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#ご本人様とは一切関係ありません
686
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あんにんどう腐(ゆ腐)
2,751
#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
2,469
展望台デート当日。
夕方。
タイキは家の鏡の前で、もう何度目かわからない視線を自分に向けていた。
服は、ちゃんと考えてきた。
気合いが入りすぎてると思われるのは嫌だった。
でも、何でもない日みたいに適当なのも違う。
濃い色のトップスに、少しゆるめのパンツ。
足元はいつもより少しだけ整ったスニーカー。
アクセサリーは控えめ。
髪も、無理に盛ってはいないけど、ちゃんと手を入れた。
鏡の中の自分は、たぶん普通だ。
普通、の範囲にいる。
でも、その“普通”を作るまでにかかった時間は、全然普通じゃなかった。
「……うわ」
小さく呟く。
緊張してる。
展望台に行くだけだ。
車で。
ルイと二人で。
たったそれだけなのに、胸の奥が落ち着かない。
スマホが震える。
画面を見る。
着いた
それだけのメッセージ。
タイキの喉が小さく鳴る。
「……行くか」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、玄関を出た。
エレベーターを降りて、マンションのエントランスを抜ける。
夕方の空気はまだ少しだけ明るい。
日が落ちきる手前の、やわらかい色。
道路脇に停まっていた車を見つけた瞬間、タイキの足がほんの少しだけ止まった。
ルイが、運転席側のドアにもたれて立っていた。
服装を見た瞬間、心臓がうるさくなる。
落ち着いた色のシャツに、細すぎない綺麗なシルエットのパンツ。
無駄なものは足していないのに、大人っぽい。
しかも、ちゃんと“今日”のために選んできた感じがある。
いつも仕事で見るルイとも違う。
オフのルイとも少し違う。
“タイキと出かける日”の服になっている。
それが、やけにわかってしまう。
ルイもタイキを見た。
今日のタイキは、前より少しだけ大人っぽい。
でも気取りすぎてない。
ちゃんと考えてきたのがわかる服。
無理してないのに、いつもより少しだけ整って見える。
ルイの目元が、ほんのわずかにやわらぐ。
タイキは少しだけ視線を逸らしてから戻す。
ルイは運転席側から身体を起こして、助手席の方へ回る。
自然な動きでドアを開けた。
「乗って」
その言い方が妙に自然で、タイキの胸がまた鳴る。
「……どうも」
小さく返して、助手席へ乗り込む。
ドアが閉まる音。
少しひんやりした車内の空気。
シートの感触。
ルイが回り込んで運転席へ戻る気配。
それだけで、もう逃げ場がないくらい二人きりだった。
エンジンがかかる。
ナビの画面が点く。
シートベルトの音が重なる。
ルイがハンドルに手を置く。
タイキもシートベルトを引き出して留める。
車が静かに発進する。
その瞬間、タイキは自分の指先が落ち着かないことに気づいた。
膝の上で、指を組む。
でも、組んでも落ち着かない。
また少しほどいて、もう一度組み直す。
(はじめてかよ……)
心の中でそう思う。
いや、実際、初めてに近いのかもしれない。
今までだって、二人でいたことはある。
家で。
スタジオで。
夜道で。
レコード店で。
でも、昨日のキスまでで、なんだか今までの全部が一回ほどけたみたいだった。
前の関係でもない。
曖昧なままの距離でもない。
ちゃんとキスしたあとで、はじめて車に乗って、展望台へ行く。
それはもう、ほとんど初恋みたいな空気だった。
何を話したらいいのかも、どこを見たらいいのかも、変に一つずつ意識してしまう。
ルイの横顔を見るのも落ち着かない。
見ないのも不自然だ。
窓の外を見ようとしても、視界の端にいるルイが気になる。
タイキは組んだ指先を、また少しだけ動かした。
落ち着かない。
でも、この落ち着かなさが嫌じゃない。
むしろ、ちょっとだけ甘かった。
ルイはハンドルを握ったまま、横目でほんの少しだけタイキを見ていた。
落ち着いてない。
膝の上で組み直される指先。
窓の外へ向けた視線の、その少し手前で揺れる意識。
何でもない顔をしようとして、できていない感じ。
それが、妙に愛しかった。
自分だって落ち着いてるわけじゃない。
むしろ結構まずい。
助手席にタイキがいる。
それだけで、昨日のキスの余韻が車内の空気にまで残ってる気がする。
しかも今日は、ちゃんと考えてきた服を着ている。
待ち合わせで降りてきた時の、少しだけ緊張した顔も見た。
そんな相手が隣にいるのに、何でもない顔で運転だけしていられるほど、ルイは余裕じゃなかった。
でも、こういう時にあからさまに照れると、たぶんタイキまで余計に固くなる。
だから、自分の方が少しだけ先に落ち着いてやらないといけない。
ルイは前を見たまま、小さく口を開いた。
「……お前、今日ちゃんと考えて来ただろ」
タイキの肩がほんの少しだけ動く。
「は?」
「服」
それだけ言うと、タイキは少し遅れて顔をしかめるみたいにした。
「何だよ、それ」
「いや」
ルイは口元だけで少し笑う。
「いつもよりちょっと大人っぽいから」
その一言に、タイキの耳がわずかに熱を持つ。
見られてる。
ちゃんと。
しかも、さらっと言う。
「……ルイもだろ」
少しだけぶっきらぼうに返す。
「今日、なんか……」
その先が少し詰まる。
かっこいい、って言えばいいのに。
でも、そのまま言うにはまだ少し照れる。
ルイはその詰まり方で、だいたい察した。
「なんか?」
少しだけ意地悪く返す。
タイキは視線を前へ戻した。
「……大人っぽい」
ルイの喉が、小さく鳴る。
それだけで充分だった。
「そうかよ」
低く返す。
でも、その声は思っていたよりやわらかかった。
それで少しだけ空気がほどける。
ルイはそのまま、何でもない話題を探す。
緊張を解くように。
でも、不自然じゃないように。
「最近、スタジオで流してたデモ」
「お前、あれのベースライン好きそうだったな」
タイキが少しだけ目を上げる。
「なんで」
「聴いてる顔してた」
「何だよ、聴いてる顔って」
「あるだろ」
「雑すぎ」
少し笑いが混ざる。
それだけで、車内の空気がだいぶ変わる。
さっきまでの“どうしたらいいかわかんない”感じが、少しずつ“ちゃんと会話になる”方へ寄っていく。
ルイは続ける。
「でも、最近ああいうの多いよな」
「ちょっと乾いた感じのやつ」
「うん」
タイキも自然に返す。
「でも俺、最近はもうちょいメロある方がいいかも」
「へぇ」
「なんか」
少しだけ考える。
「ちゃんと余韻あるやつ」
その言い方に、ルイの胸がほんの少しだけ鳴る。
余韻。
昨日のキスのことまで勝手に繋がってしまって、内心で少しだけ苦く笑う。
「……わかる」
短く返す。
そこから、自然に音楽の話へ広がっていく。
最近聴いた新譜。
スタジオで流れてた曲。
夜に聞くといいやつ。
移動中にハマるやつ。
会話が続くにつれて、タイキの指先も少しずつ落ち着いていった。
緊張が消えたわけじゃない。
でも、“隣にいるルイ”がちゃんといつもの声で話してくれるだけで、息がしやすくなる。
ルイはその様子を横目で見ながら、内心で少しだけ安堵する。
よかった、と思う。
今日はまだ始まったばかりなのに、車内で固まりきったまま展望台まで行くのはきつい。
だからこうして、少しずつ解いていく。
タイキがちゃんと話せる方へ。
自分も、変に意識しすぎない方へ。
それが今のルイにできる、いちばん自然な優しさだった。
少し沈黙が落ちる。
でも、さっきまでの張りつめた無言じゃない。
音楽の話をしたあとに来る、ちゃんと心地いい沈黙だった。
タイキは窓の外を見ながら、その沈黙の中で少しだけ考える。
ルイは最近、何を聴いているんだろう。
自分が知らない時間の中で。
夜に。
車の中で。
家で。
そういうことがふと気になった。
今のルイが何を選んで聴いてるのか知りたくなった。
「ルイは?」
タイキが言う。
ルイが少しだけ目を向ける。
「ん?」
「最近、何聴いてる?」
その問いに、ルイの目がほんの少しだけやわらぐ。
音楽の話が、ちゃんとタイキの方から返ってきたことが嬉しかった。
