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そんな事を考えていると、椅子の背に置かれた颯人さんの手が私の背中を撫でた。ふと見上げると彼が私に微笑んでいた。
「蒼は何食べる?それとも何か飲むか?」
「あ、うん……」
私達は丁度やってきたウェイターに、飲み物や食事をそれぞれ注文した。
そしてしばらく皆でヨーロッパ旅行の話をしていると、突然私達に日本語で声をかける人がいた。
「おや、桐生さん、またお会いしましたね」
「|柚木《ゆずき》社長と奥様……」
柚木社長はここサンフランシスコにあるお義父さんのグループ会社でアメリカの現地法人「Novus Kiryu」の社長だ。
以前からここの社長をしていて、結局颯人さんが引き受けるのを断った為そのまま今も社長でいる。
そう言えば以前彼らとこのレストランであったのを思い出した。ここでまた会うということは、もしかすると常連なのかもしれない。
「これは、奥様もご一緒で……」
そう言って、柚木社長はいつもの様に私をジロジロと舐めるように見た。
実はここサンフランシスコの「Novus Kiryu」の社員の間で……というか、ここサンフランシスコの小さな日系コミュニティーの間で、私は金目当てで桐生の御曹司である颯人さんに近づき体で誘惑したと有名だ。
そしてそんな私との結婚を颯人さんのお父さんが反対して私達二人を家から追い出し、桐生の事業からも完全に勘当され哀れな運命を彼に強いたろくでもない女だとして囁かれている。
その為、柚木社長は私が一体どの様な手を使って颯人さんを陥れたのだろうかと、いつも興味津々で私の体を舐める様に見る。そして奥さんの|百合子《ゆりこ》さんはと言うと、いつも私をまるで汚い物でも見る様な目で見る。
柚木夫妻の不躾な視線に気づいた私の家族が逆に彼らをジロジロと不快な目で見ていると、柚木社長がふと私の両親の隣に座っている莉華子さんに気づいた。
「……もしかすると桐生会長の奥様ではありませんか…?」
「まぁ、会長の奥様……?」
百合子夫人は驚いた様に目を大きく見開いた。
「はい。いつも主人がお世話になっています」
莉華子さんはにこりと微笑み柚木夫妻に会釈した。
「いいえ、そんなとんでもない。こちらこそいつもお世話になっています」
柚木夫妻は深々と莉華子さんにお辞儀をした。しかし百合子さんは興味津々な様子で莉華子さんを頭のてっぺんから爪先まで値踏みする様に見た。
彼女の考えている事は大体分かる。
莉華子さんは桐生グループの重役の奥様方の間で、色々と悪い噂をされているらしい。
彼女の美しい容貌から実は他に愛人がいて一緒に暮らす為に会長を置いて家を出たとか、ただ単に金が欲しくて結婚しただけで、金だけ貰ってあとは一人で高級マンションで優雅に暮らしているとか、他にもひどい噂が多々ある。勿論、そんな話しはありもしないたちの悪い噂だ。おそらく面白半分で大袈裟に話を歪曲して誰かが噂を広めているに違いない。
莉華子さんは自分で小さなインテリアデザインの会社を経営していてマンションだって自分で全て払っている。
彼女が家を出た理由も颯人さんから色々と聞いている。ただなぜ颯人さんのお父さんと離婚しないのかはわからない。
もしかすると体裁を気にするお義父さんが断ったのかもしれないし、莉華子さんが颯人さんや海斗さんの為に離婚しないのかもしれない。きっと彼女なりの考えや事情があるのだろう。
それに比べ、百合子さんは一昔前の典型的な日本人妻のかがみの様な女性だ。
基本的に男は仕事、女は家庭を守るべきという考えの人で、妻は子供を産み立派に育て、家事も完璧にこなし、夫が少しくらい外で浮気しようが目をつむり、我慢して夫を立てて支えるという立派な人だ。
