古来、才を秘めた赤子に試練を与え、立派な若者を育んできた大河モーニアの寵児が一条、翡翠の流れの川の中流に奇妙な中州がある。丁度川上に向けて頂角を持つ正三角形の形をしていることもそうだが、なにより奇天烈なのは地面が水面下にあることだ。そういう意味では洲ですらないのだが、街の者たちは魔法使いの三角の洲と嘲笑の意味を込めて呼んでいた。正確に精密に積み上げられた煉瓦塀が水の流入を防いでおり、強烈な嵐の日を除けば魔法使いの三角の洲が水没することはない。
その日は強烈な嵐だった。大地を海に沈めかねない尊大な雨と何もかもを世界の果てに吹き飛ばしかねない不遜な風、そして黒雲の中から喚き散らし、時折火を投げて寄こす驕慢な雷が互いを攻め滅ぼさんとするように暴れ狂っている。
魔法使いの中州に作られた霊魂を酔わせる薬草の庭や貯蔵していた黄金比の堆肥、繋いであった唯一の小舟は下流に押し流され、僅かながらの家畜は風の向こうで悲痛に叫びながら川に沈んだ。ただ魔法使いたちの住まう共同工房たる塔だけが、雨と飛沫に濡れ、風と豪流に耐え、雷のお目こぼしを祈っている。
その塔の一室で一人の少女、黒髪のがじっと黙って、寒冷な土地の猟犬や護畜犬の血を引く雑種の長毛犬、母さんを庇うように覆っていた。
「どうしてこんな日に外で遊ぼうだなんて思えたのですか?」と何とか怒鳴るのを堪えるように叱る女がいた。
三角の洲の塔の魔法使いの一人月の杯だ。蒼と赤刺繍のゆったりとした長衣を抱え込むようにして、リポカとその愛犬を見下ろしている。元が福々しい顔つきなので頬を紅潮させ、目を吊り上げ、歯を剥き出しにしても恐ろしい形相とは言えない。
「キュウを外に繋いでた。川に流されちゃう」とリポカは小さな声で説明する。
濡れ犬キュウが小さく鳴いた。
「そういうことを言っているんじゃありません」ピロミアーの声量はますます高まる。「どうして濡れたまま工房に上がって来たのかって聞いているのですよ、私は」
リポカもキュウもずぶ濡れで、石の床を黒める水溜まりを作っている。
「濡れたくなかった」とリポカは答える。
何か言い返そうとしたピロミアーが言い淀み、何かに気づいたように顔をあげる。
「何ですか、その顔、菫さん」
ピロミアーの視線の先、工房の扉から別の女が顔をのぞかせていた。にやにやと笑みを浮かべている。
ピロミアーよりも一回り若い魔法使いでやはり長衣を身に纏っている。世の中のありとあらゆる色を全て集めたかのような派手な衣だ。明るい髪を斜めに切って、全ての爪が別の色に塗られている。
「いや、珍しいなと思って。ピロミアーが随分ご立腹なご様子だからさ。あなたの大事な魔法使い見習いちゃんが何かやらかしたの?」
「ええ、濡れたまま工房へ入って来まして。こんなこと初めてだからですよ。雨の日は玄関口にキュウを繋ぐように言っておいたのに」
「そういうこと」アコニが渋い顔でキュウを見て説明する「風が強いからめっちゃ雨が吹き込んでるんだよ。あそこにいたなら犬でも溺れちゃうかもね」
「それならそうと早く言ってくれればいいのです」ピロミアーは疲れた溜息をつく。「それで、アコニさん。何か御用ですか?」
「忘れてた。嗅ぐ者が消えたらしいよ」
信じられないという様子でピロミアーは目を見開く。
「それを早く言いなさい!」
「広間に集まれって銀の知恵が。血縁にはもう声をかけたから後は二人だけだよ」
「キュウも?」とリポカは尋ねる。
「そうだね」とだけアコニは答える。
アコニとピロミアー、そしてリポカとキュウは連れ立って広間へと急ぐ。廊下には分厚い硝子の窓が並び、嵐の様子がよく見える。つまり外の様子は叩きつける雨粒でよく見えない。
食堂を兼ねる広間は魔法の蝋燭の燭台が山ほど据えられており、これは塔全体にも配されて温かな明かりで隅々まで照らしている。広間の中央には正三角形卓があり、その中心に据えられた硝子の杯は割れている。塔で最も大きな暖炉が蝋燭の灯に呼応するように揺らめく力強い炎で部屋を暖めている。何枚も乱雑に敷かれた分厚い絨毯にリポカとキュウから滴る水が染み込む。
