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「知っちゃったか」
瑞奈が憮然とした表情でため息をついた。
遅れて、俺の背後で玄関ドアが閉まる。かちゃり、と音が立ち、俺が発した、瑞奈、という声に被さった。
俺は、咲良から住所を教えてもらい、事前連絡なしに瑞奈の家を訪問したのだ。
「うーんんんん。まさか咲良が晴翔くんのとこに行くとは。予想外だった、むう。あたしの部屋から晴翔くんの年賀状でも見て住所調べたのかなあ」
狭い玄関内で瑞奈が空気中を蹴る素振りをしだした。視線が俺から離れ、下に向けられる。長い睫毛が影を、瑞奈の表情に落とす。でも、それも一瞬のことだった。すぐに、瑞奈は意思の強い眼差しを俺に向けた。
「ま、ホントかどうかはまだ分からないけどね。案外、誤診になるんじゃないかな。ほら、動けるし。まだALSだと正式決定した訳じゃないし。検査はまだまだ続くし」
瑞奈がぶんぶんと右腕をその場で回した時、背後から「あがってもらいなさい」と女性の声が聞こえた。瑞奈に目元がそっくりなミディアムヘアの中年女性。
「お母さん」瑞奈が手のひらを向けた。
「晴翔君。遠いところをありがとうね。娘から晴翔君の名前は伺っております。さ、どうぞ」
お茶を運んできてくれた瑞奈のお母さんは気を遣ってくれたのか、リビングで五分ほどの談話の後、席を外してくれた。
L字型のソファの先端同士に座っている俺と瑞奈は、暫くの間会話を交わさなかった。瑞奈は、ばつが悪そうに俯いている。こちらから水を向けないと、核心については何も喋ってはくれなさそうだ。
「瑞奈」
ぴくりと反応を示した瑞奈が顔をゆっくりとあげ、俺と目を合わせる。
「もう会わない方がいいんだよ」
瑞奈の口調は、吐き捨てるとまでは言わないが、投げやりだった。「もしも病気が本当だったら、晴翔くんにはすっごく迷惑をかけるし」
瑞奈が疑われている病気――ALS、筋委縮性側索硬化症。昨夜、咲良から告げられたその病気について、俺は狂ったように検索し、調べた。そのせいか瞼が腫れぼったく感じる。
ALSとは、身体を動かす神経『運動ニューロン』が阻害され、体内の筋肉が衰えていく疾患だ。疾患が進行すると全身の骨格筋が痩せ衰え、歩行、会話、食事が困難になる。患者の多くは、最期、呼吸筋が衰え呼吸不全で死亡する。
気管を切開し人工呼吸器を装着する延命措置をしない限り、発症からおおよそ三年以内で亡くなる患者が多数との記述もあった。
あまりにも、俺が知っている瑞奈の状態とはかけ離れているので、まだこの時点で俺にはピンとくるものがなかった。それでも、苦しむ瑞奈を見捨てる気持ちには絶対になれない。そばにいたい。検索で表示された症状が瑞奈に現れても、俺は彼女と一緒にいたい。
「迷惑とか、そういうの考えんなよ」
俺の声は、俺自身が驚くほどに大きく、重々しく響いた。
「俺……おまえの彼氏だろ? そりゃ、家族じゃないから、世間的には簡単に切れる関係なのかもしれないけど。でも、でも……俺は、そういうことを望んでいない。病気で迷惑かけるから別れた方がいいなんて理屈は、俺の中で成り立たない」
瑞奈の頬が蠕動した。瞼が痙攣したようにぱちぱちと開閉が繰り返される。雫が頬を伝い落ちる。電灯が温もりのある光を涙に纏わせていた。それが瑞奈の顎先からぽとりと落ちる。落ちる度に、室内の温度が上昇していく気がした。
瑞奈はそれでも俺から視線を逸らさなかった。泣いているくせに、鋭く挑みかかるような目で俺を見、ぐいっと腕で目元を拭うや、くしゃっと顔を綻ばせた。まだ涙は止まっていない。彼女の顔が俺の視界の中でふいに大きくなる。瑞奈が腰を浮かせ、俺に抱きつき、
キス。
時計が優しく時を刻んでいる。
「お願い」
瑞奈は俺の胸に口を押しつけていた。
「あたしの病気のことは、みんなには黙ってて」
俺が口を挟むよりも早く瑞奈が思いのたけを語った。
「やだもん。あたしが走れなくなるのをみんなに知られちゃうのは。あたし、みんなの前では、サッカーが超、超、上手な瑞奈ちゃんでありたいの」
本当は晴翔くんの前でもそうありたかったんだけど、漏らした瑞奈が俺の胸元で顔をあげた。
突き抜けるような笑顔で、瑞奈は俺を見上げていた。俺の泣き顔を否定するほどに。泣いている俺を叱咤するように。病気という理不尽さをつきつけられた現実を打ち壊すように。瑞奈は、俺に向けて、俺の背後の窓枠から見える果てのない大空へ向けて、彼女自身に向けて、にいっと、憎たらしいほどに邪気のない笑顔を届けていた。