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最初に広がったのは病ではなく、歌だった。
朝の鐘のあと、塔の上で司祭が両手を掲げる。白い布が風をはらみ、王都の四方にのびた喇 叭(らっぱ)口から、勇者の名を繰り返す合唱が流れ出す。通りの屋台は一斉に手を止め、子どもは胸に手を当て、老人は膝を折る。歌は祈りの形を借りて、命令のように降ってくる。
「恐れるな、勇者の加護は水のごとく降る」
その宣言どおり、加護は水に紛れた。城門の外、役人と修道士が「加護水」と記された桶を並べる。ひしゃくが光り、杯が満ちる。暑さに乾いた喉は、理由を問わない。まずは旅人が、次に兵が、最後に町の家々がそれを受け取った。味はふつうの水と変わらない。ただ、飲んだ日から、眠りの深さが少しだけ薄くなった。
徴候は目立たぬ順でやって来る。
家畜が草を残す。朝、石畳を掃く女の腰がきしむ。少年は走り出す足を一歩だけためらう。作業台の職人は鑿を持ち替える回数が増える。誰もそれを病と呼ばない。疲れだ、季節だ、年齢だ。——歌が言う。「心弱き者は加護に気づかぬ」と。
広場の片隅、私たちは紙束を胸に抱えて並んでいた。勇者のいない勇者パーティー——そんな言い方をされるらしい。僧侶は記録を閉じ、魔法使いは印章の擦れ具合を確かめ、盗賊は周囲の出口を数え、私は剣帯の重さを確かめる。順番が来る。門番は笑顔で言う。「加護を賜りに?」
「いいえ、申したいことが」
言葉の途中で、書記官の指が空中で斬るように振られた。「異端の申し立ては午後。今日は讃歌の日程が詰まっている」
「水に少し、異常がある。念のため——」
「不敬です」
不敬、という語は、扉だ。
そこに触れた瞬間、鍵が増える。私たちは下がり、扉の前で立ち尽くす。背後では讃歌が一段高くなり、加護水の桶が補充される。塔の上の司祭がもういちど両手を掲げる。人々は安心した顔で杯を掲げる。安心できる理由が歌われているから、安心できた。
その日の夕暮れ、城壁の影は長く、影の端で一羽の鳥が水たまりをつついた。羽を休めるみたいに、くちばしを二、三度入れる。飛び立つ前に、鳥は少し首をかしげた。たぶん、ほんの少しだけ重たくなったのだ。誰も気づかない。夜の合唱が始まる。窓が開く。杯が満ちる。
——これは告発ではない。
私たちは刃でなく言葉を選ぶ。
歌の届かないところに、言葉を置くために。