「ほら、リポカさん。キュウと一緒に暖炉で乾かしなさい」とピロミアーに促され、リポカとキュウは暖炉の前に陣取る。
広間には既にギュルオスという魔法使いが待っていた。割れた硝子の杯をじっと見つめていたようだ。他と同じく長衣を着ている。まるで闇そのものの黒い衣で、袖や裾を独自の魔法を秘めた紐で絞っている。
「遅いぞ。どこで何をしていた」とギュルオスは鋭い目つきで二人の魔法使いと小さな魔法使い見習いを睨みつける。
「自分の工房ですよ。リポカとキュウと一緒にね。それで、いつの間に消えたんですか?」ピロミアーの視線は机の上の割れた硝子の杯に注がれる。「私が最後に見たのは今朝、朝食を摂った時ですね。リポカも一緒。札も杯も何の変哲もないように見えたけど」
「だから俺はもっと厳重な封印を施すべきだと言ったのだ」とギュルオスが怒りを堪えながら話す。「俺も同じだ。ピロミアーの前か後か知らんが血縁と共に朝食を摂っていた時に確認している」
「無くなってることに気づいたのはわたし」とアコニが答える。「寒くなってきたからここで本でも読もうかと思ったんだけど。ちなみに最後に見たのは昨夜の夕食。ピロミアーとリポカと一緒にね。朝食は抜いたの」
「リポカ。貴様が最後に札を見たのはいつだ」とギュルオスに尋ねられる。
リポカは振り返って、しかしギュルオスを見ないように思い返す。
「分かんない。札のこと気にしてなかった。朝も夜も見たか分からない」
ギュルオスは苛立ちながら問う。「最後に広間に近づいたのはいつなのか、それを知りたいんだ」
リポカは首を傾げる。「どれくらい近いと近いの?」
ギュルオスは舌打ちし、何事かを呟いたが誰にも聞こえなかった。
「ギュルオスってばリポカを疑ってるの?」とアコニは揶揄うように尋ねる。
「元々浮浪児だろう。手癖が悪そうだ」とギュルオスは言い放つ。
「そもそもリポカが庭で札を発見したのですよ」とピロミアーは苛立ちつつ指摘する。「自分のものにしたいなら初めから隠し持てばよかった話でしょう?」
「その後俺たちの研究で札のことが色々分かっただろう。気が変わったのかもしれん。犬好きだしな。札の狼の絵が気に入ったのかもしれん」
アコニが心底可笑しそうに笑い、ギュルオスはばつが悪そうに顔を顰める。リポカは札に描かれた狼の絵を思い返す。可愛らしい絵だと思ったが、盗む理由にはならない。
「動機なら貴方の方があるのではありませんか? ギュルオスさん」ピロミアーは問い詰める。「香料や匂いに関する魔術。心理的な影響。随分熱心に実験なさっていたように思いますが」
「俺を疑うのか?」ギュルオスは勢いよく立ち上がって椅子を倒してしまう。
「リポカよりはよほど疑わしいですね。あとアコニも、疑ってないわけではないですから」
「それはお互い様だよ。でも一番疑わしいのはギュルオスかなあ」
「何を!?」ギュルオスは怒り心頭といった様子だが、ふと天井を見上げる。「……待て。テユスが遅いな。奴には声をかけたのか?」
尋ねられたアコニが頷く。「もしかして犯人? 逃げたとか?」
「舟ならもうずっと前に流されていましたよ」とピロミアーが指摘する。「犯人かどうかにかかわらず、嵐である限り、この塔を脱出する手段は誰にもありません」
「見に行こう」とギュルオスが提案し、広間の外への扉に手をかけて付け加える。「全員でだ」
リポカはキュウの長い毛が乾いていることを抱きしめて確かめる。「良い匂いだね、キュウ」
そうして大人たちの後を追いかける。
テユスの工房の前の扉へ四人と一匹がやって来てギュルオスが声をかける。
「テユス! 話は聞いたのか? 嗅ぐ者が盗まれたんだ。お前にも話を聞きたい。……テユス?」だが返事はなく、工房の中からは物音ひとつ聞こえなかった。「入るぞ」
