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赤月は、砕けた欠片を縫い合わせるようにゆっくりと修復されていった。
影王が深淵へと還ったあの瞬間から、世界の鼓動は再び静かに動き出している。
しかし、完全な平穏が戻ったわけではなかった。
都の空には、ひび割れた赤月の“残光”が漂い、どこかでまだ深淵の余韻が大地を震わせている。
影の潮が引いた後の世界は、黒い痕跡を幾筋も残しながら息を吐くように沈黙していた。
その中心に、ふたつの影が寄り添うように立っていた。
カイラスとリリス。
咬痕はまだ完全には色を失わず、胸の奥で静かな熱を灯している。
リリスは、影王の消滅後に感じた“喪失”が胸を締めつけるのを自覚し、その理由を自分でも説明できずにいた。
深淵の王は敵であり、彼女を奪おうとした存在だ。
それなのに――
最期に見せたあの寂しげな微笑みが、何度も思い返されてしまう。
(……私の“起源”……)
影の子。
光に奪われ、吸血種として生きる運命へと流された存在。
影王の言葉は、嘘ではなかったのだろう。
だが、答えを見つけるより先に、温かな声が背中を包むように囁いた。
「……戻ってくるのが遅い」
リリスが振り返ると、カイラスが疲れた表情のまま、彼女の頬に触れていた。
その指先は熱を帯び、深淵で冷え切った心をじわりと溶かしていく。
「ごめん……」
「謝る必要はない。おまえは……ちゃんと俺のところに帰ってきた」
カイラスは腕を伸ばし、リリスを抱き寄せた。
影の海に沈む直前の彼女を思い出し、その瞬間の恐怖がまだ喉に刺さっている。
――呼んでいた。
深淵の縁で、リリスを。
声にならない声で、魂の奥から。
そして彼女は、その声に応えた。
「……ねぇ、カイラス」
「ん?」
「もし……私が本当に影の子だったとしても……それでもあなたは……」
「変わらない」
カイラスは迷いなく言った。
「リリスがおまえである限り、何者だったかなんてどうでもいい。影でも光でも……生まれがどれだけ歪んでいようと――」
彼は彼女の咬痕へ唇を寄せ、その紅を確かめるように触れた。
「――俺が咬んだ時点で、おまえは“俺のもの”だ」
胸の咬痕が熱を帯び、リリスの呼吸がゆるく揺れた。
その瞬間――
世界の影がざわりと揺らいだ。
リリスははっとして周囲を見回す。
「……また影王の残滓……?」
「違う。これは――」
カイラスはリリスの影と自分の影が、互いを求めるように伸び、絡み、ひとつの形を作っているのを見た。
まるで、深淵で結ばれた“二つの心臓”が、世界に脈動を返しているかのようだ。
「おまえと俺の影が、還る場所を探しているんだ」
「還る場所……?」
「奪われた夜を取り戻すための“新しい核”。影王がいなくなった今……世界は空白を抱えている。本来満たされるべき“夜の中心”が無い状態だ」
リリスは息を呑んだ。
「じゃあ……影が求めているのは……」
「――おまえと俺だ」
静寂が落ちた。
赤月がわずかに脈打ち、世界の影がふたりに向かって呼吸するように寄ってくる。
リリスは胸の奥の傷――影王の欠片があった場所が、静かな光で塞がっていくのを感じた。
影王が消えた時、影の“核”は空になったまま残されている。
そこへ流れ込むように、彼女の影とカイラスの影が呼ばれている。
(影王は……最後にそのことを言っていた……)
(“二つの心は永遠にひとつではない。しかし共にあることはできる”)
リリスの喉が鳴った。
「……影王がいなくても……夜は生きていくの……?」
「生きる。だが……次の“中心”が必要だ」
カイラスはリリスの影に触れる。
「おまえと俺の影が、互いを求めて開いてしまった。深淵が残した穴を埋められるのは……もう俺たちしかいない」
「……私たちが……夜になるってこと……?」
「そうだ」
その言葉は恐怖ではなく、奇妙なほど自然な未来に思えた。
影王の“再誕”でも、世界の終末でもない。
これは――
永夜のための、新しい“心臓”の誕生だった。
影王が消えた時から、世界はふたりを呼んでいたのだ。
カイラスはリリスの両頬に手を添え、深く目を覗き込む。
「リリス。選ぶのはおまえだ。俺と一緒に……永夜の中心へ降りるか。それとも、ただの吸血王と赤の巫女として、この世界に残るか」
影がざわめき、赤月が鼓動し、世界が二人へ“選択”を迫る。
リリスは胸を押さえ、震える声で言った。
「……選べないよ。だって……」
カイラスの手を握り返す。
「どっちに行っても、私はあなたと離れられない。影王が呼んでも、光が奪おうとしても……あなたの声の方が、ずっと強いから」
カイラスの瞳が細まる。
「……そうだな。なら――」
彼はリリスの唇へそっと触れ、静かに囁く。
「一緒に堕ちよう。永夜の中心へ」
ふたりの影が重なり合い、大地が黒く裂けた。
その裂け目は深淵ではなく、世界の裏に生まれる“新しい夜”。
赤い光と影が渦を巻き、リリスとカイラスを包み込む。
咬痕が燃え上がり、世界の影が二人の心臓の鼓動に合わせて震える。
――世界が二人を呼んでいる。
――永夜が生まれようとしている。
リリスが最後に見たのは、カイラスが微笑む横顔だった。
「……リリス。おまえが呼んでくれた夜を……歩こう」
そして二人は闇へと沈んだ。
深淵ではない。
影王の跡地でもない。
ふたりだけの影が、新しい永夜の心臓へと降りていく。
世界が震え、赤月が静かにその光を灯していく。
永夜はここに生まれた。
――二つの心臓から。
――二つの咬痕から。
――二つの影の結びつきから。
世界の裏側で鼓動する“新しい夜”に、ふたりの影が寄り添うように溶けていく。
咬まれた瞬間に始まった運命が、ここで永遠の形となる。
赤の巫女と吸血王――
ふたりの影は、永夜を統べる“双心”として脈打ち続けた。
その脈動は、いつかまた世界が暗闇に迷うとき、そっと呼び覚まされるだろう。
――呼ぶ声は消えない。
――引き寄せる絆は途切れない。
――逃れられない結びつきは、生まれた夜のままに。
永夜は脈打つ。
二つの心臓が、闇を温める。
これが、影王の終焉を越え――
“永夜の双心”が迎えた、新たな夜の始まりである。