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新しい学期が始まり、秋から冬へと季節が移ろう様を構内の彼方此方に植えられている木々の色付きから気付き始める初冬のある日、今日は風もなくて日差しが心地よい小春日和だった為、授業で酷使した脳味噌に栄養と休息を与えるために学内にあるカフェでランチを食べていたウーヴェは、声を掛けながら同じテーブルに腰を下ろしたのが友人である事に気付き、食事をしながらも読んでいた本をカバンに戻して苦笑する。
「今日は暖かいよね」
「外で食べても気持ちが良いかも知れないな」
頬杖を突きながら高い窓の外を見やったウーヴェは、同じ表情で同じように窓の外を見るマウリッツにどうすると誘いかけると、それも良いと頷かれて席を立つ。
木の葉が舞う様な風は吹いておらず、ただ暖かさをもたらす太陽の光に目を細めてテラス席に向かった二人は、先にそこにいた友人を発見して顔を見合わせ、皆考えることは同じだと笑ってそのテーブルに近付いていく。
「カール、オイゲン、きみたちも今か?」
「そうなんだよ、教授がうるさくてさぁ…お前らも今からなのか?」
「ああ」
気心の知れた友人二人に二人が笑いかけてベンチに腰掛けると、先にいた二人が何を食べているんだと二人のトレイを覗き込む。
「…ウーヴェ、お前、またそれだけしか食わないのか?」
「これだけで十分なんだ」
マウリッツのトレイには年齢と体格に相応しいだけの料理が載っていたが、ウーヴェが置いたそれには大きめのマグカップに入ったカフェオレとリンゴのタルトが載っているだけだった。
ギムナジウムの頃から食の細さに関して友人に苦言を呈してきていたオイゲンが今日もまたいつものようにもっと食べろとウーヴェを見るが、これで十分だと返されて溜息を零しながら肩を竦める。
「それだけしか食べないから細いんだ」
バツの悪そうな顔で他の三人を見たウーヴェの手をひょいと掴んで手首の細さを強調するように指で輪を作ったオイゲンは、この細さであれだけの体力が一体何処に蓄えられているんだろうなとカスパルに笑いかけ、マウリッツも同意を示すように頷く。
先日学内でテニス大会があり、本格的ではないが気心の知れた仲間同士でテニスサークルを作っているカスパルとウーヴェが出場し、二人で表彰台の左右を占領したのだ。
その体力が何処から出てくるんだと呆れたようなオイゲンにウーヴェが苦笑し、手が痛いから離してくれと控え目に申し出て自由を得ると、心配性な友人を安心させるためにリンゴのタルトにかぶりつく。
「そう言えば聞いたぞ、ルッツ」
「ん?早耳で早口のカールは何を聞いたんだ?」
カスパルが身体ごとマウリッツに向き直って頬杖を付く様に向かいに座るウーヴェとオイゲンが目を丸めてどうしたと問い掛けると、カスパルの瞳にいたずらな色が浮かび上がる。
「学内一の才媛であるユーディットを振ったそうだな、ルッツ」
友人の視線を受けつつマウリッツがパスタを口に運ぼうとした時に告げられたそれに直ぐさま答えることが出来たのは本人ではなく同じようにホットサンドを咀嚼していたオイゲンで、本当かと声を大きくしたために背後の学生が興味深げに見つめてくる。
「……もう知れ渡ってるのか…本当にカールは耳が早いな」
パスタを一口食べて水を飲んだマウリッツが呆れつつも否定をしなかったため、三人が三者三様の顔で穏やかで端正な顔を凝視し、見つめられた方は居心地が悪そうに身体をもぞもぞとさせてしまう。
「…ぼくは誰とも付き合わない、そう言っているんだけどな」
どうしてそれを信じてくれないのかと哀しそうに呟き、どうせ明日になればその噂には手が生え足が生えて学内を歩き回り、再びカスパルの耳に入ったときにはモンスターのように成長しているよと自嘲すれば、ウーヴェが僅かに目を伏せて白い髪を左右に軽く揺らす。
「言いたいヤツには言わせておけばいい」