ギュルオスが手をかけた扉は音もなく、抵抗もなく開いた。
アコニが雷鳴にも劣らない鋭い悲鳴を上げ、失神して頽れるピロミアーをリポカが支える。
工房には凄惨な光景が待ち受けていた。長衣を赤く染めたテユスが石の壁にもたれかかっている。下顎が失われ、舌が垂れ下がっている。眼窩の片方は暗く、もう片方の眼球は血溜まりに転がっている。左足があらぬ方向に折れ、抵抗したのか両手に黒い毛を握りしめている。
リポカはどっと汗を噴き出して、手指を細かく震えさせ、しかし惨景から目を離せないでいる。
念のためにギュルオスがテユスの死を確認し、工房を調べるが隠れられるところなどどこにもなく、嗅ぐ者の札も見つからなかった。四人と一匹は再び広間へと戻ることにした。
「俺の知る限り」高い背もたれに肘掛のついた椅子に座ってギュルオスは口火を切る。「あのような攻撃的な魔術を習得している者はこの塔にいないはずだ」
「知る限り、ね。全ての手の内を明かしている魔法使いなんていないよ」とアコニが皮肉っぽく掌を広げて示す。
ギュルオスの手で暖炉の前に寝かされたピロミアーをリポカは心配そうに見守る。リポカとキュウを拾ってくれてからずっと親身に面倒を見てくれた女性だ。いつも安心を与えてくれたピロミアーがこれほど恐れおののき、失神までするのを見るのは初めてのことだ。
リポカの方は少なからず貧民窟での生活で耐性ができていたが、それでも交流のある人の死は初めてだった。
「テユスの手に黒い毛が握られていた」ギュルオスが思い返して指摘する。「あの毛は嗅ぐ者の変身した姿で確認している。つまり嗅ぐ者を盗んだ者がテユス殺しの下手人でもあるということだ」
「あるいはリュコスメー自身が犯人って可能性もあるよね」とアコニが推理する。「盗んだのがテユスで裏切られたのかもしれない」
「絶対に命令に逆らえない存在に裏切られるか?」
「それは命令次第だよ。リュコスメーが命令の抜け穴を探るような姿勢も確認してる。でしょ?」
「テユスはいつ死んだのですか?」と目を覚ましたピロミアーが起き上がりながら尋ねる。「アコニが声をかけた時には生きていたのですよね?」
「ごめん」とアコニが呟く。「声をかけただけ。そういえば返事は聞いてなかった。もしかしたらあの時にはもう……」
「だとすれば最後にテユスを見たのはいつ? どこ? 誰?」
ピロミアーの問いと共にギュルオスへ視線が集まる。
「待て。今朝の話だぞ。この広間で別れたんだ。それから一度も見てない。さっきも話しただろう」
「それを真実かどうか知っている人間は死んでしまいました」とピロミアーが説く。
「それを言うなら全員がそうだ!」とギュルオスが激高する。「アコニがテユスに声をかけたというのは本当か? その時に手をかけたんじゃないか? ピロミアーが自身の工房にいたというのは本当なのか? リポカはどうだ? ずっと誰かといたか?」
「キュウといた」とリポカは答える。
「犬など数に入れるな!」とギュルオスはますます怒りを募らせる。
「子供相手に怒鳴らないで」とピロミアーも怒る。
「ねえ、それなら身体検査をしない?」とアコニが提案する。「ここに犯人がいるのか。リュコスメーがどこかに潜んでいるのか。それだけでもはっきりさせたいよ」
「俺は構わないが。ピロミアーはそうでもなさそうだ」
「だって殿方の前で服を脱ぐなんて」
ピロミアーはますます長衣を抱え込む。
「じゃあわたしがピロミアーとリポカを。ピロミアーがギュルオスを。ギュルオスが私を、で良いんじゃない?」
「キュウは?」とリポカが尋ねるとアコニにぎろりと睨まれる。
「リポカが飼い主でしょ? リポカが責任持って調べてね」
「飼い主じゃない。家族だよ」
「どっちでもいいよ! 犬のことなんて!」
アコニが目を剥いてリポカを睨みつけた。
