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「――はぁ」
終業時間はとっくに過ぎ、オフィスに最後の一人になると理人は深い溜息を吐いた。桐島一臣が配属されてからというもの、自分の仕事が思うように捗らない。
片桐課長がある程度は手伝ってくれるものの、最終判断や重要書類の決裁はどうしても部長である自分が目を通さねばならず、ここ最近は深夜までの残業が常態化している。
だが、今の理人にとって忙しさは救いでもあった。独りきりの家に帰れば、どうしても思考が沈み、憂鬱な気分に支配されてしまうからだ。
瀬名とまともに口を利かなくなって、やがて二週間が過ぎようとしている。
あの日、瀬名は確かに何かを伝えようとしていた。話し合う余地はあったはずなのに、「真奈美」という名前が瀬名の口から出た瞬間、理人の怒りは最高潮に達してしまった。聞く耳を持たずに追い出した自分の余裕のなさに、今さらながら強い嫌気がさす。
頭が冷えた今なら、もう少し冷静に言葉を交わせるかもしれない。
理人はここ数日、瀬名の番号をスマホのディスプレイに表示させては消す、という無意味な動作を繰り返していた。日中は一臣が執拗に理人の時間を奪うため、瀬名と接触する隙が全くないのだ。
思い切ってこちらから連絡を入れれば、案外あっさりと解決するのかもしれない。だが、拒絶の言葉を重ねて今の状況をさらに悪化させる恐怖もあり、理人は二の足を踏んでいた。
瀬名に会いたい。直接顔を見て、声を聞きたい。自分から突き放しておいて都合が良すぎると分かっていても、やはりこの歪な沈黙に耐えられなかった。
何より、これ以上ギクシャクした関係を続けるのは、仕事の上でもお互いの精神衛生上も良くない。意を決して通話ボタンを押そうとした、その時――。
「なんだ、やっぱりまだ残ってた。大変だなぁ、管理職ってのは」
静まり返ったフロアに、人を小馬鹿にしたような低い声が響いた。理人は盛大な溜息と共にスマホを伏せた。
「出来の悪いお前に掛かりっきりなせいで、自分の仕事が終わらねぇんだよ。……ったく、俺じゃなくて教育係の瀬名を頼れといつも言っているだろうが」
「俺はアンタに教えてもらいたいんだよ。他の奴なんか、これっぽっちも興味ねぇからな」
一臣は挑発的な眼差しを崩さず、長い脚を遊ばせるようにゆっくりと理人のデスクへ歩み寄ってくる。その根拠のない自信に満ちた佇まいは、いつ見ても理人の神経を逆撫でした。
「たく、お前というやつは……。で? こんな時間に何の用だ。飲みに行く話なら昼間に断ったはずだが」
パソコンの画面から目を逸らさずに尋ねると、一臣は理人の手元に、コトリと開封済みの缶コーヒーを差し出してきた。
「差し入れ。いつも頑張ってる部長サンに」
言いながら、自分も同じ銘柄の缶を口に運ぶ。
「……」
一臣が殊勝に差し入れを持ってきたという事実に、理人は不審げに眉根を寄せた。これまで一度もそんな気遣いを見せたことがない男が、急にどういう風の吹き回しなのか。
疑いの眼差しを向けると、一臣は心外だとばかりに肩を竦めて見せた。
「これでも一応、悪いとは思ってるんだぜ? なんだかんだで俺にダメ出しばかりしてるせいで、アンタ、最近全然休めていないみたいだしな」
その言葉に、理人のタイピングの手が止まった。何も考えていない傲慢な若造に見えたが、一応は自分のせいで上司が疲弊していることを気にしていたのかと、驚きを隠せなかった。
「……っ。そう思うのなら、早く一人前な資料作成くらい出来るようになれ。いつまでも俺の手を煩わせてるんじゃねぇよ」
理人は小さく息を吐き、不器用な労いを受け入れることにした。パソコンの画面に視線を戻したまま、手近に置かれたコーヒー缶を手に取り、口を付ける。
いつも飲み慣れている銘柄とは違う、少し独特な後味のする味だったが、乾燥したオフィスで喉が渇いていたこともあり、一気に半分ほど飲み干してしまった。
その無防備な様子を眺めながら、背後で一臣が「ニヤリ」と不吉なほどに深く口角を上げたことに、この時の理人はまだ気付いていなかった。