友人達の色恋話に積極的に口を挟むウーヴェではないが、相手がマウリッツの場合は何か思うところがあるのか、短くても心底彼を思っている言葉を不思議と相手の心に響く声で告げ、軽く目を瞠る友人に小さな笑みを浮かべる。
「ありがとう、ウーヴェ」
「気にするな」
どちらに対しての言葉なのかは明言しないが、それでもマウリッツの事を考えているウーヴェの言葉に彼も納得した顔で頷き、カスパルに肩を竦めて新しい噂が耳に入ればまた教えてくれといつもの穏やかさを取り戻した顔で笑う。
「もったいないと思うんだけどなぁ……まあ、でもユーディットに関しては振って正解かもなぁ」
カスパルがおいしく無さそうな顔で残っている料理にフォークを突き刺し、あいつの性格の悪さは有名だと吐き捨てるように告げて皆の視線を集めると、生まれ持った美貌と頭脳と家柄の良さを鼻に掛ける高慢な女で、自分が相手にするのは限られた男だけだと公言して憚らない態度で同じ学年の女性達から羨望よりも敵意を多く貰っている筈だと答え、料理を口に運んで三人を見る。
「そんな女がルッツと付き合うって?…目を開けたまま寝言が言えるんだな、あいつ」
「本当にな」
カスパルとオイゲンの間で、いつも男を引き連れて歩いている女性についての談義が始まってしまい、残る二人はただ無言で肩を竦めて話を聞いているが、彼女の実体や影に纏わる話を聞き進めていると、ウーヴェがマグカップの縁を指の腹でなぞりながら口を開く。
「ルッツ」
「なに、ウーヴェ?」
「気分を悪くしたら許して欲しい……本当にこれから先、誰とも付き合うつもりは無いのか?」
人には自らが腹に秘めた決まりなどが存在することは理解しているが、まだ学生で人生が何であるのかすら経験していない今、生涯独身を貫く決意をするのは早いのではないのかとマウリッツを思いつつも、己の疑問や不安をどうしても混ぜて問い掛けてしまったウーヴェは、穏やかな顔に一瞬だけ意味の分からない赤みが差したかと思うと、直ぐさま常のように微かな笑みを浮かべたため、その意味を教えてくれとは言い出せなかった。
「……そりゃあぼくだって一緒にいたいと思う相手に出会うかも知れないし、誓いを立てたからと言ってそれを破らないとも限らない」
「……そうなのか?」
「うん。でも、……今は、うん、まだこのままでいいかな」
勉強に専念したいと言うわけではないが、しばらくの間は誰にも恋することはないと、内面の葛藤を僅かに感じさせるように薄い水色の瞳を左右に揺らし、言葉にも躊躇いを込めて呟くが、食べていた手を止めてウーヴェの眼鏡の下を覗き込んだマウリッツは、これが今の自分の偽らない本心だと笑みを浮かべた為、ウーヴェが無意識に溜息を零す。
「心配をしてくれてありがとう、ウーヴェ。でも…ぼくよりもきみの心配をした方が良いんじゃないのかな?」
マウリッツの言葉にウーヴェがマグカップをトレイの中でひっくり返しそうになって慌てて手で支え、二人で高慢な女性の鼻っ柱をいかにして折ってやろうかと、フェミニズム色の強い女性達が聞けば目を吊り上げそうな事に話題を移行させていたカスパルとオイゲンが話に割り込んでくるように顔を突き付けてきた為、ウーヴェがついカバンの中の本を取り出して自分たちと二人の間にずいと突き出して壁にしてしまう。
「ウーヴェ、それはヒドイよ」
「……急に顔を突き出すから驚いたんだ」
「ウーヴェの心配って何のことだ?」
自分たちの間で秘密や隠し事はさせないと捲し立てるカスパルに耳を塞いだウーヴェは、そうすることでマウリッツの言葉も聞こえなくなる事に気付いて慌てて手を離し、代わりにマウリッツの口を覆うように手を宛う。
「……ウーヴェ!往生際が悪いぞ!」
「ルッツ、俺は心配されるようなことはないから言わなくて良い」
慌てるウーヴェが珍しくて少しだけ意地悪をしたくなったマウリッツは、ウーヴェの手を掴んでそっと引き剥がすと、逆にウーヴェの白い頬を軽く指の背で撫でて赤くなっていると呟き、大学に入ってから付き合っているアンケとケンカしたのかいと目を細めると、再び隣の二人が大声を発してウーヴェに顔を近付け、周囲の物音に負けそうな小さな声が別れたと答えた為に顔中で驚きを表してしまう。
