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翌朝、レモニカが目を覚ますと工房馬車はすでに走り始め、ごとごとと部屋全体が揺れ、天井からつるされた鳥籠は振り子のように揺れていた。レモニカ鼠の体は冷えて、あちこち痛み、呻きながら体を起こす。
鳥籠の端に、干からびた林檎の欠片が置いてあった。どうやら昨日蹴落とした乾酪にクオルは気づかず、新しい食事を用意してくれたらしい。
レモニカ鼠の小さな腹は小さく鳴って、小さな林檎を渇望している。しかしレモニカは己の腹を宥めすかして駄々をこねる空腹を抑え込んだ。ここで餓え死ぬつもりはないが、どこかで限界が来るにしても、まだその時ではないはずだ、と自分に言い聞かせる。
ビビッキは戸棚の一つで丸くなって眠り、赤い舌を時折ちろちろと見せている。それを確認すると、レモニカは林檎の欠片を床へと蹴落とした。
揺れに揺られた午前はゆっくりと過ぎ去り、正午も少し過ぎた頃、工房馬車が軋みながら停まった。それでも鳥籠は工房馬車が停まったことに気づかないかのようにしばらく揺れ続ける。
レモニカには世界の果てにまでたどり着きかねないとても長い時間に感じられたが、実際にはまだサンヴィア地方の痩せこけた土の上にいた。
二階へと上がって来るなり、クオルは鳥籠を吊るした鉤から取り外す。そうして鳥籠を両手で持ち上げて、朗らかな笑みを浮かべて言う。
「おはよう。レモニカさん。今日はとても良い天気です。絶好の実験日和です」
恐怖を感じる間もなく、レモニカの鳥籠は鼻歌混じりのクオルに工房馬車の小さな庭へと持ち出される。庭には青々とした芝生が敷かれ、一本の小さな菩提樹が植えられている。噴水はないが、芝生は露が滴り、菩提樹は瑞々しく茂っている。まるで夏の衣の端を切り取って、この庭を飾っているかのようだ。太陽さえもこの庭だけを祝福している。
一方で工房馬車の停まるこの土地は冬であること以上に寒々しい。ここはシグニカとの境に触れるサンヴィア西部に広がる荒野巡礼者の苦難と呼びならわされる土地の一角だった。古くは善き者が訪れるには実りがなく、邪なる者が訪れるには陰りのない無人の荒野だったが、救済機構の総本山を目指す巡礼者の歩みが長い年月を経て道を刻んでいた。今でもユーグ・ラスの荒野に根を下ろす者はいないが、古き時代とは違い、荒野の周囲には幾つかの宿場町が形成されている。
隔てる物のない荒野に工房馬車の姿は目立つはずだが、それを見咎める者もどこにもいない。
「寂しい土地ですわね」とレモニカは呟く。
その言葉に返事する者はいなかった。
そしてクオルは言う。「どこか痒いところはあります?」
「全身が痒いですわ」とレモニカは適当に答える。
「そうなんです? これは予想外の結果ですね、全身ですか」そう言ってクオルはどこかから取り出した紙に何事かを書き記し、独り言ちる。「ということは身体性の呪いですかね。うーん。それにしては条件が緩い。遠回りというか、逆に難しいですよね」
レモニカは何か懐かしい気持ちになって、搔き集めるように追憶する。レモニカの呪いに興味を示し、レモニカには大して興味を抱かなかった賢い人々のことを思い出す。
「そうなのですか」とレモニカは適当に相槌を打つ。
「さて」と言って、クオルが拾い上げたのは短剣だった。「動かないでくださいね」
レモニカは慌てて鳥籠の反対側へと後ずさりする。
「何をするつもりですか!? やめてください!」
「少し切るだけですよ。落ち着いてください」とクオルは落ち着いて言う。
「落ち着いていられますか!? 一体何の目的でわたくしを切り刻むのですか!? もう殺すのですか!?」
「いえ、まだ殺しませんよ。変身前と変身後の傷の様子を見比べたいんですよ」
「それなら、体の縮尺に合わせて傷の大きさも変化するだけです!」
クオルは慌てて覚書に書き記し、新たな疑問を投げ掛ける。「でも例えば人間に尻尾はないじゃないですか。尻尾を怪我した後に人間の姿になった場合、その怪我はどうなるんです?」
「何も不思議なことなんて起きません!」と窘めるようにレモニカは言う。「ただ背中とお尻の間辺りに怪我ができるだけです!」
「へえ、そうなんですか。自分の目で見るのが楽しみです。動かないでくださいね。手元が狂えば悲惨なことになっちゃいますよ」
