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生駒隊のめでたい日は、イコさんの特製カレー。
それはボーダーにおける、明文化されていない絶対のルールだった。ランク戦で勝ち越した日、誰かのトリガーのメンテナンスが上手くいった日。あるいは、メンバーの誰かの誕生日。
「よっしゃ、今日は美味いカレー作ったるからな!」
隊長の生駒達人がそう言って上着を脱ぎ捨て、エプロンを引っ掴んでキッチンに立てば、それが生駒隊の特別な時間が始まる合図だった。市販のルーをいくつか組み合わせ、生駒が「これが隠し味やねん」と自慢げに足す何かによって、いつも少しずつ味が違う。けれど、どれを食べても抜群に美味い。それが生駒のカレーだった。しかし、9月30日の夕方。隠岐孝二の十九歳の誕生日であるその日、生駒隊の作戦室兼隊室には、いつもなら漂っているはずのスパイスの香りが一切なかった。
「あー、ごめん隠岐! ほんまにすまん!」
ノートパソコンの液晶画面の中で、生駒がこれ以上ないほど申し訳なさそうな顔をして、画面に向かって両手を合わせていた。背景に見えるのはボーダー本部の廊下だ。
「まさかこのタイミングで、警戒区域の単独パトロールのシフトがズレ込んでくるとは思わんかったわ。本部の上層部も人使いが荒いがな。今から行って、片付けたらダッシュで戻るから!カレーは夜遅なるけど絶対作るから、ちょっと待っといてな!」
画面の向こうの生駒は、すでにトリガーを起動した戦闘服姿だった。急に発生したイレギュラーな任務なのだろう、生駒の後ろを他の隊員がバタバタと通り過ぎていくのが見える。
「いやいや、気にせんといてください。任務優先、当たり前でしょ。こっちはマリオに貰ったお菓子でもつまんで待ってますから。イコさんこそ、足元気をつけて行ってきてください」
「おう、隠岐はやっぱり出来た後輩やなぁ!よし、最速で近界民ぶっ倒してくるわ!カメラ目線でな!」
「はいはい、カメラはええから集中してくださいね」
苦笑混じりに通信を切ると、作戦室は急に静まり返った。他のメンバーはというと、水上敏志は大学の講義が長引いており、細井真織は実家の用事で今日は遅くなる。国近柚宇の部屋にゲームをしに行こうかとも思ったが、せっかくの誕生日だ、少し静かに過ごすのも悪くない。隠岐はソファに深く腰掛け、天井を見上げた。静かな部屋。時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。いつもなら、この時間には生駒が
「隠岐、玉ねぎのミジン切り手伝ってやー」
「水上、そこ座っとらんで皿並べーや」
と賑やかに騒いでいるはずだった。
「……待っといて、か」
隠岐はぽつりと言葉を溢し、ふっと笑った。いつも貰ってばかりなのは、なんだか落ち着かない。生駒はいつも「先輩やからな!」と胸を張るけれど、たまにはその後輩に甘えられたって罰は当たらないはずだ。
「よし。たまには、おれが作ってみるか」
隠岐はソファから立ち上がり、キッチンへと向かった。
料理を全くしないわけではない。けれど、生駒隊のキッチンは実質的に生駒の城だ。どこに何があるのか、隠岐は引き出しを片っ端から開けて確認するところから始めなければならなかった。
「ええと、ルーは……あ、ここか」
棚の奥から、使いかけの市販のルーが二種類出てきた。生駒はいつも、甘口と中辛を混ぜてコクを出していると言っていた気がする。冷蔵庫を開けると、親切にも「生駒隊・カレー用」と書かれた付箋の貼られたパック肉と、玉ねぎ、人参、じゃがいもが入っていた。生駒が事前に買って準備していたのだろう。
「イコさん、ほんまに作る気満々やったんやな……」
その丁寧な準備の跡を見て、隠岐の胸の奥が少しだけ温かくなった。と同時に、絶対に失敗できないな、という心地よい緊張感が走る。隠岐はエプロンを身につけ、まずは玉ねぎの皮を剥いた。グラスをかける仕草と同じくらい滑らかに、とはいかない。包丁を持つ手つきは、狙撃銃を構える時の精密さに比べれば随分とおぼつかなかった。
