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名前を変えた。「ないこ」じゃなくて、「ないと」。文字だけ変えれば、誰にも見つからないだろう――そんな淡い期待を抱いての再出発だった。
最初は本当に小さな一歩だった。声だけが頼りの配信。顔は出さず、素性も隠して、深夜にこっそりマイクの前に座る。最初の半年は思ったよりも厳しくて、視聴者数はいつも数十から百に満たないことが多かった。再生数の伸びない動画、コメントが伸びない日々。心はまだ完全に軽くなってはいなかったけれど、歌っている間だけは目の奥が少し温かくなるような気がした。
それでも、ちょっとずつ変化は起きた。あるとき、昔一緒に活動してくれた歌い手――簡単に言えば、かつての仲間の一人が、配信を見つけてコメントを残してくれた。「その声、どこかで……」「久しぶり、元気にしてた?」と。俺は最初、身を固くした。素性を明かすつもりはなかったから、はぐらかす返事を打った。でも彼はしつこくなく、静かに誘ってくれた。雑談で少し話して、音源を一緒に作ろうって言ってくれたとき、胸の奥の何かがふっと緩んだ。
そのコラボがきっかけで、少しずつ人が増えた。信頼できる何人かの活動者と数回コラボをし、彼らのリスナーが俺を見つけてくれた。コメント欄で励ましてくれる人、歌ってほしい曲をリクエストしてくれる人、無言で投げ銭をしてくれる人――そんな小さな応援の塊が、いつの間にか重なっていって、俺の配信は「ないと」としての居場所になっていった。
配信では、少しずつ笑顔も戻った。顔は伏せたままだけど、声だけで笑うことを怖がらなくなってきた。配信の合間に雑談で「今日は調子いいね」と言われると、つい本当に嬉しくて笑ってしまう。心の中の重石はまだあったけれど、音の中にいる時間は、確かに楽になっていた。
だが、噂は広がる。リスナーの間で「これ、ないこくんじゃない?」という囁きが出始めた。俺は触れなかった。名前を変えた意味がある――それを壊すつもりはなかったし、自分から火種を撒くほど愚かでもないと思っていた。ただ、昔仲良くしてくれた活動者が、事情を察してか、配信内外でだけは俺を「ないと」として招き入れてくれた。彼らとは自然体で付き合えた。正体を明かしたのは、その人たちだけだ。彼らは俺のことを責めず、ただ一緒に歌い、笑い、時には励ましてくれた。コラボは続き、やがてそれが大きな波紋となった。
気づけば「ないと」は、思っていた以上に大きくなっていた。ランキング、再生回数、コラボのオファー――少し目を離すと、自分でも驚くほどに知名度は上がっていた。ステージやリアルイベントの話も来るようになり、仕事の依頼も増えた。あのときの俺からは想像できないほどの「成功」だったが、それを誰かに見せるつもりはなかった。自分だけの小さな箱の中で、静かに歌いたかった。
そして、あの日が来た。配信で「凸待ち」をしていた夜。活動者からのコールを待って、軽い雑談をしていると、画面に見慣れた名前が流れ込んできた。通知の文字列が一瞬で色を変え、コメント欄がざわつく。次から次へと、いつものファンとは違う語り口のコメントが押し寄せた──りうら、いむ、初兎、まろ、あにき。画面越しに見えないけれど、彼らの気配が一気に流れ込んできた。
俺は一瞬、手が固まった。心臓が変なリズムで跳ねる。全てを隠してきたこの「ないと」という名前が、いままさに暴かれようとしている。チャットは騒然となり、リスナーたちも気づき始めた。「ないと、違うでしょ?」「もう分かってるよ」と、優しい声が並ぶ。中には、「本当に本人だったら、無理はさせないで」といった気遣いの言葉もあった。
りうらのコメントは、いつもの冷静さを帯びていた。〈ないくん? 出てきてお願い……〉
いむは短く、だが熱を帯びていた。〈ないちゃん、聞かせて〉