「最近?」
「うん」
ルイは少しだけ考える。
ハンドルを握る手。
前を見たまま選ぶ言葉。
「前より、夜っぽいやつ多いかも」
タイキが少しだけ首を傾げる。
「夜っぽい?」
「落ち着いてるけど、ちゃんと熱あるやつ」
その言い方が妙にルイらしくて、タイキは少しだけ口元を動かした。
「何それ」
「抽象的すぎる」
「そういうの多いだろ」
ルイも少し笑う。
「音少なめで、でも感情ちゃんとあるやつ」
「……あぁ」
タイキはゆっくり頷く。
「それ、なんかわかる」
ルイはそこで、少しだけ横目にタイキを見る。
「この前タイキとスタジオで曲聞いてから、余計そういうの聴きたくなった」
その一言が、静かに落ちる。
タイキの呼吸が、一瞬だけ止まる。
この前タイキと。
それが何を指してるかなんて、聞くまでもなかった。
「……言い方」
タイキが少しだけ困ったみたいに言う。
ルイは前を見たまま、でも口元だけで少し笑った。
「何が」
「ずるい」
「またそれかよ」
「だってそうだろ」
タイキは窓の外へ視線を逃がす。
でも、頬のあたりが少しだけ熱い。
ルイはそんな横顔を見て、少しだけ息を吐く。
この空気が好きだと思う。
過剰に甘いわけじゃない。
でも、先日のキスがちゃんと残ったまま、今日の会話へ続いてる。
そういう今のふたりの感じが、たまらなく好きだった。
車は静かに坂道へ入っていく。
空が少しだけ近くなる。
展望台までは、もう少し。
隣にはタイキがいる。
助手席で、さっきよりだいぶ自然な顔になって。
でも、たまにまだ昨日の余韻に引っ張られたみたいに静かになる。
それを横目に見ながら、ルイはハンドルを少しだけ握り直した。
今日のデートは、たぶんまた、静かに心臓が忙しい。
車内には、ちょうど会話がひと段落したあとの静かな空気が流れていた。
気まずいわけじゃない。
でも、音楽の話をして、少し笑って、そのあとに来る沈黙には、ちゃんと昨日のキスの余韻も混ざっている。
ルイはハンドルを軽く握ったまま、前を見ていた。
道は緩やかにカーブして、少し先に短いトンネルが見える。
「そろそろ着くぞ」
低く落ちる声。
タイキが助手席で少しだけ顔を上げる。
「ほんとに?」
「あと少し」
ルイがそう言ったちょうどその時、車はトンネルへ入った。
暗さが一瞬だけ車内を包む。
フロントガラスに映る計器の光。
エンジンの低い音。
昨日の夜みたいに、少しだけ閉じた空間。
でも、その暗さは長く続かなかった。
数秒後。
ふっと、視界が開ける。
トンネルを抜けた瞬間、タイキ側の窓の向こうに、海が広がった。
「……っ」
思わず、小さく息を呑む音が漏れる。
夕方の光を受けた海は、もう真昼の青じゃなかった。
少しだけ色を落として、でも静かにきらめいている。
水平線が遠くて、空と海の境目がやわらかく曖昧になっている。
目的の展望台は、もう少し先。
でもそこへ向かう途中のこの景色だけで、十分なくらい心を持っていかれる。
タイキは思わず窓に手をついた。
ガラス越しに、広がる海を見る。
目が少しだけ開いて、子どもみたいに素直な顔になる。
「すご……」
その声は、完全に無防備だった。
ルイはその横顔を見て、思わず口元をやわらげる。
こういう時のタイキは、本当に隠さない。
良いと思ったら、そのまま顔に出る。
心が動いた瞬間が、そのまま目に出る。
それが、たまらなく好きだとルイは思う。
「気に入った?」
少しだけ笑いを含んだ声で聞くと、タイキは窓の外を見たまま頷いた。
「うん……」
それから少しだけ遅れて、照れたみたいに付け足す。
「……思ってたより、全然いい」
その言い方に、ルイはまた小さく笑った。
「何だよ、その上からの感想」
「上からじゃねぇよ」
「そういう顔してる」
「してない」
窓に手をついたまま言い返すタイキの声は、さっきまでよりずっと自然だった。
景色に心を奪われたぶん、緊張が少しだけほどけたのかもしれない。
でも、ルイの方は逆だった。
そんなタイキを見てしまったせいで、胸の奥がまた静かに鳴っていた。
海を見てるだけなのに。
ただ窓に手をついてるだけなのに。
それだけで、優しく笑ってしまう自分がいる。
展望台までの残りの道が、やけに短く感じた 。
展望台の駐車スペースは、平日だからか人が少なかった。
ルイが車をゆっくりと停める。
エンジンの音が落ちて、車内に静けさが戻る。
さっきまで流れていた空気が、そのまま閉じ込められたみたいだった。
「着いた」
ルイが言う。
タイキはまだ少しだけ窓の外を見ている。
でもすぐに、「うん」と返した。
シートベルトを外す音が、ほとんど同時に重なる。
カチ、と小さな音。
それだけで、また妙に意識してしまう。
ドアノブに手をかける前に、二人ともほんの一瞬だけ動きを止めた。
理由なんてない。
でも、何となく。
タイキが先に顔を上げる。
ルイも、同じタイミングでそちらを向く。
目が合う。
たったそれだけ。
なのに、昨日のキスの余韻が一瞬で戻る。
静かなスタジオ。
止まった音。
同時に寄った距離。
それが、車を降りる前のこんな何でもない一瞬にまで残っている。
タイキの喉が小さく動く。
ルイも、少しだけ目を細めた。
「……何」
タイキが先に言う。
ルイは一瞬だけ間を置いてから、低く返す。
「いや」
少しだけ口元をやわらげる。
「降りるかと思って」
それだけの返しなのに、タイキの心臓がまた鳴る。
「降りるよ」
「ならよかった」
「何が」
「そのまま見てたら」
ルイは視線を少し落としてから、またタイキを見る。
「多分、また変な空気になる」
その言い方に、タイキは思わず少しだけ笑いそうになる。
「もうなってるだろ」
「それもそう」
ルイも小さく笑う。
ほんの数秒のアイコンタクトだけで、またドキッとする。
そんなの、もうだいぶどうかしてる。
でも、嫌じゃない。
むしろ、この感じごと大事にしたいと、二人ともどこかで思っていた。
ルイが先にドアを開ける。
夕方の風が車内へ流れ込む。
少し冷たくて、潮の匂いがした。
タイキも助手席のドアを開けて外へ出る。
地面に足をつけた瞬間、さっきまでの閉じた空気が一気に広がって、でも胸の中だけはまだ狭いままうるさかった。
⸻
展望台へ続く柵の向こうには、海が広がっていた。
高い場所から見る海は、車の中から見た時よりもっと静かだった。
波の細かい白さも、遠くの船も、夕方に傾き始めた空も、全部が少しだけゆるやかに見える。
タイキは数歩先へ出て、その景色を見た。
言葉が少しだけなくなる。
本当に、綺麗だった。
写真で見るのとは違う。
音も、風も、光の温度も、全部ちゃんとある景色。
ルイはその少し後ろで、タイキの背中を見たあと、ゆっくり隣へ並ぶ。
二人の間にあるのは、触れないけど遠くない距離。
ルイは一瞬、視線を落とした。
それは景色の前で言葉を選んでいるみたいでもあり、隣にいるタイキを意識しすぎないようにしているみたいでもあった。
それから、もう一度タイキを見る。
「良い景色だな」
低く、静かな声。
その言葉のあと、ルイは少しだけ遠くを見た。
風が吹く。
ルイの頬を、やわらかく撫でる。
前髪が少し揺れて、耳のあたりの髪がふっと流れる。
その横顔が、あまりにも綺麗だった。
景色のはずなのに。
海のはずなのに。
タイキの心は、一瞬そっちじゃなくルイに持っていかれる。
(……やば)
夕方の光を受けた横顔。
風に揺れる髪。
少しだけ細めた目。
ルイはただ景色を見ているだけなのに、その一瞬だけでタイキの胸の奥が静かに揺れた。
海を見に来たはずなのに。
展望台の景色を見たかったはずなのに。
今の自分は、その景色の中に立っているルイの方を見てしまう。
その事実が、少しだけ悔しくて。
でも、どうしようもなく嬉しかった。
タイキは視線を戻そうとして、でも戻せないまま小さく息を吐いた。
ルイは気づいていないのか、気づいていてあえて何も言わないのか。
その横顔のまま、海の向こうを見ている。
風がまた吹く。
タイキはその音の中で、胸の奥の音が少しだけ大きくなるのを感じていた。
景色だけで揺れたんじゃない。
その景色の中にいるルイごと、心が持っていかれていた。
⸻
夕方の風が、展望台の柵を越えて静かに吹いていた。
海は遠くまでひらけていて、空の色は少しずつ夜へ向かい始めている。
風に髪を揺らされながら、ルイは少し先の水平線を見ていた。
その横顔を、タイキは見ていた。
景色が綺麗だと思った。
