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レモニカが目覚める。最初に気づいたのは空気の温もりに反して冷ややかな床とその細かな揺れだ。飛び起きそうになる体を戒め、慎重に薄目を開いて辺りを見渡し、己の置かれた状況を確認する。どれくらいの時間が経ったのか分からない。なぜ気を失っていたのか、も。
そこは、あのクオルが作った魔法の牢に似ていたが、その大きさは鳥籠ほどのものだ。レモニカも話には聞いていた、ベルニージュが一度訪れたクオルの工房馬車、その二階だった。
息を潜めて鳥籠のぶら下がる部屋を見渡す。側面に沢山ある小さい窓は全て蓋が閉まっていて外の様子は分からないが、天窓は硝子張りなので雨染みに汚れてはいるがまだ昼間だと分かる。斜めに差し込む朧な陽光の中にまるで雪の如く埃が舞っていて、レモニカは少し気分が悪くなった。
部屋には多くの書物と覚書が山のように積まれ、崩れている。棚の硝子瓶の中では邪な何かが蠢き、真鍮の器具が意味ありげに鈍く光っている。天井や壁にはよく分からない予兆めいた汚れや染みがあり、品の良い机や椅子には正体不明の傷がついている。書斎なのか、実験室なのか、そのどちらもなのか、レモニカには分からなかった。
そこには渦巻くような魔法の気配があった。部屋の片隅の薄暗がりで何かが息を潜めていそうな、天窓越しに何者かが覗き込んでいそうな、そういう気配だ。
レモニカは部屋の中心に吊り下げられた鳥籠の中で鼠の姿になっている。つまりレモニカの最も近くにいる者はクオルだということだ。
顔を向けていた視界の範囲にクオルがいないことを確認し、ゆっくりと後ろを振り返ると、巨大な黄色の目玉が二つこちらを見ていることに気づき、驚き、息を呑み、後ろに転がり倒れるが、口の中から飛び出そうとする悲鳴を抑え込む。
鳥籠の格子につかまっているその生き物は猿のような蜥蜴のような姿をしている。猿蜥蜴だ、とレモニカは考え、命名した。猿蜥蜴はじっとレモニカを見つめながら、赤い舌を出したり引っ込めたりしている。短くも鋭い爪を覗かせ、濡れた鱗が僅かな光を照り返す。猿蜥蜴もまた目を細めると、鳥籠を蹴って床へ飛び降り、下の階へと降りて行った。
猿蜥蜴に蹴られて大きく揺れる鳥籠の真ん中に乾いた乾酪があることに気づく。腐っていないだけ見世物小屋よりは良いと思うことにした。
耳を澄ますと下の階から鼻歌が聞こえてくる。クオルの声だ。今のところ二階へと上がってくるつもりはないらしい。
レモニカはおそるおそる鳥籠の格子へと近づくが、鳥籠に備えられた唯一の出入り口には錠が下ろされ、格子自体も頑丈だ。
酷い状況には違いないが、今のところ差し迫った命の危険はないようで、レモニカは一安心した。それと同時に胸に詰まった情けなさが疼き、嗚咽がこみ上げてくる。
ユカリやベルニージュの役に立ちたい、少なくとも足を引っ張りたくないと思い、ベルニージュに相談した矢先にさらわれてしまう己に腹が立った。まんまとしてやられたことを思い知らされ、レモニカ鼠は歯噛みする。
同時に、助けられてなるものか、救われてなるものか、という思いが燃え上がる。何とかしてここから自らの力で脱出する手立てを見つけようと志す。
脱出の役に立ちそうなものは、誰かの嫌いな生き物に変身する呪いと、呪われた者の欲望を引き出す紫の蜥蜴くらいだ。具体策はまだ思いつかないが、上手く使えば脱出の目はあるように感じた。
工房馬車は昼の間、ひと時も休むことなくずっと走り続け、昼の終わりを告げる橙色の光が閉め切られた窓蓋の隙間から漏れ出した頃、ようやくどこかに停まった。
逃げていると見せかけて奪いに来る策を二度行うつもりはないらしい。今は逃げの一手のようだ。ユカリの所持する魔導書は全てユカリのもとに戻って来る、とクオルは思い込んでいる、という仮説に信憑性が増す。
馬車が走っている間、レモニカは出来る限り鳥籠を調べたが何の収穫もなかった。しかし部屋を観察していると、御者台へと続く扉の横の壁に吊るされているいくつかの鍵に気づいた。もしかしたらその中にこの鳥籠の錠を開く鍵があるのかもしれない。
レモニカは暇に飽かせて紫の蜥蜴の呪いの練習をした。全てはベルニージュに教わり、既に習得しているという自負はあったが、練習する暇がなかった。まさかこれほど早く実践することになろうとは想像していなかった。
紫の蜥蜴の呪いは二つの呪いで構成されている。一つは蜥蜴の呪いで、もう一つは尻尾の呪いだ。蜥蜴の呪いで呪われた者が尻尾の呪いで呪われた物を強烈に欲するというわけだ。