「…っ!!」
「アンケと別れたのか!?」
「どうして別れたんだ?それに、頬が赤いのはどうしてだ?」
カスパルの純真な好奇心からの問いと、それとは質を異にするオイゲンの何故という言葉にウーヴェは当初は何も答えずにただ口元に苦笑を浮かべていただけだったが、二人の友人の剣幕から黙っていられないことを悟って肺の中を空にするような溜息をつき、二人の色の違う瞳を交互に見つめた後、見解の相違だと短く答えるが、マウリッツも別れの理由と頬が赤くなっている理由を知りたがっていた為、それだけじゃあ分からないよとやんわりと先を促してくる。
「……彼女が…しつこく家のことを聞いて来たんだ」
ウーヴェにしては珍しく不明瞭な言葉で告げられたそれに友人一同の目が見開かれたかと思うと意味深な視線を交わし合うが、ウーヴェが何かに気付いて友人達に釘を刺す。
「彼女とは穏やかに別れた。だからあの教授にしたようなことをするなよ?」
自分が傷付いたからといって報復をするなど考えるなと鋭い目つきで三人の顔を見たウーヴェは、マウリッツが無言で肩を竦めたのを切っ掛けにカスパルも仕方がないと言う代わりに溜息を零したことに安堵するが、オイゲンの切れ長の双眸が険しいままだったことに気付いてそっと名を呼ぶ。
「オイゲン…?」
「ウーヴェ、彼女を庇うな」
「……庇ってなど、いない」
「殴られるような別れは穏やかじゃない」
オイゲンの静かだが逆らえない口調にウーヴェが言い淀みながら視線を泳がせ、彼女との間には何事も無かったようにしようと約束をし、それが果たされることを期待していると返したとだけ答えるが、庇うなと畳み掛けるように言われて言葉を飲んでしまう。
「アンケはお前を殴ったんだな?」
「……少し、叩いただけ、だ」
「殴ったにしろ叩いたにしろ、お前が痛い思いをしたことは間違いないんだろう?」
ウーヴェがことを穏便に納めようとする言葉を覆す強さと冷たさで言い放つオイゲンの様子に、さすがにカスパルもマウリッツも穏やかではないものを感じ取って友人のエスカレートしかねない行為を押し止める為に名を呼ぼうとするが、まるで口論をしている者同士のような賑やかさを纏った声が近づいてきて、三人がほぼ同時にその声の方へと向き直り、予想通りにやってきた残りの友人二人を呆れ顔で出迎える。
「今度はなんの騒ぎなんだ?」
「聞いてくれよ、みんな!ミヒャがヒドイんだぜ!」
くるくると丸まる巻き毛に手を突っ込んで苛立たしそうに掻きむしったマンフリートの言葉にミハエルが目を剥いて反論し、ウーヴェ達が使っているテーブルの周囲が一気に騒々しくなってしまう。
頭痛が酷い時の顔でその喧騒を堪えるウーヴェだったが、同じような顔で見つめてくるマウリッツに気付いてほぼ同時に立ち上がり、その行動でミヒャが悪いだのマニが分からず屋なんだと騒ぎ立てる二人の口がぴたりと止まり、呆れつつも仲裁するように声を掛けていたカスパルとオイゲンも口を閉ざして仲間内で最も穏やかと評されるマウリッツと、その彼と比べれば冷たさや激しさのあるウーヴェが静かに自分たちを見下ろしていることに思わず固唾を飲んでしまう。
「うるさい」
「ぼくはウーヴェの話を静かに聞きたいから中に入るよ」
穏やかさで定評のある二人だが、実際は機嫌を損ねると最も機嫌を直すのに手間暇が掛かる二人でもあることを他の面々は熟知していて、カスパルやオイゲンなどは人は見かけによらないと良く呟いている程だった。
だから二人が冷たく言い放ったその言葉に四人が反省の態度を示した為、瞬間的に表情を切り替えたマウリッツと冷たく一同を睨んだ後で溜息一つで許すことを示したウーヴェに声に出して悪かったとそれぞれが謝罪をし、そもそもの発端になったミハエルとマンフリートのケンカまがいの口論について話を聞き出すが、その話の間中、オイゲンの切れ長の瞳に見つめられている事をウーヴェは気付いていたが、その視線に見つめ返してどうしたと問い掛けることも、大丈夫だから心配しないで欲しいと安心させる言葉を伝えることも出来ないのだった。