でも、それと同じくらい、いやそれ以上に、今この景色の中にいるルイがやけに綺麗で、どうしようもなく胸が鳴る。
何か言わなきゃ、と思う。
でも、言葉にすると少し違う気もする。
だからタイキは、何も言わずに手を伸ばした。
隣にあるルイの手。
風に少し冷えた指先。
その手の甲に、自分の指先がそっと触れる。
ルイの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
でも、引かない。
タイキはそのまま、ルイの手を取る。
最初は、確かめるみたいに。
指先を引っかけるだけの、不器用な繋ぎ方。
ルイは一瞬だけ目を落とした。
それから、何も言わずに、自分の指をゆっくり動かした。
タイキの指の隙間へ、交互に絡めるように差し込んでいく。
ただ手を握るんじゃない。
ちゃんと、指まで絡める。
その一つひとつの動きがあまりにも丁寧で、タイキの喉が小さく鳴る。
指先が絡まって、手のひらがぴたりと重なる。
体温が伝わる。
タイキは何も言わずにルイを見た。
ルイもまた、タイキを見た。
海の風。
夕方の光。
繋がった手。
その全部の真ん中で、ルイが小さく溢す。
「……どした」
低くて、やわらかい声。
タイキは少しだけ唇を動かした。
でも、最初はうまく言葉にならない。
言ったら、たぶん照れる。
でも、今は言わない方がもっとおかしい。
だからそのまま、ぽつりと落ちた。
「キス、しねぇの……」
ルイが一瞬、目を瞬かせる。
本当に一瞬だけ。
それから、ふっと優しく笑った。
その笑い方があまりにもやわらかくて、タイキの胸の奥がまた少し揺れる。
ルイはそのまま少し屈むように、首を傾けてゆっくり近づいてくる。
繋いだ手は離れない。
もう片方の手も動かさないまま、ただ距離だけが静かに縮まる。
一瞬、止まる。
近い。
ルイはその距離で、ちゃんとタイキの目を見た。
確認するみたいに。
タイキは小さく顎を上げる。
それが答えだった。
そして、優しく唇が重なった。
今度のキスは、昨夜のスタジオとは少し違う。
夜の密室の熱じゃない。
風のある外で、景色の中で、ちゃんと明るさが残っている場所でするキス。
でも、やさしさの深さは同じだった。
繋いだ手の温度。
少し冷えた風。
夕方の匂い。
その全部の中で、唇だけがあたたかい。
ルイは押しつけない。
でも、離れもしない。
タイキもまた、静かにその熱を受け止める。
短い。
でも、ちゃんと満ちるキスだった。
そっと離れていくルイの唇。
名残を残すみたいに、ほんの少しだけゆっくり。
ルイはタイキのすぐ近くにいたまま、小さく笑う。
「ロマンチックなやつ、だな」
そう溢す声音には、少しだけ照れが混ざっていた。
タイキはその言葉に何も返さず、いったん遠くの景色を見る。
海。
空。
夕方の光。
でも、そのどれもちゃんと見えていない。
胸の方がうるさいからだ。
繋いだ手を、きゅっと握り返す。
ルイが少しだけ目を細めた。
タイキは視線を少し落としたまま、落ち着かない指先でルイの手を握ったまま言う。
「俺は……むしろ、足りない」
その一言が落ちた瞬間、ルイの心臓がどくんと鳴る。
タイキは視線を落としたままで、少しだけ落ち着かない。
でも、その言葉だけは妙に正直だった。
ルイはそれに思いきりやられる。
「……また……そういうこと言う……」
低く、でもどこか困ったみたいに溢す。
タイキはすぐに顔を上げる。
「違う……キスの話、してる」
少し声がこもる。
照れてるのか、ほんの少しだけ拗ねてるのか、自分でも整理しきれてない顔だった。
でも、その言い方が余計にルイには効く。
ルイは小さく息を吐いた。
「同じことだろ……」
ため息混じりにそう言う。
「お前に関しては……どれにしても」
「やばいんだって」
そう言いながら、自分の頭の後ろを撫でる。
照れ隠しみたいな仕草。
でも、それすらルイらしくて、タイキの胸に残る。
そう言われたタイキは、少しだけ口を尖らせた。
「……じゃあ、ずっと我慢してろ」
完全に、拗ねモードだった。
言ってから、自分でも少しだけ幼いと思う。
でも、止められなかった。
ルイはそんなタイキをしばらく見つめたまま、何も言わない。
それから、繋いでいない方の手を、そっと上げた。
タイキの頬へ。
はじめてだった。
そんなふうに、真正面から頬に触れられるのは。
手のひら全部で包むんじゃない。
ただ、頬に優しく添えるだけ。
その瞳は穏やかで、少しも急いていない。
親指が、そっと頬を撫でる。
本当にやさしく。
なだめるみたいでもなく、ただそこにあるものを大事に確かめるみたいに。
タイキの呼吸が、そこでまた浅くなる。
拗ねてたはずなのに、耳だけが先に赤くなる。
「なんだ、その顔……」
まだ少し拗ねたまま、でもさっきよりだいぶ弱い声で言う。
ルイから視線を逸らしたい。
でも、逸らせない。
頬にある指先のやさしさと、穏やかに見つめてくる目に、完全に捕まっていた。
ルイはそのまま、ほんの少しだけ口元をやわらげる。
「……好きって顔じゃない?」
その言葉は、風の音の中に静かに落ちた。
その言葉が落ちた瞬間、タイキの思考はほとんど止まった。
風の音。
海の匂い。
夕方の光。
繋いだ手の熱。
全部あるのに、全部が少し遠くなる。
好きって顔。
そんなの、言われなくてももうバレてるのかもしれない。
いや、たぶん前から少しずつ見抜かれていた。
でも今、こうして真正面から言われると、もう逃げ場がなかった。
しかもルイは、ただ言っただけじゃない。
頬に触れて。
親指でやさしく撫でて。
その穏やかな目のままで言った。
そんなの、無理だろと思う。
拗ねてたはずだった。
“足りない”って言ったのに、困ったみたいな顔をされて。
我慢してろ、なんて強がって。
なのに今の自分は、その全部がもうぐちゃぐちゃだ。
好きだ。
たぶん今、自分の顔はほんとにそういう顔をしてる。
ルイにもっと触れてほしい。
でもそれだけじゃなく、自分からも触れたい。
昨日のキスも、さっきのキスも、受け取るだけじゃ足りない。
ちゃんと、自分から返したい。
その気持ちが、言葉より先に胸の中で大きくなる。
ルイの目は、まだやさしい。
余裕があるわけじゃないのに、逃がさないでもなく、急かしもしない。
ただ、タイキがどうするかを静かに待ってる目。
それがまた、どうしようもなく好きだった。
もう、無理だ。
好きって顔してる、なんて言われたら。
その顔ごと見つめられたら。
このまま見てるだけで終われるわけがない。
タイキは小さく息を呑む。
耳が熱い。
頬も熱い。
心臓はさっきからずっと落ち着かない。
でも、もういいと思った。
恥ずかしいとか。
言葉にすると照れるとか。
そういうのは全部、今は後ろに置いていい。
今、したいことは一つだけだった。
タイキは、頬に触れたままのルイを見た。
ルイの指先はまだやさしい。
でも、そのやさしさの奥で、ちゃんと熱を持っているのがわかる。
「……何」
ルイが小さく言う。
たぶん、本気でわかってないわけじゃない。
でも、あえて急かさないために置いた言葉。
タイキはその問いに答えなかった。
代わりに、繋いだ手に少しだけ力を込める。
ルイの目が、ほんの少しだけ揺れた。
それでも、頬にある手は離れない。
タイキはそのまま一歩だけ近づく。
靴の先が、ルイの足元に少しだけ寄る。
風が吹く。
でも、もう何も考えられない。
タイキは視線をルイの瞳に置いたまま、ほんの少し顎を上げた。
そして今度は、自分から唇を重ねた。
最初は、触れるだけみたいに軽く。
でも、その“軽く”に、タイキの全部が乗っていた。
言葉にできなかった分。
好きだと認めた分。
足りないと思った分。
さっきの「好きって顔」に完全にやられた分。
その全部を、少し震えるみたいな最初のキスに込める。
ルイの唇が、ほんの一瞬だけ止まる。
驚いたんだと思う。
でも、それは拒絶じゃない。
タイキは離れなかった。
逃げるためじゃなく、ちゃんと返すためのキスだから。
昨日、ルイがしてくれたみたいに。
選んで。
自分の意思で。
ルイの呼吸が小さく乱れるのがわかる。
それでも、タイキは目を閉じたまま、もう少しだけ近づいた。
今のは、ルイに言葉で返す代わりだった。
好きって顔、してる。
そう言われたなら。
だったら、もう隠さない。
自分からキスをする。
それが今のタイキにできる、いちばんまっすぐな返事だった。