「玉ねぎは、飴色になるまで炒める……やったっけ」
生駒がいつもフライパンの前で、汗をかきながら木べらを動かしていた姿を思い出す。フライパンに油を引き、刻んだ玉ねぎを投入する。ジュワーという小気味いい音が室内に響き、一気に料理らしい匂いが立ち上った。火が強すぎたのか、少し焦げそうになって慌てて火力を弱める。
「あぶな……。狙撃より繊細かもしれんわ、これ」
人参とじゃがいもは、生駒の豪快なスタイルを真似て、少し大きめの乱切りにした。肉を炒め、野菜を加え、水を注いで煮込む。アクをすくいながら、隠岐はふと考えた。生駒のカレーには、いつも独特の深みがあった。ただの市販のルーだけでは出せない、あの絶妙なコク。生駒はいつも「企業秘密や!」と言って教えてくれなかったが、作っている時の手元を隠岐はなんとなく覚えている。
「確か、あの時……イコさん、冷蔵庫のドアポケットから何か出してへんかったっけ」
隠岐はもう一度冷蔵庫を開け、ドアポケットの調味料を眺めた。醤油、ウスターソース、ケチャップ。……そして、その奥にある小さな瓶。
「あ、インスタントコーヒーか。それと……これ、チョコレート?」
製菓用ではない、普通のビターチョコレートの食べかけが、ジップロックに入って保管されていた。これだ、と隠岐の直感が告げていた。生駒がニヤニヤしながら「隠し味ポンよ」と鍋に放り込んでいたのは、きっとこれに違いない。
「よし、一か八か、入れてみるか」
ルーを溶かした後、隠岐はコーヒーの粉を小さじ一杯、そしてチョコレートを二欠片、そっと鍋に落とした。ゆっくりと混ぜていくうちに、カレーの色がワントーン深くなり、どこかビターで芳醇な香りが部屋いっぱいに広がっていく。スプーンで少しすくい、フーフーと息を吹きかけて口に運んだ。
「……あ」
口の中に広がったのは、紛れもない、あの「生駒隊のカレー」の味だった。
時計の針が午後八時を回った頃。 ガチャリ、と作戦室の重いドアが開く音がした。
「ただいま……あー、疲れた。まじで今日のネイバー、動き回りすぎやろ……。あ、隠岐! お待たせ! 今からすぐカレー仕込むからな、ちょっと、待っ……」
戦闘服のまま、髪を少し乱して入ってきた生駒達人が、玄関でピタリと動きを止めた。生駒の鼻が、クンクンと空気を躍らせる。
「……え? 何これ、この匂い」
「おかえりなさい、イコさん。遅かったですね。お疲れ様です」
キッチンから、お馴染みの白いエプロンを着た隠岐が、お玉を持ったままひょっこりと顔を出した。テーブルの上には、すでに湯気を立てている二皿のカレーライス。そして、冷たい麦茶の入ったグラスが二つ、綺麗に並べられている。
「え、え、何これ!? 誰が作ったん!? 水上か!? いや、水上はまだ大学のはずやし……」
「おれに決まってるでしょ。ここにおれらしかおらんのですから」
隠岐は苦笑しながら、生駒を促した。
「いつも作ってもうてばっかりやから、今日くらいは俺がイコさんに恩返しですわ。ほら、早くトリガー解除して、手ぇ洗って座ってください。冷めてまいますよ」
「お、俺が……隠岐に、カレーを、作ってもらう……?」
生駒はまるで、信じられない奇跡を目撃したかのような顔で硬直していたが、すぐに「お、おう! すぐ洗ってくる!」と脱兎のごとく洗面所へ向かった。私服に着替え、しっかりと手を洗ってきた生駒は、そわそわとした様子で椅子の端に腰掛けた。目の前のカレーを凝視している。
「じゃあ……いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
生駒がスプーンを握り、カレーをご飯ごとすくい上げる。そして、大口を開けてパクリと食べた。もぐもぐと口を動かした瞬間、生駒の目が限界まで見開かれた。
「……めっちゃ美味い!!!!」
作戦室の天井が震えるほどの声だった。生駒はバタバタと足を鳴らしながら、スプーンを隠岐に向ける。
「何これ! めっちゃ美味い! え、っていうかこれ、俺の味やん! なんで俺の味なん!? 隠岐、おまえいつの間にイコさんの秘伝のレシピ盗んだんや!」