初兎は関西弁で真っ直ぐに。〈おい、ないちゃん、どないしてんねん〉
まろは震える言葉で。〈ないこ……俺や、今から行く〉
あにきは黙っている代わりに、サムネイルに顔を映してみせた――画面上には彼らの顔が、訝しげに、心配そうに映っていた。
俺は最初、しらばっくれた。チャットで「違いますよ〜」と絵文字を並べ、冗談めかした軽い返しをした。けれど、リスナーたちが一斉に「いや、声が似てる」「でも顔出ししないって言ってたよね」「どうしたいの?」と優しく問いかける。彼らの暖かさに、俺の防御は徐々に薄くなっていった。
りうらのコメントに、特に心が揺れた。〈あの日、電話で叫んだこと、聞いた。ごめん。俺ら、遅すぎた。だけど、今夜はただ聞きたい。ないくんの声を、また近くで聞きたい〉
その一文は、怒りでも非難でもなく、ただ真摯な願いだった。胸のどこかに突き刺さる痛みと、同時に温度が返ってくるような感覚。何日も閉ざしていた扉を、誰かがそっとノックしているようだった。
コメント欄の優しさは止まらなかった。視聴者が、彼らの言葉を受けて次々と「戻ってきてほしい」「待ってるよ」「無理しなくていいから、ただ来て」と続ける。責める代わりの言葉、受け入れるための言葉。届くべき声が、あの夜は画面いっぱいに広がっていた。
俺は、おもむろにマイクを近づけた。顔は伏せたままだけど、声だけは震えを抑えきれず、しかし確かに届くようにした。
「……俺は、ないと、です。元、ないこです」
チャットが一瞬で爆発した。驚き、歓喜、涙の絵文字があふれる。画面の向こうで、メンバーの顔が崩れ、何人かはぽろぽろと泣き出していた。まろの目に光るものが見えたような気がした。いむの唇が震えている。初兎は俯いてしばらく言葉が出ない。りうらは、ただ黙って深く息をつき、その後でゆっくりと「来てくれてありがとう」と打った。
「なんで隠してたんだよ」と、まろは言った。声は低くて、どこか申し訳なさそうだった。
俺は言葉を探した。言い訳はいらない。説明は必要ない。いま伝えたいのはただ一つだった。
「ごめん。全部、俺の弱さのせいだ。助けてって言えなかった。だけど、今は……ここで歌うことが、一番楽なんだ」
りうらがそっと返した。〈それでも、俺らはここにいる〉
いむが続ける。〈無理しないで。いつでも帰ってきていいんだよ〉
初兎はぶっきらぼうに、でも本気で。〈ほんなら、これからは無理させへんで〉
あにきは、短く「よかった」とだけ言った。
リスナーたちの拍手と、メンバーの静かな声に包まれて、俺はようやく溶けるように息を吐いた。顔はまだ伏せていたけれど、胸の奥の氷がひとつ溶けた感覚があった。 confession──それは赦しを強制するものではなく、単に真実を明かすことだった。受け取る側がどう反応するかは別問題だが、今夜は、彼らが受け入れる準備をしてくれていた。
配信終盤、チャットにはこんな言葉が並んでいた。
「戻ってきてほしい」ではなく、「戻ってきてもいいよ」。その違いは大きかった。
俺は小さく笑って、マイクに向かって言った。
「ありがとう。まだ全部は戻らないかもしれないけど、ゆっくり……やっていきたい」
画面の向こうの誰かが「うん」とだけ返した。まろの声が、震え混じりに囁いた。
「無理はするなよ。頼むから、俺が守るから」
その言葉は、昔のような強さの約束じゃなかった。どちらかと言えば、脆くて真摯な誓い。俺はそれを受け取り、そして初めて、自分が孤独ではないことを実感した。
その夜、配信は長く続いた。メンバーも短い言葉を交わし、リスナーは温かい空間を作ってくれた。白状は完全な解決を意味しない。これからも乗り越えなければならないことは山ほどある。でも、少なくとも扉は閉じられてはいなかった。ゆっくり、また一歩ずつ、俺は「ないと」として生きていくことを選んだのだ。