ルイの中で何かが静かに切れた。
優しくしよう。
急がないように。
ちゃんと見て、ちゃんと止まるように。
そう思っていたはずなのに、今、自分からキスを返してきたタイキを前にすると、その理性の輪郭が少しだけ曖昧になる。
嬉しい、が最初に来た。
そのあとで、愛しい、が一気に広がる。
ルイは頬に触れていた手を少しだけ深く添え直した。
もう片方の手も、繋いだままの熱を離さない。
そして、タイキのキスに静かに返した。
受けるだけじゃなく。
でも奪いすぎるでもなく。
タイキが自分から来た、その勇気も熱も、ちゃんと抱きとめるみたいな返し方で。
唇が、離れない。
さっきの軽いキスとは違う。
もっと静かで、もっと深い。
タイキはルイのキスを受けながら、少しずつ後ろに重心を倒した。
無意識だった。
でも自然な流れで、背中が車のリアドアに触れる。
小さく、服の擦れる音。
それでも唇は重なったままだった。
ルイはそんなタイキを追い詰めるみたいにはしない。
でも、離しもしない。
ただ、近い。
手の中にある頬の熱。
リアドアに預けられた身体。
閉じた瞼の揺れ。
全部が近すぎて、ルイの胸の奥がひどく鳴る。
キスをしながら、ルイは時折、瞼を薄く開けた。
タイキの表情を確認するために。
苦しくないか。
怖くないか。
ちゃんと同じ気持ちでここにいるか。
その確認は、もう恋だと気付いてから癖みたいなものだった。
でも、薄く開いた視界に映るタイキは、あまりにもやわらかかった。
頬は少し赤い。
瞼は閉じられているのに、睫毛が微かに震えている。
唇は、受けるだけじゃなくちゃんと返してきていて。
その顔を見た瞬間、ルイの胸の奥はほとんど痛いくらいに熱くなる。
愛しい、と思う。
本当に。
今までのどの瞬間よりも、はっきりと。
だからキスは、余計にやさしくなる。
深くしたい気持ちはある。
もっと触れたい気持ちもある。
でも今は、それより先に、タイキが自分からしてくれたこのキスを、ちゃんと大事に受け取りたかった。
タイキもまた、車に背中を預けたまま、ルイの返すキスを受けていた。
優しい。
それなのに、離れない。
ただ唇が重なっているだけなのに、そこにある熱が濃い。
ルイの息。
手のひらの温度。
少しだけ近づく身体。
全部がやさしいのに、ちゃんと欲がある。
その感じがたまらなくて、タイキの指先が少しだけルイの服を掴みそうになる。
でも、ぎりぎりで止まる。
代わりに、繋いだままの手へ少しだけ力を込めた。
ルイはその小さな反応に気づいて、キスの最中なのに胸の奥をまた打たれる。
今の、好きだ。
声にしなくてもわかる反応。
受け取ってるだけじゃなく、ちゃんとここにいるって伝えるみたいな仕草。
その全部が、ひどくルイを揺らした。
キスは長かった。
激しいわけじゃない。
でも短くもない。
離れたくなくて。
でも、離れないままだと本当に危ないことも、どこかではちゃんとわかってる。
そのぎりぎりのところで、ふたりとも静かに相手を味わっていた。
夕方の風が、また少しだけ吹く。
海の匂い。
遠くの車の音。
展望台の静けさ。
その全部の中で、車のリアドアにもたれたタイキと、その前に立つルイだけが、別の熱を持っていた。
やがて、ルイがほんの少しだけ角度を変えて、最後にやさしく触れるみたいにもう一度唇を重ねる。
名残を残すキスだった。
離れたくない。
でも、ずっとこのままではいられない。
その両方が、ちゃんと伝わるような。
そうしてようやく、ほんの少しずつ唇が離れていく。
でも呼吸はまだ近くて、額が触れそうな距離のまま。
ルイの瞼はまだ少し熱を残していて、タイキの肩も小さく上下していた。
キスのあとに残る静けさすら、愛しかった。
ルイの唇が、名残を引くみたいにゆっくりと離れる。
伏せていた瞼がほんの少しだけ開いて、その奥の瞳が静かにタイキを覗いた。
その視線とぶつかった瞬間、思わずタイキの喉が上下する。
近い。
まだ近い。
さっきまで重なっていた熱が、そのまま空気の中に残っている。
呼吸も、手の温度も、全部まだ途中みたいだった。
何より、ルイが自分を見つめるその表情が、あまりにも綺麗だった。
やわらかいのに。
熱を隠してなくて。
それでも、ちゃんと理性がある顔。
そんな顔で見られたら、もう何も考えられなくなる。
「車……戻る?」
タイキが掠れた声で漏らす。
自分でも何を言ってるのか少しわからない。
でも、このまま展望台の風の中で立っていたら、また何かが起きそうで。
視線はルイから離せないまま、手だけが落ち着きなく何かを探した。
ルイは目を細める。
その瞬間。
タイキの手の先で、カシャン、と小さな音がした。
ルイの視線が一瞬だけ横へ流れる。
リアドアのロックが、手の弾みで外れていた。
ルイはそこで、小さく息を飲んでから、低く溢した。
「タイキ……」
「……ん」
「そこ、後ろ」
タイキの呼吸が、ぴたりと止まる。
リアドアが重みで、ほんの少しだけ開いていく。
「あ」
頭の中が一瞬で真っ白になる。
(やらかした……)
(この流れは……)
(……やばい……)
ルイがタイキの顔の横へ手を伸ばす。
また顔が近づく。
さっきのキスの余韻が一気に戻ってきて、タイキはそのままギュッと目を瞑った。
心臓の音がうるさい。
どくん、どくん、と耳の奥で鳴る。
近づく気配。
頬をかすめる風。
ルイの体温。
一拍。
二拍。
それから、小さな金属音。
カチ、と乾いた音がして、開いたリアドアが閉まる。
「……え」
そろり、とタイキは目を開けた。
視界に入ったのは、すぐ目の前のルイの肩口だった。
ルイの片腕はタイキの顔の横を越えて伸びていて、その手がリアドアを押し戻したところだった。
タイキは完全にルイの腕の内側に閉じ込められているみたいな格好で、でもルイの視線はちゃんとドアの方へ向いている。
上から扉が閉まったのを確認したあとで、ルイの顔がゆっくり正面へ戻る。
その動きに合わせて、ルイの呼吸がタイキの耳元をそっと撫でた。
近い。
近すぎる。
さっきのキスより、別の意味で危ない距離だった。
「…ほんと、危ない」
困ったように笑うルイの顔が、あまりにも優しい。
その顔を間近で見た瞬間、タイキの顔が一気に熱を持った。
「違……」
咄嗟に出た声は、情けないくらい掠れていた。
何が違うのか、自分でもわかってない。
いや、わかってる。
勝手にまたキスの流れだと思った。
目を閉じた。
少し先を期待した。
全部、顔に出てる。
ルイはそんなタイキを見て、一瞬だけ目を丸くしてから、ふっと息で笑った。
笑い声を立てるほどじゃない。
でも、確かにわかってしまった顔だった。
「何想像した」
低くて、少しだけ意地悪な声。
タイキは言葉に詰まる。
「……うるさい」
「否定しないんだな」
「できるかよ……」
そう言ってから、タイキは自分で余計に墓穴を掘った気がして、ぐっと眉を寄せた。
ルイの目元がまたやわらぐ。
責めるんじゃなくて。
面白がるでもなくて。
ただ、愛しいものを見るみたいに。
それが余計に、タイキの逃げ場をなくす。
ルイはまだ近いままだった。
完全には離れない。
でも、またキスするわけでもない。
その絶妙な距離で、タイキの反応を見ている。
「……顔、真っ赤」
ぽつりと落とす。
「誰のせいだよ」
「半分はお前」
「うるさい……」
拗ねたみたいに返すと、ルイは小さく笑った。
それからようやく、タイキを囲っていた腕をゆっくり戻して、一歩分だけ距離を空ける。
でも繋いだ手は離さないまま。
「車、戻るか」
今度はルイが言う。
さっきタイキが言った同じ言葉なのに、ルイの声だと妙に落ち着いて聞こえる。
タイキはまだ少し熱の残る顔のまま頷いた。
「……うん」
ルイはそのまま手を引くでもなく、ただ自然な強さで指を絡めたまま助手席の方へ回る。
タイキもついていく。
歩幅は遅い。
でも、手の熱だけははっきりしている。
車の前まで来たところで、ルイが立ち止まる。
助手席のドアを開ける前に、もう一度だけタイキを見る。
「次から」
「ん?」
「落ち着いてからドア触れ」
その言い方に、タイキは一瞬だけ黙ったあと、ふっと視線を逸らした。
「……善処します」
「全然信用できねぇ」
「今のはお前の距離が悪い」
「俺のせいかよ」
「そうだよ」
言い切ると、ルイはとうとう声を出して少しだけ笑った。
その笑い方が嬉しくて、悔しくて、タイキは口を尖らせる。
でも、もうさっきみたいな恥ずかしさだけじゃなかった。
