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次の日の朝。
俺は、1週間ぶりに配信をつけることにした。
カメラの前では、いつも通りのテンションで喋る。
最近あったこと、活動仲間が投稿した動画の話──
とりとめのない雑談で、画面の向こうの“いつもの空気”を取り戻そうとしていた。
けれど、
1時間を過ぎたあたりで、腹の底にずしりとした違和感が走った。
鈍い痛みが、じわじわと下腹を這う。
内側から何かに侵食されていくような感覚。
「……っ」
息を飲んだ瞬間、背中を汗がつたう。
手の震えが止まらない。喉の奥で、言葉が詰まった。
もう限界だ、と悟った俺は
精一杯の冗談で、どうにか空気を壊さずに配信を締めくくろうとした。
「……なんか腹いてぇから、今日はここで閉めるわ。うんこ行ってくる」
苦笑いまじりにそう言って、そっと配信を切った。
そのまま、椅子にもたれかかり、机に頭をつけるようにして蹲る。
身体の奥から、鈍い波がゆっくりと這い上がってくる。
「あー……流石にやばいわ……」
空に向かって、誰に言うでもなく、呟いた。
どうにか立ち上がり、トイレへ向かう。
少しだけ楽になったあと、ベッドに沈むように身を預けた。
布団にくるまれた瞬間、視界がじわじわと滲みはじめる。
壁、天井、カーテン──
いつも見慣れたはずの景色が、遠く、ぼやけていく。
「なんとかならねーかな、俺の身体……」
ぼそりと、他人事みたいな口調で呟いた。
誰もいない部屋で、その言葉だけが空気に沈む。
どうにもならない現実の重さが、喉の奥まで迫ってくる。
胸の奥から、じわじわと広がる焦燥感。
このまま、どこか遠くへ沈んでしまいそうな──そんな感覚。
「…真剣に、病院探すか」
iPhoneを手に取り、Safariを開く。
「○○区 病院」と検索窓に打ち込むと、画面いっぱいに病院の名前が並んだ。
総合病院、内科、診療所──
候補は多いのに、どれを選べばいいのか、まったく分からなかった。
「……近けりゃどこでもいいけど…。
てか俺、何科に行けばいいんだ? 内科、でいいのか……?」
呟きながらスクロールする指が、わずかに震えている。
どのサイトを開いても、受付時間や診療科目ばかりが並んでいて、
文字が目に入ってきても、頭には入ってこなかった。
だんだん、息がしづらくなってくる。
胸が詰まるような感覚。
目の奥が熱くなる。
──なんだか、急に怖くなってきた。
そのとき、
ふいに、脳裏に浮かんだ顔があった。
“弐十くん”
その名前が胸に浮かんだ瞬間、心の奥で何かが大きく揺れた。
思っていた以上に、自分が“誰か”を求めていたことに気づいてしまう。
どうしようもなく心細くて、
どうしようもなく、誰かに傍にいてほしかった。
視界がにじむ。
まぶたが重い。
スマホの画面がぼんやりと白く滲んで、形を失っていく。
指先から力が抜け、スマホが胸の上へ滑り落ちた。
最後にもう一度だけ──
名前を呼ぶように、心の中で呟く。
──弐十くん…
そのまま、俺は静かに、
夢の底へと沈んでいった。
───
遠くで車のタイヤが水をはねる音がする。
目を開けると、そこは薄暗い街の中──
あの静かな横断歩道の上だった。
上空を覆う分厚い雲からは、糸のように細い雨が、終わりもなく降り続けている。
ふと足元に目を落とすと、白線の間には深い水たまりができていた。
水は静かで、透明で、それでいて底が見えないほどに深い──
まるで、海の浅瀬に立っているかのようだった。
「……どこだよ、ここ……」
口をついて出た声が、雨に溶けずにやけに遠くへ響いていく。
そのときだった。
視界の隅に、ふいに影が差した。
誰かが、すぐ隣に立っている。
肩が触れそうなほどの距離。
振り向いたその瞬間、キルは思わず目を見開いた。
──そこにいたのは、弐十だった。
傘を差して、真っ直ぐ前を見つめたまま。
キルの方へ顔を向けることもなく、ただじっと、何かを待っているように立ち尽くしていた。
弐十の表情は、傘の反射に隠れて見えない。
でも確かに、そこに彼が“いる”という気配だけが強く迫ってくる。
沈黙が続いた。
