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#16 沈黙の代償
霧の立ちこめる街の外れ、廃工場の錆びついた扉を、タカシはゆっくりと押し開けた。
中は冷たく湿っていて、鉄の匂いが鼻をついた。ここで、彼らは「無毒化」の研究を続けていた——世界を壊す化学兵器を無力化するために。
「まだ間に合うか…」タカシは独り言をつぶやく。
奥の作業室に目をやると、そこに彼女はいた。ユリコ。小柄で華奢だが、目だけは鋭く光る。彼女は机の前に座り、試薬の瓶を並べていた。
「タカシ…来たのね、ピーポー」
一度だけ、語尾にその奇妙な音をつけたユリコの声が、廃墟に響いた。タカシはそれを聞き、少しだけ肩の力を抜いた。
「ユリコ、これで…無毒化できるのか?」
「理論上は、でも…最後の工程には、私たちの体が触媒になる必要がある」
ユリコの声は震えていた。だが、それ以上に震えていたのは、彼女の手に握られた小瓶の中の液体だった。
二人は互いに目を合わせた。ここまで来てしまったのだ。化学兵器は世界を汚す毒の塊——それを無害化するためには、自分たちの生命エネルギーを一部、代償として捧げるしかなかった。
「…行こう」
タカシが瓶を手に取り、二人は最後の儀式を始めた。光が瓶の中で揺れ、液体はゆっくりと透明になっていく。
一瞬、世界が静止したように感じられた。成功の手応えが二人の心に宿る。
だが、次の瞬間、タカシは胸の奥に冷たい痛みを感じた。
「ユリコ…?」
ユリコも同じように倒れ込む。二人の体は、徐々に力を失っていく。無毒化は成功した。だが、その代償はあまりに大きかった。
瓶の中で化学兵器は無害になった。街は救われるだろう。
しかし、廃工場の片隅で二人は静かに息絶えたまま、誰にも知られずに世界の毒を背負い続けた。
夕暮れの光が差し込む中、ただ一つ、ユリコがつけた「ピーポー」の響きだけが、静かに空気に溶けていった。意味はないけれど、二人の存在の証だった。
世界は救われた。だが、彼らの物語は、誰の記憶にも残らなかった。
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