こうやって笑い合えるのも、今のふたりの距離なんだと思うと、胸の奥がやわらかくなる。
ルイは開けた助手席のドアに手をかけたまま、少しだけ身を寄せる。
さっきみたいに近づきすぎない。
でも、ちゃんとタイキにだけ届く距離で。
「安心しろ」
低い声。
「今のでも、充分かわいかった」
タイキの耳まで一気に赤く染まる。
「……っ、ほんと最悪」
「褒めてる」
「それが最悪なんだって」
ルイはまた小さく笑う。
そして今度こそ、タイキを助手席へ促した。
夕方の海風は少しずつ冷たくなってきていたのに、ふたりの間に残る熱だけは、まだ全然引く気配がなかった。
タイキは少し下を見たままで、その横でルイはシートベルトを閉めていた。
カチ、と小さな音。
その音だけがやけに車内に響く。
夕方の光は少しずつやわらいで、フロントガラスの向こうの海も、さっきより静かな色に沈み始めていた。
なのに、車の中の空気だけがまるで落ち着かない。
ルイはエンジンをかける前に、ふと助手席を見た。
タイキはまだ少し下を向いている。
さっき車の外で起きたことも、その前のキスも、全部がまだ残ってるみたいな顔だった。
ルイは少しだけ口元を緩めて、低く言う。
「シートベルト、忘れるなよ」
そう声をかけると、タイキはシートベルトに手を伸ばさず、ルイを見た。
ルイはゆっくりそちらを向く。
タイキは少し上目のままで、ルイを見ている。
何か言いたげで。
でも、言葉にしないまま。
その視線に、一瞬だけルイの視線が泳いだ。
危ない、と思う。
またそういう顔をする。
そういう顔で、何でもないふうにこっちを見る。
「……何」
ルイが小さく溢す。
タイキは答えない。
その代わり、ゆっくり手を伸ばした。
ルイの方へ。
ルイは一瞬だけ身構える。
でも、その手が向かった先は、ルイの胸元のシートベルトの金具だった。
タイキの指先が、そっとその金具に触れる。
ひやりとした金属の感触と一緒に、ルイの呼吸が小さく止まる。
「タイキ……」
声が少し枯れる。
タイキは何も言わない。
そのまま指先が、ゆっくり下へ滑る。
金具から、シートベルトの帯をなぞるみたいに落ちていって、最後にルイの手を見つけた。
そして、その指先だけを握る。
少し不器用に。
触れ慣れていないみたいに。
でも、たしかに離したくないみたいに。
ルイはすぐには動かなかった。
動けなかった、に近い。
シートベルト越しに縛られたままの体。
近すぎる助手席。
指先に重なるタイキの手。
その全部が、またあまりにも静かに心臓へくる。
タイキはそのまま、ゆっくり身を乗り出した。
瞼を伏せる。
呼吸を止めるみたいに、少しだけ息を吸って。
そして、そのままルイにキスをした。
唇が重なる。
思わずルイも目を閉じる。
最初は薄く。
でも、ちゃんと自分から来たキスだった。
タイキの唇は少しだけ熱くて、でも焦ってはいない。
確かめるように、でも離したくないみたいに、やさしく触れてくる。
一度離れるかと思った。
けれどタイキは唇を離さなかった。
薄く唇を開いて、止めていた呼吸を吸い込む。
それからまた息を止めて、もう一度唇を重ねる。
その二度目に、ルイの胸の奥が大きく鳴った。
(マジか……)
動けない。
いや、動かない方がいいのかもしれない。
でも、それ以上にタイキのキスがあまりにまっすぐで、下手に何かすると壊してしまいそうだった。
ルイはそのまま、タイキのキスを受け止めた。
ただ受け止めるだけのつもりだったのに、タイキの唇が思っていたより離れない。
近い。
近すぎる。
助手席から身を乗り出したタイキの体重が少しずつこっちへかかってくる。
「タイ……ちょ……」
さすがに少し焦って、ルイは思わずタイキの肩に手を添えた。
押し返すためじゃない。
でも、このまま完全に倒れ込まれても危ない。
タイキの肩越しに、夕方の海が少しだけ見える。
車の中は静かで、シートベルトに縛られたままの自分だけがやけに無防備だった。
そんな中で、タイキが小さくルイの名前を呼んだ。
「……ルイ……」
その声は、キスの合間に落ちた声だった。
掠れていて。
熱があって。
甘いとか、そういう軽い言葉じゃ足りないくらいに、真っ直ぐだった。
その一言で、ルイの中でひとつ何かが弾けた。
心臓の奥で、ぎりぎり保っていた理性の端が、小さく音を立てて切れる。
タイキのキスを少し上から受け止めたまま、ルイはゆっくり手を伸ばした。
タイキの顔へ。
頬に。
耳のあたりへ。
やさしく、壊さないように。
どうしたら今この瞬間を満足してくれるだろうか、なんて考える自分が、まだかろうじている。 まだ理性は生きている。
でも、その理性ごと抱えたまま、ルイはタイキの顔を包んだ。
親指が頬に触れる。
熱い。
ルイは一度だけ呼吸を整えるみたいに小さく息を吐いて、それから深く、キスを返した。
今度はルイから。
やさしく。
でも、もう迷わない。
タイキの唇に重なって、そのまま少しだけ角度を変える。
受け止めるだけじゃなく、ちゃんと返す。
お前がここまで来たなら、こっちももう止まれないと伝えるみたいに。
タイキの肩が小さく揺れる。
ルイの手の中で、その反応が全部わかる。
息を呑んだことも。
少しだけ緊張したことも。
それでも離れなかったことも。
それが、たまらなく愛しかった。
ルイは顔を包んだまま、唇を重ね続ける。
さっきまでのタイキのキスは不器用だった。
でも、その不器用さごとまっすぐで、だからこそルイには強かった。
その熱に返すみたいに、ルイのキスは少しだけ深くなる。
乱暴ではない。
でも、やさしいだけでもない。
好きだと思う。
大事だと思う。
触れたいと思う。
その全部を押しつけすぎないぎりぎりのところで、ちゃんと伝えるようなキスだった。
タイキはそれを受けながら、もう完全にルイの方へ体を預けていた。
リアドアの外で風に吹かれていた時とは違う。
今は車内の閉じた空気の中で、シートベルトをしたままのルイに覆いかぶさるみたいな形になっている。
それなのに、不思議と嫌な感じがしない。
むしろ、そこまで近いのに、ルイの手つきがちゃんとやさしくて。
自分の表情を見ながら、少しずつ深くしてくる感じが、余計に心臓を狂わせる。
タイキの指先が、ルイの手を握ったまま少しだけ震える。
ルイはそれに気づく。
気づいたうえで、唇を離さない。
少しだけ呼吸を継ぐみたいに間ができても、完全には離れないまま、また重なる。
車の窓の外では、夕方の海が静かに色を変えている。
でも、ふたりにはもうそんなものを見る余裕はなかった。
ルイの片手はタイキの頬に。
もう片方は肩に触れたまま。
タイキはその腕の中で、少し息を乱しながら、ただルイを受け止めている。
やがてルイが、ほんの少しだけ唇を離した。
でも顔は近いままだった。
呼吸が混ざる距離。
タイキの額が少しだけルイの額に触れる。
ルイは目を閉じたまま、小さく息を吐く。
「……お前……」
掠れた声。
「それ……反則……」
タイキはまだ息が整わないまま、肩を上下させた。
何が反則なのか、言わなくてもわかる気がした。
自分から来たこと。
名前を呼んだこと。
離れなかったこと。
全部だ。
タイキは頬を熱くしたまま、小さく言う。
「……ルイが、あんな顔するからだろ……」
ルイが少しだけ目を開ける。
「あんな顔?」
「……好きって顔」
その言葉に、ルイの喉が小さく鳴る。
またやられる。
タイキは昨日からずっと、自分が欲しい言葉を思ってる以上にまっすぐ返してくる。
ルイは目を細めた。
それから、頬に添えていた親指で、もう一度そっとタイキを撫でる。
「……言うようになったな」
低く、でもどこかやわらかい声。
タイキは少しだけ口元を尖らせる。
「誰のせいだよ」
「半分はお前」
「またそれかよ」
「事実だろ」
そう言いながら、ルイはタイキを見つめたまま、もう一度だけ唇を重ねそうになる。
でも今度は、ぎりぎりのところで止まった。
止まって、少しだけ笑う。
「……ほんとに、これ以上は危ない」
その一言に、タイキは少しだけ目を伏せる。
でも、さっきまでよりずっとやわらかい顔だった。
キスをした。
ちゃんと返された。
受け止められた。
その事実が、まだ胸の中で熱を持ったまま、静かに残っていた。
ルイのキスが、また静かに戻ってくる。
さっきまでタイキの顔を包んでいた手の熱を残したまま、今度は少しずつ、ほんの少しずつ押していく。
逃がさないためじゃない。
