へと戻った。部屋からまだベランダにいるヒロシを眺める。すると、ズボンからスマホを取り出して触っている。
結局この日はこれ以上求めてくることはなく、部屋に戻ったヒロシと一緒にコンビニで買ったご飯を食べ、別々にお風呂に入り、一緒のベッドで横になった。
今思い返すとこういう何もない日が以前に比べて増えたような気もする。
今までは私の体調を気遣ってくれてるのかなとか、ヒロシ疲れてるのかなとあまり気にも留めていなかったけれど、長谷川奏人が言った「浮気してる」の言葉に胸がピリつく。
……ヒロシを信じたい。今までは信じてこれたのに、このざわつく感じはなんなのだろう。
横でヒロシが寝息を立てている。スマホは手に握ったままの状態で、起こさないようにそっとヒロシの手元からスマホを取り上げた。ドキドキする胸を高鳴らせながら、スマホの画面にタップするとロックがかかっている。
指紋認証では開かないロック式。ヒロシの誕生日でもなく、私の誕生日でもなく、私達が付き合い始めた記念日でもなく、いったい何の数字にしているのか分からなかったため、そっとヒロシの手元にスマホを戻した。
こんな疑うようなことしたくないのに、全部長谷川奏人のせいだ……
悶々としたまま翌日の朝を迎えた。
授業が昼からというヒロシをゆっくり自分のベッドで寝かせて、先に家を出る。
ーーきっと今日も長谷川奏斗はお昼私の元へ来る。
例へ私が他のところでご飯を食べようとも、見つけだして問いただされるだろう。
ヒロシは結婚のことについても話してくれた。そんなヒロシが浮気するはずがない。ちゃんと私を大切にしてくれている。
……ヒロシを疑うのはやめよう。長谷川奏人には”浮気していなかった”と報告しよう。
いつもと同じように昼時を避け、少し早めに食堂へと向かい天ぷら定食を食べていると、
『オレはオムライスにしたよ。昨日川口さんが食べてるのすごく美味しそうだったから』
………きた。長谷川奏人。
いつもはコンタクトなのだろうか、今日は緑の縁メガネを掛けていた。
お盆にオムライスを乗せ私の前に座った。
「天ぷら定食、量すごいね」
「……大盛りにしたので」
「ここ、安いしね。で、どうだった? 別れた?」
「別れたように見えますか?」
「全然。昨日抱きしめられてたしね」
……やっぱり! 私の見間違えじゃなかった。長谷川奏人はベランダの下から私達を見ていたんだ。
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