莉華子さんの様に独立して仕事をして一人で暮らしたり、私の様にグループ会社の御曹司を金の為に陥れたというような噂のある女は彼女の常識からすると信じられないのだろう。
柚木夫妻が私と莉華子さんを不躾にジロジロと見ているのを颯人さんはじっと黙って見ている。
以前会った時はきちんと起立して挨拶したのに、今日は席から立ちもせず相変わらず私の椅子の背に手を置いたまま。私を守る様にその場に座っている。
「まぁ!奥様のご家族がご一緒なんですね。初めまして。わたくし、|柚木拓海《ゆずきたくみ》の妻、百合子と申します」
彼女は私の両親と兄に挨拶をした。慌てて私の家族は席から立ち上がると、柚木夫妻に挨拶した。そして現在夏休みで莉華子さんと一緒にここサンフランシスコを訪ねている事、そして明日日本へ帰る話をした。
「……まぁ、そうなんですね。サンフランシスコを満喫された様でよかったですわ。でも次にいらっしゃる時は可愛いお孫さんに会いにくる時かしら。……お子さんのご予定は?」
百合子さんはにこりと微笑みながら私に尋ねた。
実際に嫌味で言っているのか、ただ単純に世間話として言っているのか分からない。ただそれを聞いた私の家族と莉華子さんは一気に青ざめた。
皆、私が必死に妊活をしているのを知っていて、私の前で子供の話は暗黙の了解で禁句になっている。
私はそんな焦っている彼らを見て申し訳ない気持ちになり、何とか百合子夫人の言葉を冗談でかわそうとした。
すると先ほどから黙って成り行きを見ていた颯人さんがいきなり口を開いた。
「実は孫ができるのは少し待ってもらっているんです。どうしてもわたしがもう少し妻を独り占めしたくて。確かに子供も可愛いのかもしれませんが、今は妻が可愛くて仕方がないんです。それに子供が出来てしまったら、妻に毎晩している遊びができなくなってしまう。ベッドに縛り付けられてお仕置きを受けながら可愛く啼いている妻を、流石に子供には見せられませんからね」
颯人さんはニコリと微笑むと、私の頬にキスをした。
皆が一斉に目を見開いて私と颯人さんを見た。
── なななんて事を言うの……!
「ち、違うの……!」
私は真っ赤になりながら呆然としている両親や莉華子さんに何とか説明をしようとした。そもそもそんな事したことなんてないのに!
翠は俯いて肩を震わせている。絶対にこの状況を面白がっているに違いない。
「ん─… もう忘れたのか? またお仕置きか……?」
颯人さんはわざと皆に聞こえるように私にそう囁き、先ほどから真っ青になったり真っ赤になっている百合子夫人にさらに追い打ちをかける。
「ちょっと颯人さん、一体何を言って ──…」
そう言いかけた時、颯人さんがイタズラっぽく笑って私を見ているのに気付いた。そして同時に、そう言えば以前、彼に一度だけそんな感じでベッドで抱かれた事があることを思い出した。
もちろん本気で縛られたわけではない。確かあれは去年の4月、結婚して彼の出張に初めてついて来た時だった。
夜に二人でチェスをしていて、ゲームに負け続けた私は悔し紛れに彼が見てない隙にクイーンを勝手に動かした。それを見つかってしまい、颯人さんが「お仕置き」と言って両手首を縛ると私が本気で何度も謝るまで散々くすぐられた。
そしてその後、彼にベッドに押し倒され一晩中抱かれた事があった事を思い出した。
今思えばあんなに楽しくただ愛を深めるだけに抱き合ったのはあれが最後だった様な気がする。
あの後私は卵巣に腫瘍が見つかり手術をし、そして回復後はすぐに不妊治療を始めた。あの頃からセックスは子供を作る為だけの行為になってしまった気がする。
私は目の前で悪戯っぽく笑っている颯人さんを見つめた。
急に薫がビーチで私に言った言葉を思い出した。もしかして私は妊娠する事で頭が一杯で、目の前にある大切なものを見失っていたのではないだろうか……?
「颯人さん……」
急に彼に謝りたくて、そして抱きしめたくなって、彼の手を握った。