でも、離れないために。
シートが小さく軋む。
タイキの頭がヘッドレストに触れて、そのままルイの気配ごと近づいてくる。
唇が重なるたび、角度が変わるたび、呼吸がうまく合わなくなる。
「……っ」
息を吸う音すら近い。
車内にはふたりの呼吸だけがこもっていた。
窓の外には海があるはずなのに、もう何も入ってこない。
あるのは、近すぎる熱と、押されるたびに乱れていく自分の呼吸だけだった。
ルイは優しいままだった。
でも、さっきより少しだけ強い。
キスを繰り返す。
一度離れても、呼吸を継ぐような短い間のあとで、また重なる。
まるで、どこで終わればいいのかわからないみたいに。
タイキはそれを受けながら、どんどん思考が鈍くなっていくのを感じていた。
頭がシートに預けられて、視界の中にあるのは近すぎるルイだけ。
伏せられた睫毛。
時々薄く開く瞳。
自分の反応を確認するような目。
そのたびに胸の奥が大きく鳴る。
ルイの手が、ふいにタイキの頬から離れた。
宙に浮く。
その一瞬の間が、やたらともどかしい。
触れていてほしいのに。
でも次にどこへ来るのか、それすらわからなくて、余計に呼吸が浅くなる。
ルイのキスが、少しだけ深くなる。
優しいのに、逃げ道がなくなるような深さだった。
タイキの喉の奥から、危うく小さな音が漏れそうになる。
その瞬間。
カチッ……
乾いた金属音が車内に響いた。
「……シートベルト」
ルイの声が、低く落ちる。
タイキの意識が、そこで少しだけ現実へ引き戻される。
ルイはゆっくり瞼を開いていた。
唇も、まだ完全には閉じないまま、少しずつ離れていく。
呼吸が近い。
でも、もう重ならない。
ほんの少しだけ離れた距離で、ルイが自分の下唇を巻き込んで、そっと舐める。
その仕草があまりにも生々しくて、タイキは目を離せなかった。
「……っ」
肩が小さく揺れる。
呼吸が整わない。
整えようとすると、余計に乱れる。
ルイはそのまま、もうそれ以上タイキを見ないようにするみたいに、ぱっと運転席へ戻った。
少し乱れた呼吸のまま、自分のシートへ深く座り直す。
そして、そのままシートベルトを引いて留めた。
カチ、と今度はきちんとした音。
ハンドルを握る手が、ほんの少しだけ強い。
エンジンがかかる。
低い振動が、車内の空気をようやく現実へ戻していく。
ルイは前を見たまま、何も言わない。
たぶん、今こっちを見たらまた危ないんだろう。
タイキにも、それがわかった。
だからタイキも少し俯いたままで、何も言えなかった。
唇が熱い。
まだ少し濡れている感じが残っていて、それがやけに恥ずかしい。
ふたりとも、ほとんど同じタイミングで、自分の唇を指でそっと拭った。
それすら、視線を合わせずに。
ルイは前だけを見て、静かに車を発進させる。
タイキは窓の外を見ようとして、でも結局まともに景色を追えない。
頭の中には、ついさっきまでのキスの感触がそのまま残っている。
シートに押し戻されたこと。
頬から手が離れた、あの一瞬の間。
低く落ちた「……シートベルト」の声。
離れる時に見えたルイの唇。
全部が、消えない。
車は静かに坂を下り始める。
エアコンの音。
タイヤが道をなぞる音。
たったそれだけが、妙に大きく聞こえる。
しばらくして、ルイが前を向いたままぽつりと落とす。
「……次からは」
タイキが少しだけ顔を上げる。
「ちゃんとベルトしてから、煽れ」
その言い方に、一瞬だけ何を言われたのかわからなくて、次の瞬間にタイキの耳まで熱くなる。
「煽ってねぇよ……!」
掠れた声で返すと、ルイはやっと少しだけ口元を動かした。
でも視線は前のままだった。
「した」
「してない」
「した」
「してないって……」
言い返しながらも、さっき自分からキスをしたことも、手を握ったことも、全部ちゃんと覚えている。
それを“煽った”の一言で片付けられるのは悔しい。
でも、完全には否定できないのがもっと悔しい。
ルイはそこで小さく息を吐いた。
「……あんなんされたら」
少し間。
「止まれるわけないだろ」
その一言が、また静かに落ちる。
タイキは言葉を失った。
ルイは前を向いたまま。
でも、その横顔は少しだけ困っていて、少しだけ照れていて、だから余計に本音に聞こえた。
タイキは唇を引き結んで、また指先で口元に触れる。
少し濡れたままのそこに、まだルイが残っている気がした。
車内は静かだった。
でも、その静けさは気まずいものじゃない。
むしろ、今はこれくらいしか無理だった。
言葉を増やせば、また何かが溢れそうで。
視線を合わせれば、また止まれなくなりそうで。
だから前を向く。
だから俯く。
だから、黙ったまま走る。
車は静かに坂を下っていた。
海沿いの道を外れて、街の灯りが少しずつ増えていく。
信号の赤。
窓の外を流れる夕方の名残。
遠くで光る店の看板。
どれも見えているはずなのに、ふたりともちゃんと見てはいなかった。
車内には音楽もない。
エアコンの風と、タイヤが路面を撫でる音だけ。
なのに、その静けさは少しも気まずくない。
むしろ、甘い。
言葉にしたら壊れそうなものが、今のふたりの間には多すぎた。
ルイは前だけを見て運転している。
でも、視界の端ではずっとタイキの気配を感じていた。
助手席で少し俯いたままの横顔。
指先で唇に一度触れて、それから手を膝に戻したこと。
まだ呼吸が完全には整っていないこと。
全部、わかる。
タイキの方も同じだった。
ルイの横顔を、まともには見られない。
見たら、さっき車の中でシートに押し戻されながらしたキスを全部思い出してしまうから。
なのに、見たい。
ハンドルを握る手。
少しだけ固くなった顎の線。
前を向いてるのに、たぶん自分と同じくらい落ち着いてないこと。
それが、見なくてもわかってしまう。
信号で車が止まる。
赤い光がフロントガラスに薄く映る。
ルイがブレーキを踏む。
そのわずかな揺れで、ふたりの身体が少しだけ前に動く。
それだけで、また車内の空気が濃くなる。
タイキは窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。
ルイはその音に気づいて、ほんの少しだけ目を向ける。
でもすぐに戻す。
今こっちを見たら、また何か言いたくなる。
何かしたくなる。
それを、たぶんふたりともわかっていた。
信号が青に変わる。
車がまたゆっくり動き出す。
何も喋っていないのに、静かに満たされていく感じがある。
キスをした。
ちゃんと返した。
止まれなくなりかけて、それでも止まった。
その全部を通ったあとだからこその沈黙だった。
少しして、ルイがようやく口を開く。
「……エアコン、寒くない?」
声は低い。
でも、かなりやわらかい。
タイキは少しだけ顔を上げた。
「平気」
「ほんと?」
「ほんと」
短い。
でも、その二往復だけでまた胸が鳴る。
ルイはそこで「ならいい」とだけ返して、また前を向いた。
それ以上は何も言わない。
何も言わないのに、ちゃんと気にしてることだけが伝わる。
タイキはそのやり方が、ずるいと思う。
でも今は、そのずるさすら心地いい。
車は夜の街へ入っていく。
街灯が増えて、窓の外の光が細かく流れていく。
その光が時々ルイの横顔を照らして、また暗くする。
タイキはそのたびに、ちらっとだけ見てしまう。
見て、すぐ逸らす。
でもまた見てしまう。
その繰り返し。
ルイも、気づいていた。
気づいているのに、あえて何も言わない。
言ったら、たぶんタイキはもっと照れて、また窓の外しか見なくなる。
だから、今は黙って運転する。
その代わり、赤信号で止まったタイミングで、シフトに置いた手の指先をほんの少しだけ開いてみる。
触れたいなら触れられる距離。
でも、自分からは行かない。
その意味を、タイキはちゃんとわかった。
数秒だけ迷って。
それから、助手席の手がそっと伸びてきて、ルイの小指にだけ軽く触れた。
ルイの呼吸が、そこで少しだけ乱れる。
「……タイキ」
「何」
「今、それはずるい」
タイキは少しだけ口元を動かした。
「さっきのお返し」
その返しに、ルイは本気で少し困ったみたいに息を吐く。
でも手は離さない。
シフトに置いたままの指先へ、今度はルイの方から少しだけ力を返す。
それだけで充分だった。
言葉なんかなくても、車の中はもう充分すぎるくらい甘かった。
しばらくして、見慣れた道に入る。
タイキの家の近く。
