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明樹が今にも飛び降りようとしている。そう頭が理解するより先に、体が動いていた。
彼の体に腕を巻き付け、力いっぱい後ろへ引く。
「なに、してんだ……」
ひゅうひゅうと揺れる風で自分の前髪が視界をふさぐ。
でも桃李は一秒だって明樹から目を離せなかった。いや、離さなかった。
「お前は、人殺しになりたいのか?」
止められた明樹はこちらを見て憎しみに顔を歪める。
涙をためてこちらを見つめてくる。
「お前に何が分かるっ。俺の、何が分かるんだよっ」
彼の痛みをぶつけられて、どうしようもない気持ちになる。
「お前にはわかるのか?母親はご飯を置いて会社へ行ってしまう。父親は俺を厳しくしかる。その辛さがお前にはわかるのかっ?」
ずきりと痛みが心臓を走る。苦しくて辛くて。そんな記憶が蘇る。
「……わからない」
ぽつりとつぶやくと案の定明樹が突っかかってくる。
「やっぱりわからないじゃ…」
「わからないんだ。なんで、それで辛いのか……」
困惑したようにこちらを見てくる。
今の自分を、彼はどんな顔で見ているのだろう。
「嬉しく、ないのか?」
本当に不思議だった。無視をされるのは普通じゃないのか。自立できない子供は親にとってのお荷物でしかないのに…。
――桃李にとって家の中は地獄としか言い表しようがない世界だった。
毎日酔っ払った父が自分と母を殴る、蹴る。夫婦喧嘩では済ませられないところまで父と母は争っていた。
争いの合間合間に聞こえる自分の名前は、次第に嫌いになっていってしまった。
泣き方を忘れてしまった。涙が出なくなってしまった。
でも、泣きたかった。
父に当たられる母が桃李に当たるようになった。
一度、出刃包丁のようなもので脇腹を突き刺されたことがある。
傷が焼けるように痛かった感覚が、熱いのに体中が冷たくなっていく感覚がたまらなく怖かった。忘れたくても忘れられない。
あの時腹に突き刺さった時の傷痕はいまだ過去を象徴するように残っている。
食事は基本用意されず、桃李にとってのご馳走と言えば父の残した酒の肴か、母の不倫相手の食べ残しだった。
母も限界だったのだとは思う。それでも、自分の心も同じように傷ついていた。
それでも桃李は死ななかった。死ねなかったのだ。
母が『私を一人にしないで』と泣きつく姿が苦しかった、怖かったのだ。
結局桃李はそんな地獄の中で一人死にたくとも生き延びてしまったのだった。
◇◆◇◆
「お前から、話そうとはしなかったのか?」
「そんなのしても聞いてくれるわけっ」
自分の持っていないものを持っている彼が無責任に人生を放棄しようとしていることに憤りを覚えた。
「両親は、食事を用意してくれるんだろ?ちゃんと叱ってくれるんだろ?」
そう問う自分の声は心なしか震えていた。
「褒めて、抱きしめて、くれるんだろ?」
自分が明樹を『ここ』に縛り付けてしまっていることは百も承知だった。
それでも、それでも自分は……。
目頭が熱くなる。今に溢れてしまいそうなそれは十数年ぶりに桃李の瞳を潤した。
「俺は、お前に死んでほしくない」
「……は?そ、なわけ……」
そういうと明樹は目を丸くしてこちらを見た。
呆けたような表情をして言葉を噛みしめるように瞬きをしたかと思うとクシャッと顔を歪めて泣き出した。
「そういうことは、もっと早く教えてくれよ。おれ、迷惑かけてばっかでみんなから嫌われてると思ってたのに……。」
抱きついてきた彼の髪が鼻をくすぐる。
彼の心臓が、呼吸が桃李の緊張を和らげる。
救われたわけではない。しかし、彼をつなぎとめることができたのだ。
桃李の頬をはらりと一滴の粒が濡らした。
もう、暴風はおさまり、暖かな日差しが優しく彼らを照らしていた。