「レシピも何も、イコさんが作ってるところ、いつも横で見てましたからね。冷蔵庫のチョコレートとコーヒー、勝手に使わせてもらいました」
「あーーーっ!! 企業秘密の隠し味、一発で見破られとるーーー!!」
生駒は頭を抱えて叫んだが、その顔はこれ以上ないほど嬉しそうに歪んでいた。
「いや、でもほんまに美味いわ。玉ねぎの炒め具合もバッチリやし、じゃがいもの大きさも丁度ええ。……隠岐、おまえ天才やな」
「イコさんの準備が完璧やったからです。肉も野菜も、ちょうどいい分量で置いてあって助かりました」
隠岐も自分の席につき、スプーンを持った。 自分で作ったカレーを口に運ぶ。美味い。けれど、やっぱり生駒が作った時の方が、もう少しだけ美味い気がした。それはきっと、火加減の慣れとか、そういう技術の差なのだろう。
「……でも、やっぱりイコさんのカレーには敵いませんわ」
「何言うてんねん、今日のカレーが人生で一番美味いわ!」
生駒はガツガツとスプーンを動かし、あっという間に一皿目を平らげてしまった。
「隠岐、おかわりある!?」
「ありますよ、大鍋にたっぷり作ったんで。好きなだけ食うてください」
「よっしゃー! 今日は隠岐の誕生日やのに、俺が一番幸せになってどうすんねん!」
「ほんまですよ。主役は俺なんですから、もっと敬ってくださいね」
そう言いながら、隠岐は嬉しそうに席を立ち、生駒の皿を受け取った。
二人が二皿目のカレーを食べ終えた頃、タイミングを見計らったように作戦室のドアが開いた。
「ただいまー。あ、なんかめっちゃええ匂いする。イコさんカレー作ったんです?」
カバンを肩にかけた水上敏志が、眼鏡の奥の目を丸くしながら入ってきた。その後ろからは、大きな箱を抱えたマリオこと細井真織も続いている。
「あ、水上! マリオちゃん! 聞いてや、今日のカレー、隠岐が作ったんやで!」
「え、隠岐が!?」
マリオが驚きの声をあげる。水上はキッチンへ歩み寄り、鍋の中を覗き込んだ。
「へえ、隠岐がなぁ。ちょっと残っとるやん。俺も食ってええ?」
「ええよ、水上の分くらいは残しといた。マリオちゃんも食べる?」
「食べる!お腹ペコペコやってん!」
マリオが抱えていた箱をテーブルに置いた。それは地元の有名なケーキ屋の箱だった。
「隠岐、誕生日おめでとう!ケーキ買ってきたで!」
「お、ありがと、マリオ」
「よし、じゃあ第二ラウンドやな! 水上とマリオもカレー食って、みんなで隠岐のお祝いするで!」
生駒が嬉しそうに音頭を取り、作戦室は一気にいつもの、いや、いつも以上の賑やかさに包まれた。水上が「隠岐のカレー、イコさんのよりちょっと上品で美味いな」と言って生駒に「何言うとんねん!」と突っ込まれたり、マリオが「隠岐エプロン似合いすぎ」と写真を撮ろうとして隠岐が全力で顔を隠したり。騒がしい仲間たちの中心で、隠岐は冷たい麦茶を喉に流し込んだ。いつも通りの、騒がしくて、温かい生駒隊の夜。十九歳の誕生日は、自分が仕掛けた小さな恩返しのおかげで、忘れられない特別な一日になった。
「隠岐、来年は俺がもっと美味いカレー作ったるからな!」
ケーキの箱を開けながら、生駒が珍しくカメラではない方向を見つめて力強く宣言する。
「はいはい。期待して待ってますわ、イコさん」
隠岐はそう言って、心からの笑顔を先輩たちに向けたのだった。
コメント
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久しぶりの投稿になりました……т т 現実がだいぶ多忙なのでしばらく無浮上になります 本当はこれも隠岐の誕生日に載せたかった……( > <꧞)
**美月ゆめか🌸** うわぁぁぁ生駒隊の日常尊すぎる😭💕💕 隠岐がイコさんの隠し味(チョコ&コーヒー)を推理して再現するところ、天才すぎて震えた!!「いつも貰ってばかり」からの恩返し、めっちゃ胸熱やった〜🔥 イコさんが「人生で一番美味い!」ってガツガツ食べてる姿に涙出そうになったよ…生駒隊の家族感、最高すぎる✨ お誕生日おめでとう隠岐!!来年もまた読みたいな〜🎂🎉