「待て」ギュルオスが割って入る。「俺はお前らを疑っているんだ。テユスを殺したかもしれない奴らと二人きりになんてなれるものか。やるなら全員一緒にだ」
アコニは冷静さを取り戻そうとするように深呼吸する。
「堂々巡りだね。……ん? ねえ、何だか広間の匂いがいつもと違わない?」
その言葉に皆が鼻をひくつかせた瞬間、広間の全ての明かりが消え失せた。蝋燭も暖炉も水をかけられたかのように一斉に消え失せる。
リポカは暗闇の中で獣のように身構えた。咄嗟に伸ばした手はキュウを探り当てられなかった。
何か――おそらく椅子が――倒れて音を立て、アコニが小さな悲鳴をあげる。塔の中心にあり、扉が閉まっている広間には雷光すら差し込まない。リポカは誰かにぶつかる。
「くそ! 誰の仕業だ!」とギュルオスが怒鳴る。
何か重いものが机を叩くような音が響き、硝子の杯が震動で鳴る。
「リポカ! 伏せてなさい!」とピロミアーに言われて慌てて床に伏せる。
ギュルオスの呪文が熾した火が暖炉に投げ入れられると同時に広間の蝋燭に明かりが戻る。
ピロミアーが悲鳴をあげ、リポカは慌てて起きて魔法使いの師に抱き着く。
アコニが血みどろの正三角形卓に突っ伏すように倒れている。背中にはざっくりと巨大な爪痕が刻まれ、剥き出しになった白い背骨が折れ、断たれ、艶やかに光っている。脇腹からは赤黒い臓物が零れ落ち、無傷の顔には痛みと恐怖の表情が張り付いていた。
ギュルオスはぴったりと壁に背を付けて、その光景とピロミアーをあらん限りに見開いた眼で交互に見つめている。ピロミアーは腰にすがりつくリポカの肩を抱き寄せる。キュウは暗闇と騒ぎに怯えて広間の外に逃げてしまったようだった。雷光が差し込み、雷鳴が轟く。
「ギュルオスさん。貴方、随分血に塗れていますね」とピロミアーが指摘する。
リポカもまたそれに気づいていた。血に塗れたギュルオスは怪物そのもののようだ。
「何だと? 俺はアコニと机を挟んでいるんだぞ。お前は手の届く距離にいるじゃないか」
「なおさら不自然なのですよ」ピロミアーは首を振る。「いえ、もう良いです。札なら差し上げますから私たちのことは見逃してください」
リポカの肩にピロミアーの指が喰い込む。その指は震えている。
「こちらの台詞だ。命には代えられん」
「ねえ、キュウがいない」というリポカの声は二人の魔法使いのどちらにも届かない。
「俺は工房に戻る」と呟いたギュルオスがリポカを気にかけるような視線を投げかける。「お前には悪いが」
「私がこの子に手をかけるなんてありえない!」というピロミアーの怒鳴り声は雷鳴さえも掻き消した。
ギュルオスが広間を出て、しばらくしてピロミアーも耐えかねたように声を絞り出す。
「私たちも工房に戻ることにしましょう」その視線は倒れ伏すアコニに向けられている。「ここにいるのは耐えられません」
「キュウがいない。探しに行っていい?」
ピロミアーは溜息をつき、諭すように言い含める。「馬鹿なことを言わないでください。ギュルオスに殺されてしまいます」
「そんなの駄目!」
リポカはピロミアーの腕を振りほどいて広間を飛び出し、ピロミアーの制止を振り切ってギュルオスの工房を目指す。
床には血の滴りが点々と続いている。跡を辿らなくても場所は知っているが、目を離せない。しかし工房にたどり着く前に回廊でギュルオスの背中を見つけた。硝子の窓の前で右往左往し、時折嵐を眺め、進むか戻るか踏ん切りのつかない様子だ。硝子に映ったリポカを見つけ、ギュルオスは振り返る。
「リポカ。お前、どうして。いや、そうだな。お前もどこかに一人で引きこもっていた方が良い。俺が信じられないならアコニの工房にでも行け」
キュウはいない。ギュルオスの陰に隠れているわけでもない。
「キュウはどこ?」
「キュウ? お前は本当に……。犬の心配をしている場合か!? 今がどういう状況なのか分からないのか? 二人死んでるんだぞ!」
「知らないなら良い」