日が暮れるのがすっかりと早くなり、ほんの一月前までならば明るかったのに今では暮色が強くなっていて、そんな夕暮れの色に染まる石畳の道を背の高い友人と一緒に歩いていたウーヴェは、今日のランチの時に聞きそびれた友人の本心を聞き出そうと言葉を選びつつ問いかけると、躊躇いを覚えたような気配を滲ませた友人の顔を見上げる。
「……何か言いたいことがあるのなら言って欲しい」
「あるね」
今日のランチで図らずも彼女との別れ話を提供してしまったウーヴェは、彼女に叩かれたとはいえそれでも穏便に別れたのだから何も言わないで欲しいと苦笑し、一人暮らしをしているアパートの階段に足をかけると同時に背後から季節を先行しているような声が流れ出し、驚きに振り返って同じ高さになっている友人の目を覗き込む。
「オイゲン?」
「俺が言いたいことがあるのはお前に対してじゃない。お前を殴ったあいつにだ」
「……もう良いんだ。彼女は彼女なりに傷付いていると思う」
今回の別れが彼女の為になれば良いと願いながら苦笑し、家に寄って帰るのだろうとオイゲンを誘うが、いつもならば一も二もなく上がり込んでから帰路に就くオイゲンがゆっくりと頭を横に振ってウーヴェを更に驚かせてしまう。
「……あいつを庇うなと言ってるだろう?フェル、お前は優しすぎる」
「……そうか?」
「あいつはお前の心と身体を傷付けた」
お前が別れを選択するほどのことなのだ、余程しつこくお前が嫌だと思っていることを言われ続けたのだろうとオイゲンが腕を組んでウーヴェを見つめれば、見られる居心地の悪さからウーヴェのターコイズ色の瞳が左右に揺れる。
「俺は……自分の大切なものを傷付けられたら、それが例え女であっても許さない」
「イェニー!!」
それが心の底から好きになった女であっても、きっと自分は我慢出来ずに手を挙げてしまうと冷たく笑う友人にウーヴェが瞬間的に何かを感じ取って蒼白になり、頼むからそんな事を言うなと白い髪で表情を覆い隠すように俯いてしまう。
己の友人が肉体的に弱い立場にいる女性に手を挙げる姿など、想像もしたくなかったし目の当たりにもしたくなかった。
「お前に渡した木箱、俺の人生の中で一番大事なものだから、壊さないでくれよ。………今日は帰る」
ギムナジウムの卒業の夜に渡した木箱の話を突然されて顔を上げたウーヴェを前に、このまま一緒にいればウーヴェをもっと傷付ける言葉を吐き捨てるかも知れない自嘲に顔を歪め、お前にはもっと相応しい人が現れるからあんな女のことは忘れてしまえと告げ、少しだけ色を取り戻した頬を軽く掌で叩くように撫でて白い髪にも手を乗せたオイゲンは、この週末の夜にカスパルがサークルの舞台に出るから一緒に見に行こうと表情を変えて誘い、ようやく友人の顔に微かながらも笑顔を取り戻させるのだった。
じゃあと手を挙げてウーヴェのアパートから帰路に就いたオイゲンだったが、ポケットに突っ込んだ手は自然と握りしめられていて、通りすがりの人が彼を見ると同時に視線を逸らすほどの険しい表情を浮かべているが、高い背中を見送るウーヴェには当然ながら友人の表情までは見えず、何か余程気に障ることでもあったのかと思案しながら階段を昇り、ベッドルームとリビングに繋がる小さなキッチンがあるだけの殺風景な部屋のドアを開け、帰宅するといつも行う室内の空気の入れ換えをする為に窓を開け放って初冬の心地よい風を取り入れる。
先程オイゲンが告げた言葉とそれを口にしたときの強い表情が脳裏から消えず、また気になる言葉もあったが、恐らくそれは自らの立場に置き換えた時の話だろうと決め、ベッドルームに荷物を置くと本棚から何冊もの本をリビングに運んでソファに投げ出す。
大学に入学したその年に幸運なことに生涯の師と仰げる教授と知り合い、彼の講義を受けるにつれ自然とウーヴェの中で大きくなっていったのは、精神科医になるという強い思いだった。