その静けさを破るように、弐十が突然、口を開いた。
「……トルテさん」
淡々とした、どこまでも静かな声。
それなのに、雨音をすべてかき消すように、はっきりと耳に届いた。
「俺に、何か言いたいことがあるんじゃない?」
──心臓が、一拍、跳ねた。
わからない。なんだそれ。
けど、なぜか胸の奥が急にざわつく。
身体の内側で、何か正体のわからないものが暴れ出す。
急に呼吸が浅くなる。背中に冷たいものが這う。
脳が混乱して、身体だけが過剰に反応していた。
「……は?」
思考が追いつかず、ただ反射的に声を返す。
弐十は、何も言わない。
ただ、ゆっくりと、手に持っていたビニール傘をキルに差し出した。
「……なんだよ……」
戸惑いながら、それを受け取ったキル。
その瞬間、弐十は静かに足を前に踏み出した。
ゆっくりと、濡れたアスファルトの上を、進んでいく。
足元の水が、彼の一歩ごとに小さく波紋を広げていた。
「っ!おい……弐十くん!?」
思わず呼びかけた声に、返事はない。
ただ、後ろ姿がどんどん遠ざかっていく。
キルは慌てて足を踏み出した──が、進まない。
水だった。
膝のあたりまで、重たく澄んだ水が満ちている。
まるで海の中を歩いているかのように、脚が重くて動かない。
「なぁ、 待てよ……!」
ばしゃっ、ばしゃっと音を立てて、必死に水を蹴る。
けれど、弐十の背中はどんどん小さくなっていく。
「言いたいことって……なんだよ……!」
叫ぶように声を張った、その瞬間。
弐十が、ゆっくりと足を止めた。
そして──
雨の中で、静かに振り返る。
濡れた前髪から雫が静かに滴っていた。
何も語らないその顔は、雨に煙って表情さえ曖昧なのに。
ただ、はっきりと見えたのは、キルを真っ直ぐに見つめる──
──瞳。
その瞬間、キルは息を呑んだ。
弐十の目に重なるように浮かび上がったのは、夢の中で見た“白いクジラの瞳”だった。
黒くて、大きくて、深い。
底知れない水の底から、じっと、キルを見つめ返していた、それ。
「……なんで……っ」
喉の奥から、思わず声が漏れる。
息が苦しい。怖い。わからない。
全身に寒気が走る。手が震える。心臓が暴れる。
──逃げたい。でも、目が離せない。
「……っっ、は……っ……!」
次の瞬間。
水の底から一気に引き上げられるように、キルは跳ね起きた。
また、全身に汗をかいていた。
呼吸が乱れている。喉の奥が焼けつくように熱い。
「……っ、はぁ、……はぁっ……!」
見開いた瞳の奥には、まだあの“目”が残っていた。
現実に戻ってきたはずなのに、心拍数は下がらない。
キルは自分の胸に手を当てたまま、しばらく、言葉も出せずにベッドの上で震えていた。
「もう勘弁してくれよ……」
───
風呂場に響くシャワーの音。
熱すぎない温度の湯が肩を打ち、首筋を流れていく。
何もかもを洗い流すように、シャワーのノズルを握る手に力が入る。
目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは──
濡れた髪の隙間から覗いた、弐十の目。
深い、黒い瞳。
その奥に、白く濁ったクジラの目が重なった瞬間、脳の奥に鋭く爪を立てられたような痛みが走った。
「……っ」
胃の奥がざわつき、吐き気が込み上げてくる。
しゃがみ込みそうになるのをこらえて、シャワーのスイッチを切った。
タオルで頭をくしゃくしゃと拭きながら、ソファに腰を下ろす。
体力も、気力も、どこかに置いてきたみたいに、抜け殻だった。
そのとき、不意にスマホが震えた。
画面には、見慣れない名前が表示されている。
いや、正確には──見慣れているけれど、こんなタイミングで連絡が来るのは珍しい相手だった
“飯、行きません?”
たったそれだけのメッセージ。
普段なら、即座に「いや、無理」って断っていたかもしれない。
腹も減ってない。
正直、出かける気力もない。
けれど、今だけは──
誰かと一緒にいたかった。
「……別に良いよ」
ぽつりと呟きながら、キルは返信を打った。
スマホをテーブルに置き、天井を見上げる。
…支度、しなきゃな……。
部屋に微かに残ったシャワーの湿気の中、
ゆっくりと、キルはソファから腰を上げた。