ギュルオスが天井を振り仰ぎ、大袈裟に笑ってみせる。
「ピロミアーが喰っちまったのさ! そういえばお前はリュコスメーの変身した姿を見てないよな。犬っころなんて一呑みの怪物だぞ!」
「そんなことしない!」
その時一際激しい雷光が閃き、雷鳴が轟き、二人は驚いて飛び上がる。回廊に並ぶ硝子窓は変わらず雨に打たれていて、まだ昼を過ぎた頃のはずだが薄暗い。
「嵐でさえなけりゃとっくに逃げてるよ、俺は」ギュルオスは硝子窓を見つめて呟く。「……何だ?」
ギュルオスが硝子窓に何かを見つけた様子でじっと目を凝らす。リポカもギュルオスの視線を追うように硝子を見つめる。
次の瞬間、硝子の割れる音と狼の唸り声、そしてギュルオスの野太い悲鳴が同時に回廊に響いた。鋭い爪が皮と肉を裂く音、尖った牙が骨を砕く音が続く。札に描かれた姿よりももっと怪物じみた狼が猛り狂い、ギュルオスを破壊する。リポカの目の前で世にも悍ましい凄惨な光景が繰り広げられ、しかし目を逸らせずにいた。ギュルオスはほとんど抵抗することもできずにあっけなく事切れ、自らの血溜まりに飛び込むように倒れ伏す。リポカはただ目と耳を塞いで恐ろしい者が去るのを待つように蹲った。物音が聞こえなくなってもずっと、そうすることしかできなかった。
割れた窓から吹き付ける雨にリポカは再びずぶ濡れになる。怒りか悲しみか恐れかリポカ自身にも計り知れぬ感情が体を麻痺させた。
よく知る足音が近づいてきて、ようやくリポカは顔を上げる。ピロミアーが信じられないという様子でギュルオスの死体を見つめている。そして蹲るリポカに視線をやる。
「それじゃあ、貴女だったのね。リポカさん。酷い裏切りです。貴女のことは娘のように思っていたのに」とピロミアーが怯えた様子で呟く。
「違う」リポカは立ち上がるが、ピロミアーは退く。「あたしじゃない」
「他に誰がいるのですか? この塔にはもう他に誰もいませんよ。私と貴女の他には誰も」
「狼だよ。窓から飛び込んできた」
リポカがいつものように縋り付きたい気持ちで一歩を踏み出すと、ピロミアーが懐から短剣を取り出す。ただの短剣ではない。護身用というにはあまりにも邪な力が秘められている。
「近づかないでください。札は破壊できなくても、憑依対象は別。たとえ貴女でも差し違える覚悟はあります。でももしもリュコスメーに唆されているのであれば札をそこに置きなさい」
「札なんて持ってない。信じて」
「動くな!」
リポカが目を見開く。ピロミアーが怒鳴ったことではなく、ずぶ濡れのキュウがピロミアーの背後から近づいていることに気づいたからだ。
キュウは真っすぐにリポカの方へ走ってきたが、それに気づいたピロミアーが立ち塞がって脇に抱え込んだ。短剣の刃がその長い毛に覆われた首元に添えられる。
「私もこんなことはしたくありません。キュウは貴女の大事な家族なのでしょう? 失いたくないでしょう?」
その時、ピロミアーは何かに気づいた様子でずぶ濡れのキュウと割れた窓から吹き込む雨を交互に見つめる。そして何も言わずに短剣を振り上げた。
「やめて!」
リポカは泣き叫びながらピロミアーに飛び掛かる。伸ばした両腕は丸太のように膨れ上がり、全身が黒い毛に覆われる。長く伸びた口吻に巻貝のように捻じれた皓い牙が並び、両手足には弓なりに湾曲した爪が並ぶ。両眼からは血が溢れ、舌の代わりに蛭が蠢く。尻尾は稲光を放っている。破れ鐘の如き吼え声が湿った空気を震わせる。
ピロミアーの短剣は腕ごと抉り飛ばされ、その憎悪の眼差しと舌に紡がれる禍々しい呪いはリポカの一口で胴から切り離された。
リポカはその爪で傷つけないようにキュウを抱きしめる。
「母さん、怪我はない?」とリポカは獣の言葉でキュウに尋ねた。
キュウは今のリポカなら分かる言葉で「助かったよ」と答えた。
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