金襴が襖を開けると、薬草の独特な匂いが鼻を掠めた。その匂いに包まれた部屋の奥に、薬研を使い何かを潰している遊女屋の医師・永武がいた。
「おや、金襴太夫に茉莉花太夫じゃないか。久しぶりだねえ」
永武は作業の手を止めて二人に微笑んだ。
永武は四十代くらいの中年男性で、顔は整い、穏やかな性格をしている。また、包容力のある人柄のため、遊女屋で働く男衆の中でもトップクラスの人気を誇っていた。
遊女屋にいる誰に聞いても永武は優しい医師だと言うだろう。しかし、金襴と茉莉花だけは永武のことを「傀儡野郎」と言う。
先程も触れたが、永武は遊女屋の旦那と女将の傀儡だ。
患者の生命よりも旦那と女将の言葉を優先してしまうほどで、彼が見殺しにしてきた生命はどれほどあっただろう。
話を戻そう。
茉莉花は永武の発言にビキリとこめかみに青筋を浮かべる。そしてこの発言には金襴も口元は笑っているが目が笑っていなかった。
茉莉花はともかく、金襴の姿が見えているのに夏蝶の存在はあたかも無いように扱ったのだ。
夏蝶を我が子のように可愛がっている二人からしたら、この扱いは屈辱的なことだろう。
「いやですね、先生。夏蝶もいるじゃないですか」
見えてないんですか?と、茉莉花は怒りで声が震えるのを必死に堪え永武に言い放った。
「はて、そんな名前の子はいたかな?」
いい加減にしろよクソジジイ。
悪質なすっとぼけに茉莉花は思わず襖を蹴り飛ばし口汚く罵ろうとしたのをグッと堪え、「あー、そうですか」と大人しく引き下がった。
「先生、夏蝶が怪我をしたんです。こちらで手当をしますので、治療薬を少量譲っていただけませんか?」
「…君たちは何を言っているんだ?ここに夏蝶なんて名前の子は居ないだろう。それとも、私をからかってるつもりかい?」
永武の声が低くなり、空気が揺れる。
続けて永武は「私も暇じゃないんだ」と冷たく言い放ち、薬研の持ち手に手を掛けた。
やはり真正面から馬鹿正直に言うのは愚策。
そんなことは分かっているが、これしか手立てはないし、夏蝶をこの医務室に連れてきた手前、この策以外も通用しない。通用したとしても不正使用で三人諸共、特に夏蝶は重い処罰が下される。
「お取り込み中、申し訳ありません。永武先生はいらっしゃいますか?」
張り詰めた空気に、凛とした声が響いた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!