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海に落ちた、その瞬間──
柔らかな冷えがゆっくりと体を包み、息が止まりそうになる。
キルは息を呑み、そっと目を覚ました。
ようやく現実に戻ってこられたという安堵と、まだどこか夢の感触が残るような、ぼんやりとした目覚めだった。
深呼吸しようとした瞬間、腹の奥に鈍い痛みが走った。
全身にまとわりつく重たいだるさが、掛け布団の重みすら煩わしく感じさせる。
「……あー、今日はちょっと、まずい日かもな……」
思わず、心の声が口をついて出た。
胃薬、飲まなきゃなと思う。でも水は、冷蔵庫の中。遠い。
起き上がるのはもう少しあとでいい、と俺は天井を見つめたまま、しばらく身動きひとつせずにいた。
そんな静寂を破ったのは、iPhoneの通知音だった。
手を伸ばして画面を確認する。
『ライブ配信中 弐十/Nito Channel【朝活】』
という文字が表示されていた。
「…今日、木曜日か…」
通知をタップすると、配信画面に切り替わる。
その中にいたのは、俺の相棒──Vtuber・弐十。
「おはようございます! おはようございまーす! Vtuberです!」
ゆるやかなBGMと共に、目覚めを促すようなあいつの明るく快活な声が流れ出す。
テンポのいい喋り。整えられた空気。
コメント欄ではリスナーたちが次々と「おはよう!」を投げかけ、
押し寄せる波のように流れていく。
同接のカウンターは500、600、700……
たった10分で1000を超えていた。
この時間帯に、ここまで人を集められる個人勢なんて、
俺の知る限り、こいつくらいしかいない。
単に話が面白いだけじゃない。
言葉や経験の引き出しも豊富で、配信にかけるこだわりもすさまじい。
あいつは──創ってるんだ。
弐十がデザインし、緻密に積み上げてきた世界。
あの安心感も、親しみやすさも、空気のすべてが、意図されたもの。
あいつは、Vの世界を、
自分の手で全て形にしてきた。
「お前はすげーよ、弐十くん……」
……2年前は、絶対に認めたくなかった。
でも今は、認めざるを得ない。
チャンネル登録者数でどれだけ競っても、
配信の“強さ”では到底かなわない。
あいつがもし、違う場所にいたなら。
俺と出会っていなかったら、もっと自由にやれていたなら──
きっと、もっともっと上に行けてたんじゃないか。
そんな考えが、頭をよぎる。
後ろめたさなのか、悔しさなのか。
嫉妬なのか、憧れなのか。
言葉にならない感情が、心の中に沈殿していく。
……まるで、暗い海の底に引きずられるように。
普段なら、こんなふうに思ったりしないのに。
(今日は、体調のせいにしといてくれ。)
俺はスマホのサイドボタンを押して、配信を閉じた。
部屋が、急に静かになる。
暗くなった画面に、ぼんやりと映る自分の顔を、しばらく無言で見つめた。
『頑張れよ』
昨日、自分があいつに言った言葉が脳裏をよぎる。
──どの口が言ってんだ。
「……何が、頑張れ だよ。頑張らなきゃいけねーのは、俺のほうだろが……」
布団の中で、もう一度深く息を吐いた。
そして、重たい体をゆっくりと持ち上げる。
もっと──頑張れよ、俺。