クオルが短剣を鳥籠の格子の隙間から差し込んでくる。冷静になれば容易く避けられるはずなのに、レモニカは迫る巨大な刃を前に体が震えて身動きできなかった。
「うわ!」とクオルが小さく驚く。「どうしたんですか? ビビッキ。餌なら後にしてください」
いつの間にかクオルの黒髪の上に猿蜥蜴ビビッキが乗っていて、クオルの頭を揺らしていた。それに合わせて短剣の刃先が揺れ、レモニカは悲鳴をあげて転げながら逃げ回った。
「ああ、何だ。もう来たんですか、彼」そう言ってクオルは短剣を引っ込める。「とりあえず実験は終わりですね」
「別に続けてもらっても構わん」
その角笛の如き猛々しくも伸びやかな声の主に聞き覚えがあり、レモニカは目を凝らす。
雪のように美しい白い鞘の剣を佩く、汚れもくたびれもない旅装束の初老の男。それは、凍り付いたウクマナ湖沿岸の街トットマで出会い、そしてレモニカに襲い掛かって来た強力な戦士、ボーニスだった。前に会った時と比べて乱暴な言葉遣いであることにレモニカは気づく。
鳥籠の中では身を隠すこともできず、ボーニスと視線が合う。
「自力で捕まられたのか」とボーニスは興味がなさそうにクオルに言う。
「ええ、お陰様で報酬が浮きました」とクオルがにこやかに言う。
「前払いは貰ったから構わんがな」
「そういえばそうでした。憎らしい。おっと、近づいちゃ駄目ですよ」と言って、クオルはボーニスを手で払う仕草をする。
「分かってるさ」そう言ってボーニスは庭に設置された長椅子の一つに座り、菩提樹の枝ぶりを見上げる。
やはりボーニスはクオルに依頼されてレモニカを攫おうとしていたのだ。
「それで? 彼らは何か新しいこと言ってました?」とクオルは尋ねる。
ボーニスはちらとクオルの全身を眺める。変わらない表情でじっと魔導書の衣を見つめるが、特に何も口にしなかった。
「いいや、何も。いつも通り研究成果の催促だよ。先生は何と仰ってるんだ?」
「別に何も。先生は俗事にかまけてる暇はありませんから、ただひたすら研究に邁進しておられます。研究成果は全て提供していますし、速度はまあ、いくら急かされてもただ頑張るしかありませんから」
ボーニスは何かを抑え込むようにして言う。「何か他にないのか。ご健康でいらっしゃるのか?」
「相変わらずですよ。思索と研究に夢中で、他のことは何もかも私に投げっぱなしです。放っておけば何も食べずに数日を過ごしてしまいますから気が抜けません」
先生というのはどうやら例の尼僧にして魔術師メヴュラツィエのことらしい。世間的には殉教者として知られる尼僧、革新的な魔法使いであり、実際には非人道的な人体実験をしたために救済機構に最たる教敵認定されたという女だ。
「では次の依頼ですね」クオルは地面に跪き、長椅子を机代わりにして紙に何かを書いていく。「次は大きな報告ができるかもしれませんよ」
「その、鼠が関係しているのか?」とボーニスは言う。
「ええ、この子の呪いは、何者にかけられた呪いなのか知りませんが、我々の研究を大いに前進させてくれます。はい、これをどうぞ」
クオルが腕を伸ばして紙を掲げる。ボーニスは立ち上がり、紙を受け取ると仔細に検証する。
「殺しは無しか」とボーニスは呟く。
「そうですね。生きていた方が良いですが、難しいようなら上から三人は死んでいても構いません」
「抜かせ」と言ってボーニスは紙を懐にしまった。
そうしてボーニスは再び菩提樹を見上げる。クオルもボーニスもしばらく沈黙を保っていたが、先に口を開いたのはクオルだった。
「それじゃあ、例の日の例の時間に例の森でまた落ち合いましょう」
ボーニスはそれには返事せず、さりとて立ち去ることもせず、菩提樹の枝葉の隙間から差し込む冬の陽光に目を細め、言った。「なぜ弟子の中でも最も不出来なお前を先生は選んだんだ? なぜ俺でも、一番弟子でもなく、お前なんだ?」
しばしの沈黙の後、「さあ?」と言ってクオルは首を傾げる。「宇宙の如き先生の深慮を私ごときが推し量ることはできませんよ。とはいえ私にも一つだけ誰にも負けないと自負していることがあります」
「ほう。お前が他の弟子の誰かに勝っている点があるとは思えんが」とボーニスは容赦なく言う。
クオルはボーニスを見つめてはっきりと言う。「誰より先生を敬愛しているのは私です。それを先生自身も理解しておられ、それゆえに信頼してくださったのだと信じていますよ」