ベルニージュのいう所には、この呪いはクオル自身が作り上げたものらしい。呪文は主にシグニカで使われている言葉で構成され、南西部の方言を中心に掛け合わされているとまでベルニージュは特定していた。だからといってクオルがそこの出身だとは限らないし、そうだとしても大してクオル対策の参考にはならない、とレモニカは聞かされていた。
レモニカの持つ紫蜥蜴の呪いは一匹であり、これはつまり一度呪文を唱えたなら、回収するまでもう一度唱えることはできないということだ。また蜥蜴の呪いはある程度対象との距離があっても呪うことはできるが、尻尾の呪いは対象に触れなくてはならない。他にも距離や障害物への対応や食物を経由させる等の工夫をベルニージュから教わった。
試しにレモニカは乾酪に蜥蜴の呪いを行使する。物なので何かを欲したりし始めはしないが、もし誰かが乾酪を食べたなら、その者を呪うことができるはずだ。レモニカの唱えた小さな呪文は、鼠の小さな舌を離れて空気に触れると紫蜥蜴の形を得て、ぱたぱたと鳥籠の床を這い、乾酪の中へと飛び込んだ。特に問題なく行使できたことにレモニカは安堵する。肝心な時に使えなくては意味がない。
階段を上る足音が聞こえ、レモニカ鼠が鳥籠の中で身構えているとクオルが青白い顔を見せた。憎々しくも、まるで自分の所有物であるかのように茜色の円套、魔導書の衣を翻して現れる。
「お疲れ様です。レモニカさん」と得意げな笑みを浮かべてクオルは言う。「酷い顔をしてますね。鼠は大体酷い顔をしているものですけどね」
「ちゅう」とレモニカは答えた。
クオルは首を傾げ、首を横に振る。「……いや、前に鼠の姿で話してましたよね? 覚えてますから」
レモニカはクオルを睨みつけて言う。「わたくしをどうするつもりですの?」
「前にも言いましたよね? その変身の、呪いに興味がありまして。調べさせてもらいます」
「痛いことをするのですか?」
「安心してください。徐々にです、徐々に。長持ちしてもらわなくてはなりませんからね。最後の方はまあ、痛い方がましだと思うかもしれませんが、その前に私が知りたいことを知れたら、そうする必要はないわけです」クオルは少しも欠けていない乾酪に目をやる。「それより乾酪は食べないんですか? 鼠なのに」
レモニカは鼻先を乾酪に向けて臭いを嗅ぐ。「ええ、毒が入っているかもしれませんから」
クオルはからかうように苦笑する。
「毒は入ってませんよ」
「毒は?」
「ええ。まだ入ってません」
「まだ?」
「好き嫌いはよくありませんよ」
「毒が好きな者などいませんわ」
「美味しいのに。強情ですねえ」と言ってクオルはため息をつく。
「貴女が食べて見せたなら、わたくしも食べますわ」そう言ってレモニカは乾酪をクオルの方へ押しやる。
クオルはため息をついて言う。「私、乾酪の味、嫌いなので。赤い舌も食べませんからね。彼は賢いし、それに彼も乾酪は嫌いないので」
「誰ですか?」
クオルは辺りを見渡して言う。「そういえばいませんね。見張ってろと言ったのに。どうも私は小動物を甘やかしてしまうんです」
どうやら猿蜥蜴のことらしいとレモニカにも分かる。レモニカはため息をついて話を変える。
「それで、どこへ向かってますの?」
「野暮用ですよ。私にも生活がありますから、エイカさんたちの相手ばかりもしていられません」クオルは立ち去ろうとして階段の方へ足を向け、しかし立ち止まって言う。「下手なことはしない方が良いです。そう簡単には逃がしませんからね。それに、貴女が自力で脱出するよりもエイカさんたちの助けを待つ方が賢明というものでしょう」
レモニカは何も答えなかった。階段を降りようとするクオルはもう一度立ち止まる。
「その乾酪を食べなければ次の食事は出ませんからね。あとどこか痒くなったら教えてください」
絶対に食べるものか、とレモニカは決意する。
クオルが階下に降り、レモニカは乾酪から蜥蜴の呪いを回収すると鳥籠から蹴落とした。
日が暮れて、子を呼ぶ梟の鳴き声が聞こえ始めた時、就寝の挨拶もなしに階下の明かりも消え、工房馬車は真っ暗闇になる。猿蜥蜴ビビッキはしばらくして戻って来るが、眠りに就く様子はなかった。どころか書類の山の上で暴れ、興奮した様子で部屋中を走り回る。どうやら夜行性らしい。
夜も更け、星明りは一際澄んで、ビビッキの騒音にも慣れた頃、レモニカは夢の一端に触れてうとうととする。小さな鼠の体に疲れがじんわりと広がっていた。
レモニカが夢との境に足を踏み入れると、「いったい何なのだ、彼奴め!」と誰かが言い、レモニカは飛び起きる。
しかしその主なき声の残響はすぐに小さなレモニカの元を離れ、工房馬車の小さな窓の蓋の隙間から出て行った。誰の言葉か分からなかったが、自分の寝言でなければクオルでもないことは間違いなかった。暗闇の中、戸棚の上でビビッキがじっとこちらを見ていることに気づいた。