コンビニの位置も、角の街灯も、もう知ってる道。
タイキはそこで、ようやく少しだけ現実に戻る。
「あ……」
小さく漏れる。
もう着く。
そう思った瞬間、妙に惜しい気持ちが胸に広がる。
ルイは前を見たまま、その声を拾った。
「何」
「いや」
タイキは少しだけ言葉を濁す。
「もうこの辺だなって」
ルイは短く頷いた。
「知ってる」
「……止めやすいとこでいいよ」
その言い方は、いかにも“ここで降りても大丈夫”みたいなトーンだった。
でも、本音がそこじゃないことくらい、ルイにはわかる。
ルイは少しだけ目を細める。
「何で」
タイキがそちらを向く。
「何でって」
「家まで送る」
当たり前みたいに落ちる声。
タイキは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……いや、別に」
「この辺で降りても歩けるし」
「歩けるのは知ってる」
「じゃあ」
「送るって言ってる」
ルイの声は低い。
でも強くはない。
ただ、そこを譲る気がないだけだった。
「キスしたあとに中途半端なとこで降ろす方が変だろ」
その一言に、タイキの耳がまた熱くなる。
「……いちいち言うなよ」
「事実だろ」
「そうだけど……」
タイキは窓の外へ視線を逃がした。
家まで送る。
その言い方が、あまりにも自然だった。
大事にされてる感じがしてしまう。
しかもルイは、それを変に特別扱いみたいに言わない。
当然みたいな顔でやる。
そこがたまらなく効く。
ルイは少しだけ声のトーンを落とした。
「ちゃんと家入るまで見る」
タイキの胸が、そこで静かに鳴る。
「……過保護」
「知ってる」
「自覚あるんだ」
「お前相手には、もう無理」
その返しに、タイキはもう何も言えなくなる。
ルイはそこで、ほんの少しだけ口元をやわらげた。
「だから黙って送られとけ」
低いけど、甘い声だった。
タイキは小さく息を吐いて、ようやく観念したみたいに頷く。
「……はいはい」
「返事が雑」
「わかった、でしょ」
「最初からそう言え」
そうやって、少しだけいつものやり取りに戻る。
でも、その中にある温度はもう前とは違った。
車はそのまま、タイキのマンションの前までゆっくり進んでいく。
マンションの灯りが見えた時、タイキは少しだけ胸の奥がきゅっとするのを感じた。
着いた。
もう着く。
ルイと二人でいた時間が、終わる。
それだけのことなのに、妙に名残惜しい。
今日一日のことが、頭の中で静かに巻き戻る。
家の下まで迎えにきたルイ。
大人っぽい服。
車の助手席。
トンネルを抜けた先の海。
手を繋いだこと。
展望台の風。
“キス、しねぇの……”って自分で言ったこと。
ルイの「好きって顔じゃない?」。
それから、車の中。
全部が、夢みたいに甘い。
でも夢じゃない。
唇に残ってる感覚が、それをちゃんと現実にしていた。
タイキは少しだけ俯いたまま、自分の指先を見る。
さっきルイの小指に触れた感触まで、まだ残ってる気がする。
こんなの、もう無理だと思う。
前みたいに何でもない顔でスタジオに行って、普通に話して、普通に帰るだけの関係には、もう戻れない。
しかも、嫌じゃない。
戻りたいとも思わない。
むしろ、もっと欲しい。
もっと一緒にいたい。
もっと触れたい。
もっと、ルイが自分に向けるあの目を見たい。
そんなふうに思ってる自分が、少しだけ怖い。
でも、それより嬉しい方が大きい。
今日のルイは、ずっとやさしかった。
気を抜かせるみたいに話して。
海が見えた時に笑って。
手を繋ぎ直して。
景色の中でキスして。
車の中では、ちゃんと止まれなくなりながらも、最後は家まで送るって言った。
そういう全部が、タイキの中で少しずつ積み重なっている。
好きだな、と思う。
改めて。
何度でも。
ルイが好きだ。
ただキスしたからじゃない。
優しいからでもない。
好きな相手に対して、不器用なくせにちゃんと大事にしようとするところ。
危ないところでは止まるところ。
でも、止まりきれなくなるとちゃんと熱が見えるところ。
その全部が好きだ。
車が止まる。
エンジンの音が少しだけ落ちて、静かな余韻が残る。
タイキはそこでやっと顔を上げた。
隣にはルイがいる。
前を見てた横顔が、少ししてからこっちを向く。
その何でもない動作だけで、また胸が鳴る。
(……ほんと、無理)
心の中で小さく呟く。
でも、その“無理”は苦しさだけじゃない。
もう完全に、甘いやつだった。
今夜のデートは終わる。
でも、終わるだけじゃない。
たぶんこれから、もっと増える。
こういう時間も。
こういう顔も。
こういう、帰りたくないと思う夜も。
その未来を少しだけ想像してしまって、タイキはまた小さく息を吐いた。
それでも、嫌じゃない。
車が静かに止まったまま、エンジンの余韻だけが低く残っている。
マンションの前。
見慣れた景色。
でも、さっきまでの海とキスの熱がまだ全然抜けていなくて、車内の空気だけが少し遅れていた。
タイキは助手席に座ったまま、まだ少しだけ名残惜しそうな顔をしている。
帰るのに。
降りればいいだけなのに。
その一歩が、妙に遠い。
ルイはそんな横顔を見て、小さくため息をついた。
「キスでもいいけど……」
低く落ちたその言葉に、タイキが軽く首を傾げる。
「?」
ルイはそのまま、自分のシートベルトを外した。
カチ、と音が鳴る。
「シートベルト」
タイキに向かってそう溢す。
「あぁ……」
なんて言いながら、タイキも言われるままにシートベルトへ手を伸ばす。
カチ、とまた乾いた音。
「なに……」
そう言葉を続けようとして、その先は続かなかった。
ルイが、タイキの腕を確かに掴んで引き寄せたからだ。
「……っ」
一瞬、息が止まる。
タイキの身体が助手席から引き寄せられて、そのままルイの胸の中へ収まる。
強引じゃない。
でも、迷いもない。
片手で腕を引いて、もう片方の手はタイキの背中にそっと添える。
抱き込む、というより。
逃げ場をちゃんと残したまま、ここにいていいと伝える抱き方だった。
(え……)
タイキは咄嗟に顔を上げようとする。
でも、その頭をルイが軽く押さえて阻止した。
手のひらが、髪に触れる。
乱暴じゃない。
でも、今はこっちを見るなと言うには充分なやさしい力だった。
「この距離でこっち向くな」
ルイの声が、すぐ上から落ちてくる。
低くて、少しだけ掠れている。
「……大人しくしてろ」
そう言って、ルイはタイキの頭にそっと頬を寄せた。
その瞬間、タイキの心臓が跳ねる。
(てか……)
(こんな風に抱かれんのも
はじめてなんだけど……)
ほんとうに、そうだった。
キスはした。
何度も。
でも、こうして真正面から抱き寄せられて、ルイの胸の中に収まるのは初めてだ。
しかもこの距離は、キスとは全然違う。
唇の熱じゃない。
もっと広くて、もっと逃げ場がなくて、もっと静かに深い。
ルイの胸に耳が近い。
鼓動が聞こえる。
どくん。
どくん。
一定に見せかけて、でも少しだけ速い。
それが、自分のせいだとわかる。
ルイの服越しの体温。
背中に添えられた手のひら。
頭に寄せられた頬の熱。
どこを取っても近くて、タイキは動揺を隠しきれなかった。
呼吸がうまくできない。
でも、その苦しさすら嫌じゃない。
ルイは何も言わない。
ただ、そのまま抱いている。
やさしい。
でも、それだけじゃない。
抱きしめたいと思ってるのを、どうにか落ち着かせた形みたいな腕だった。
タイキは最初、身体に力が入っていた。
でも、数秒もするとその力は少しずつ抜けていく。
抗えない、と思った。
こんなの、抗えるわけがない。
ルイの腕の中に収まっている。
頭に頬を寄せられている。
鼓動を聞かされている。
その全部に包まれてしまうと、もう少しだけこのままでいたい、しか残らなかった。
タイキはルイの胸の中で、ほんの少しだけ目を閉じた。
落ち着きたい。
でも、落ち着いてしまうのも惜しい。
そんな妙な気持ちだった。
腕の中にいる、ということがこんなに効くなんて思わなかった。
キスみたいに一瞬で熱くなるのとは違う。
もっとじわじわくる。
静かなのに、深く響く。
ルイの背中に回された手は、締めつけるほど強くない。
でも、今はそれが余計にやさしい。
これで少しでも力を込められたら、自分はたぶん本当に帰れなくなる。
だからルイが、ちゃんと加減してることもわかる。
わかるから、余計に胸が苦しい。