その出会いは、以前までの医者になろうという漠然としたものではなく、目標を立てれば何があってもやり通すウーヴェにとってより明確に精神科という専門分野への道が確定し将来を決定づけたとも言えたが、この時のウーヴェには、ただ彼との出会いがもたらしたものを信じ、将来あるべき場所へと導いてくれる背中を師と仰いで同じ道に進みたいという一念しか無かった。
その信念に従ってただひたすらに勉強をし、今最も必要なことは講義時間中に己の中に取り込んで消化し、必要ではないだろうがもしかすると必要になるかも知れない事象はこうして自宅に戻ってから得るようにしているが、そんなウーヴェが決めた行動の中にもう一つだけ忘れていても声を聞けば思い出す決まりがあり、ソファ横に置いた小さなテーブルから電話のコールが鳴り響いた為に耳に宛えば、暗黙の了解を決めた幼馴染みの陽気な声が流れてくる。
「……Ja」
『お、帰ってたか?』
「さっき帰ってきた」
受話器を肩と頬で挟んで本をぱらぱらと捲りながら相づちを打ったウーヴェは、受話器の向こうから聞こえてくる幼馴染みの声につられて壁の時計を見遣り、一時間後ならば出掛けられると伝え、風が通り抜けて少し冷えてきた室内を暖めるために窓を閉める。
『今日は店が休みだからゆっくり出来るぜ』
「久しぶりなんだろう?だったら家でゆっくりした方が良いんじゃないのか?」
俺と時間を過ごすよりもゆっくりとした方が良いと、最近有名店で働き出した幼馴染みの体を気遣って苦笑すると、お前に聞いて欲しい話が山盛りあるんだと朗らかに言い放たれて自然と目元を和らげる。
お互いどれ程疲れていようが電話でこうして話をし、駆け出しのコックである幼馴染みが作る料理に文句を言ったり誉めたりしながら時間を過ごすだけであっという間に幼かった頃と同じ気持ちになることが出来た為、ウーヴェも友人達には見せることのない顔で目を伏せて肘を掴んでそっと名を呼ぶ。
「……バート…、時間があるのなら……家に来てくれ…ない、か」
『ああ、良いぜ。手土産は何が良い?』
「何でも…良い」
『んー、じゃあ母さんのガレットと父さんの果実酒を持っていってやる』
「…おじさんとおばさんにありがとうと言っててくれないか?」
『二人ともお前がちゃんと食ってるか心配してるぜ』
だからその心配を解消するためにも今からスーパーで買い物をして行くから楽しみにしていろと命じられ、大人しく頷いてその言葉に従う事を伝えたウーヴェは、気をつけて来いと告げて受話器を戻すと、天井を見上げて小さく溜息を零す。
母親の言葉によればほ乳瓶を片手に紙オムツで膨らんだヒップを揺らしながら廊下を這っていた頃から毎日のように遊んでいる相手であるためか、自分が思っている以上にお互いを信頼していて、学校で知り合った友人達にはなかなか言えない事も聞いて貰っていた。
学校で彼女との別れ話を暴露されてしまい色々と言われてしまったが、幼馴染みならばどんな反応をするだろうかと予測をして苦笑し、ソファに置いた本をベッドルームに戻しに行く。
本が手元にあればそちらに集中してしまって食事を楽しむどころではない事をこれから買い物を済ませてやって来る幼馴染みは良く知っていて、自分と一緒にいるときに手の届く範囲に本があれば顔を真っ赤にして睨んでくるのだ。
その顔が面白くてついついやってしまう時もあるが、今日はそんな気分にならない為に本を元に戻し、リビングのソファに横臥して目を閉じる。
幼馴染みが鳴らすドアベルの音が聞こえればすぐに反応できるように気を配りつつも少しの時間うとうととしてしまうが、短い眠りの間で見た夢はにんじん色の髪に夕陽を浴びた友人の思い詰めたような表情で、何故そんな顔をするんだとその時に問えなかったウーヴェは、夢の中でも友人に問い掛けることが出来ず、ドアベルに起こされた時には寝覚めの悪い思いにとらわれてしまうのだった。
朝の気配に自然と意識が浮上し、サイドテーブルの時計を確かめようと肩越しに振り返ろうとしたウーヴェは、いつもならば安易に出来るそれが何故か不可能な事に一瞬パニックに陥りそうになるが、身体の下で微かに軋むベッドの音が自宅のものとは違う事に気付き、振り返れない理由を背中に触れる熱から思い出す。