ボーニスは呆れたように苦笑し、首を横に振る。
「馬鹿め。何を敵に回したと思ってる」
「最たる教敵に認定されていることですか? でも元々偉大なる尼僧として殉教認定までした先生のことを隠したい救済機構は大っぴらに焚書機関みたいな対策組織を立てられませんよね? そんなの先生の恐るるに足りませんよ。私は恐ろしいですけど。それで他に何が?」
ボーニスは何かを迷い、話す。「焚書機関の第二局首席がサンヴィアに来ている。魔導書の発見例が一つもないサンヴィアにな」
「第二局ですか」クオルは何か思い当たることがある様子だ。「ボーニスさんは、元首席のチェスタ氏が何をやらかしたのかご存知ですか?」
首を横に振ってその問いに答えると、ボーニスは立ち上がり、工房馬車の庭を出て、ユーグ・ラスの荒野を歩き去った。
去り行くボーニスの背中を見つめ、「焚書官ですか……あ!」とクオルは声を出す。「エイカさんの魔導書のことを伝え忘れてましたね。まあ、いいか。むしろその方がいいか。いや、でも魔導書だって教えずに……」
その言葉にレモニカは驚くが態度には出さず、クオルの曲がった背中を見つめる。ボーニスにユカリたちから魔導書を奪うように命じるつもりだったのだろうか。
クオルが振り返り、レモニカ鼠の目の高さに合わせて小さな瞳を覗き込む。
「まさかこの衣が魔導書だなんて、驚きました」とクオルは言い、返事を待つがレモニカは何も言わなかった。「これ程頑丈な存在はありません。もちろん私の扱えない強力な魔法で破壊できる可能性はありますが、十中八九この衣は魔導書です。ご存知でした?」
レモニカはクオルの言うことが世迷言であるかのように呆れた風に話す。
「魔導書は世に有数の秘宝だと聞いております。海の底か神の武器庫か冥府の書庫にでも行かなければ手に入らない代物だと」
クオルは小さく笑う。「それはやや大げさですが、確かに秘宝中の秘宝には違いありません。まあ、この認識も多少修正した方がいいかもしれませんね。有るところには有るようですし。まさか手に入れる日が来るとは思いませんでしたよ」
そう言ってクオルはくるりと回って茜色の衣を翻す。
レモニカはクオルを睨みつけて言う。「すぐにエイカさまとベルニージュさまが取り戻すことになりますわ」
「頑張って阻止しますし、他の魔導書も手に入れてやります。どうやらこの衣がエイカさんの元へ戻る心配はないようですし、あの一冊を除いて他の魔導書もそうだったのかもしれません。後悔してももう遅いですが思い込みというのは恐ろしいものですね。せっかくの好機をふいにしてしまいました。正直な話、 この衣も頑丈である他は触媒として優秀なだけなので、少しがっかりしていますが」
「贅沢なことですわね。世界に名だたる秘宝に文句を言うとは」
「どうにも、まだ使いこなせていないんだと思います。裏地には、見たこともない文字と淡く光る禁忌文字。それに、あの発光現象の度に裏地の禁忌文字が一つまた一つと光り始め、触媒として強化されています。全ての文字が光ったらどうなるんでしょうか? 何かの力が解き放たれる? だとすれば私の追跡に利用するのは危うい賭けですよね?」
レモニカは下手なことを言えないと口を噤むが、その行為自体がクオルの言葉に同意しているかのようで、もどかしかった。
「そうそう、禁忌といえば、世間を騒がす魔法少女とかいう謎の人物ですよね。魔導書を収集しているそうですが、私には一人心当たりがあるんですよ」
クオルはレモニカをじっと見つめ、レモニカもまたクオルをじっと見つめ返した。
クオルは微笑みを浮かべると、鳥籠を抱えて工房馬車の室内へと入った。二階へと上がり、部屋の真ん中からぶら下がる鎖の先の鉤に吊り下げる。その間、一言もレモニカと言葉を交わさなかった。そして衣嚢から取り出した乾酪を籠の中に押し込むと階下へ降りて行った。
次にクオルとボーニスが落ちあえば、ボーニスは再びユカリたちに襲い掛かることになる。その前に危機を知らせたいが、そのような手立てはない。それにそれを知ったところで二人の少女の選択に大して影響を与えないだろう、とレモニカは思った。どちらにしても魔導書の衣を取り戻しにやってくるはずだ。出来ることならばレモニカは一人脱出し、魔導書の衣を手土産としたかった。