タイキは何も言えないまま、ルイの服を少しだけ掴みたくなる。
でも、それをしたら余計に終われなくなりそうで、指先だけが小さく動いて止まる。
離れたくない。
その一言が、心の真ん中にあった。
まだ帰りたくない。
もう少しだけこのままでいたい。
さっきまでのキスよりも、今のこの抱き方の方がずっと危ない。
こんなのされたら、普通に助手席から降りて「じゃあまた」なんて無理だろ、と思う。
ルイの鼓動が、まだ少し速いままなのもずるかった。
自分だけがやられてるんじゃない。
ルイもちゃんと同じだけ乱れてる。
それがわかる。
だから、余計に離れたくなくなる。
タイキは胸の中で、ほんの少しだけ顔を寄せた。
頬を押しつけるほどじゃない。
でも、逃げないと伝えるくらいに。
それだけでルイの呼吸が、わずかに揺れた。
「……タイキ」
小さく名前を呼ばれる。
怒られてるわけじゃない。
でも、その声の端に“それ以上は危ない”が混じっている。
タイキは返事をしなかった。
返事をしたら、離れろと言われる気がしたから。
代わりに、胸の中でほんの少しだけ目を閉じたまま、ルイの鼓動を聞く。
あぁ、やばい、と思う。
好きだ。
この腕の中にいられるだけで、どうしようもなくそう思う。
ルイはしばらくそのまま動かなかった。
タイキの重さ。
胸元にある気配。
自分の鼓動を聞かれている感じ。
その全部が、思っていた以上に危険だった。
キスより危ないかもしれない、と本気で思う。
こうして抱き込んでしまうと、離したくなくなる。
このまま家まで送って、もう一回抱きしめて、なんて、余計な想像まで静かに広がっていく。
だから、ルイはゆっくりと息を整えた。
それから、少しずつタイキの背中から手を離す。
急にじゃない。
ちゃんと、離れる準備ができるように。
背中を撫でるように上がってきた手が、肩にそっと添えられる。
その肩に触れたまま、ルイは様子を見るようにほんの少しずつ身体を離した。
タイキもそれに逆らわない。
でも、完全にはすぐ離れない。
名残みたいな間が、少しだけある。
ようやく距離ができて、ふたりの顔が見える位置に戻る。
ルイはその顔を見て、ほんの少しだけ口元を上げた。
「キスの方が良かった?」
少し意地悪な言い方だった。
でも、声はやわらかい。
タイキは一瞬だけ目を見開いて、それから少しだけ眉を寄せる。
「……は?」
頬はまだ赤い。
耳も熱を持ったまま。
ルイはその反応を見て、少しだけ息で笑う。
「いや」
「今の顔見てると、どっちだったのかなと思って」
「……どっちも、だろ」
ぼそっと返す声が、少しだけ拗ねている。
でも、その正直さがルイにはたまらなかった。
ルイは目を細めたまま、低く言う。
「さらっと言うな」
「ルイが聞いたんだろ」
「聞いたけど」
「じゃあいいじゃん」
少し言い返せるくらいには、タイキの呼吸も戻ってきている。
でも、まだ完全に余裕があるわけじゃない。
ルイはそんなタイキを見てから、今度は少し真面目な声に戻った。
「…でも、今日はここまで」
その一言に、タイキの表情がほんの少しだけ静かになる。
寂しい、というより。
ちゃんとルイが線を引いていることがわかる顔だった。
ルイは続ける。
「今度は、朝から出かけるか?」
タイキが目を上げる。
ルイの声はやさしい。
「そしたらもっと一緒にいれる」
その言い方は、引き延ばしじゃない。
今夜をここで終わらせる代わりに、ちゃんと次を置いていく言い方だった。
帰らせるための優しさじゃなくて。
ちゃんと、また会う前提での優しさ。
タイキの胸の奥が、じわっとあたたかくなる。
この人はこういうところがずるい。
今すぐ全部くれるわけじゃない。
でも、先をちゃんとくれる。
だから帰れる。
だからまた欲しくなる。
「……行く」
小さく返す。
ルイの目元がほんの少しだけやわらぐ。
「うん」
短い返事。
でも、その一音にちゃんと嬉しさがあった。
ルイはそこで、最後にもう一度だけタイキの肩を軽く撫でた。
「ちゃんと寝ろ」
「それ昨日も聞いた」
「今日は昨日よりちゃんと聞け」
「……善処します」
「信用ならねぇ」
そのやり取りに、ふたりとも少しだけ笑う。
さっきまでの熱の中に、ようやく少しだけいつもの空気が戻る。
でももう前と同じ“いつも”じゃないことを、ふたりとも知っていた。
ルイは助手席のドアに手をかける。
タイキはまだ少しだけ名残惜しそうな顔をしていたけど、それでも今度はちゃんと降りるつもりでシートに手を置いた。
朝から出かける。
もっと一緒にいれる。
その約束だけで、今夜の終わりは少しだけやさしくなった。
助手席のドアが開く。
夜の空気が、少しだけひんやり流れ込んできた。
さっきまで車内にこもっていた熱が、その冷たさでようやく輪郭を持つ。
タイキはシートに手をついたまま、すぐには降りなかった。
名残惜しい。
それを隠す気も、もうあまりない顔だった。
ルイはそんなタイキを見て、ほんの少しだけ目を細める。
それから、助手席の開いたドアに手を添えたまま、静かに言った。
「タイキが笑ってんの、 もっと見たい」
その声は低くて、でもやわらかかった。
タイキが目を上げる。
ルイはそのまま続ける。
「だから、次は楽しいところ行こう」
言い切ったあと、ルイの手がそっと伸びる。
タイキの頭へ。
髪をくしゃっと乱すんじゃない。
上から雑に撫でるんでもない。
ただ、そこにいることを確かめるみたいに、やさしく一度だけ撫でる。
タイキの呼吸が、そこでまた少しだけ揺れた。
今日何度も揺らされてきたのに。
最後の最後で、またこういうことをする。
「……何だよ、それ」
少し掠れた声でそう言うと、ルイは口元だけで少し笑った。
「本音」
短い返事。
でも、その短さの中にあるものがやけに深い。
タイキは何も返せなかった。
返したら、たぶんまた降りられなくなる。
ルイはそんなタイキを見たあと、少しだけ真面目な顔に戻る。
「帰ったら風呂入って、ちゃんと寝ろ」
「母親?」
「違う」
「過保護」
「それも違う」
「じゃあ何」
ルイは一瞬だけ言葉を探すみたいに間を置いて、それから小さく息を吐いた。
「……好きなやつには、こうなる」
あまりにもまっすぐで、タイキの喉がまた詰まる。
もう反則だろ、と思う。
こんなの、何て返せばいいんだよって本気で思う。
タイキは視線を少しだけ逸らしてから、ようやく小さく言った。
「……わかった」
「うん」
ルイは頷く。
そして最後に、今度は少しだけ微笑んで言った。
「おやすみ、タイキ」
その言い方が、今日いちばん静かで、今日いちばん甘かった。
タイキはドアの外へ足を下ろす。
立ち上がって、でもすぐにはドアを閉めない。
車の中のルイと、外に出た自分。
その少しだけずれた距離が、妙に寂しい。
「……おやすみ」
ようやく返す。
ルイはそれを聞いて、ほんの少しだけ目元をやわらげた。
タイキはドアを閉める。
バタン、と音がして、ふたりの間にガラス一枚ぶんの距離ができる。
でも、ルイはすぐには車を出さない。
タイキがマンションのエントランスへ入るまで、ちゃんと見ている。
その視線を背中に感じながら、タイキは歩く。
一度だけ振り返ると、ルイはまだそこにいた。
タイキはほんの少しだけ口元を緩めて、手を上げる。
ルイも小さく片手を上げ返した。
それを見てから、タイキはようやく建物の中へ消えていった。
ルイはエントランスの扉が閉まるのを確認してから、やっと小さく息を吐いた。
「……帰した…」
誰に言うでもなく、そう呟く。
車のシートに頭を預けて目を閉じる。
でもその声には、安堵と、少しだけ名残惜しさが混ざっていた。
コメント
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更新待ち望んでました😭ありがとうございます!! Tくんの耳が赤くなるのほんとかわいくて好きで、、 RくんがTくんのこと好きだって顔に書いてある顔するのとか、もう全部情景が目に浮かびました…尊い😭🙏
うわ、この第21話、めちゃくちゃ良かったです……。まず「キスしたあとの初めての車内」っていう空気感が、細かい仕草と視線のやり取りで丁寧に描かれていて、もう息するの忘れるかと思いました。ルイが「好きって顔じゃない?」って言うシーン、あれで完全に持っていかれましたね。タイキが自分からキスを返す流れも、全部の伏線が回収されるみたいで胸が熱くなりました。続きが気になりすぎます。