ウーヴェが昨夜泊まったのは恋人の部屋で、今背中を覆うように身を寄せているのは当然ながらこの部屋の主であり、ウーヴェにとっては誰よりも大切な存在であるリオンだった。
肩越しに聞こえる寝息に自然と笑みが零れ、カーテンが引かれた窓から細く見える世界が払暁の頃合いである事を察すると自宅で身支度を整える必要性を思い出し、リオンの腕をそっと持ち上げて寝返りを打つと、リオンの口から不満の呻き声が流れ出して寝返りを打ってしまい、ウーヴェがあっと小さく叫ぶ間もなくベッドから転がり落ちてしまう。
「アウ…っ…!!」
「リオン!」
慌ててベッドから身を乗り出して床を見れば強かにぶつけた腰を押さえながらリオンが不機嫌極まりない顔でその場に座り込み、見下ろしてくるウーヴェを数度の瞬きの後で確かめると、仕方がないと言う代わりの溜息を吐く。
「……おはよう、リーオ」
「……まだこんな時間かよ…」
リオンがベッドから落ちたことで結果的に見ることの出来た時計を見ればまだまだ早朝と呼べる時間帯で、ウーヴェが苦笑しつつリオンの跳ね放題の髪を手で撫で付け、少し早めに帰ると言っただろうと囁いて額に口付ける。
「あー…そんなこと言ってたっけ、オーヴェ…んー…っ!!」
少し早く起きて帰る事を昨夜伝えていたことを思い出したのか、早朝から苦虫を噛み潰したような顔で髪を掻きむしったリオンにウーヴェが小さく謝るが、仕事だから仕方がないと己に言い聞かせるように呟いてベッドに飛び乗り、盛大に軋ませてウーヴェに不安を与えてしまう。
「オーヴェ」
「うん?」
「おはよ、オーヴェ」
「ああ、おはよう」
甘えるような仕草でウーヴェの肩に腕を回してべったりと張り付き、何を求めているのかを口を尖らせることで伝えたリオンは、思い通りのキスが唇にされたことに笑みを浮かべ、早朝から帰ってしまうのは気に食わないが、皆が信頼し敬愛するドクになるためならば仕方がないと告げると、ウーヴェが意外そうな顔で目を丸くした後、誇らしげな笑みを小さく浮かべる。
「リーオ」
「…俺はもうちょっと寝てるからさ、今日も一日頑張って来いよ、オーヴェ」
「ダンケ、リオン。お前も気をつけてな」
「うん」
欠伸を噛み殺しながら今日も自分にしかできない戦いをしてこようと告げ、同じ思いを優しい言葉で返されて眩しそうに目を細めると、ウーヴェの温もりが残るシーツに腹からダイブする。
「遅刻するなよ?」
「ん、大丈夫」
手早く着替えと洗顔を済ませ、クローゼットのドアに引っかけておいたコートを羽織り、自宅に戻るためにタクシーを呼んだウーヴェは、ベッドの中から見送ろうとするリオンの傍に膝を着いてもう一度キスをして行ってくると告げて立ち上がると、その背中に行ってこいと互いを思い合う強い男の声が投げ掛けられる。
その声に胸の裡でもう一度行ってくると答えたウーヴェは、ドアを開けて静かに階段を下りていくが、リオンの笑顔と声の奥に隠れている友人の顔と震えるような声に気付き、眉を顰めて似たような場面がなかったかと目まぐるしく脳味噌を働かせる。
寝起きの脳味噌に命じるのは少々酷だったが、それでも己の頭脳は起き抜けであっても正常に働いてくれたらしく、にんじん色の髪を持つ友人の昨夜と夢の中の表情が一致して、大学で付き合っていた彼女と別れた後はどうなったかを思い出しながら白い息を吐くと、クリームイエローのタクシーが静かに近づいてくる。
ドアを開けて自分が呼んだタクシーであることを確かめたウーヴェは、助手席に乗り込んで自宅住所を告げると、運転手の視線がウーヴェの背後にある老朽化の激しいアパートを見遣り、たった今聞かされた住所が高級住宅街であることを知っているからか、住環境が違いすぎると言いたげな顔で頷くが、ウーヴェが少し疲れた顔で目を伏せると、ようやく朝の気配の欠片が顔を覗かせ始めた空の下をタクシーがヘッドライトを光らせながら走り出すのだった。