コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
◇◇◇◇◇
ここ1週間の降雪量は2月初旬の平均降雪量と同じだと、さっき見たネットニュースで書いてあった。
それに加えこの強風は何なのだろう。
由樹は腰辺りまで手で掘ってから、ついに作業を諦めた。
いや、諦めざるを得なかった。
肩の感覚がない。肩の感覚がないゆえにその下にある肘も、手首も、指先も動かせない。
「……え、凍死とか笑えないんだけど」
発したはずの言葉は声にならず、白い息だけがヘッドライトに照らされながら藍色の空へ溶けていく。
もしここで自分が死んだら―――。
「……あのお客様は、俺が死んだ土地で家を建てなきゃいけなくなるじゃないか……」
それは可哀そうだ。いくら何でも。
もしセゾンで家を建てなかったとしても。
「……だめだろ……!そんなの……!」
最後の力を必死に振り絞り、身体を動かそうと試みるが、すっぽり嵌ってすっかり冷え切った腰と腹が雪の中でほんの少し回転しただけで、早々に力尽きてしまった。
(……あー、ヤバい。これ、本当に死ぬかも……)
感覚のなくなった鼻先を、風に舞い上がった細かい雪の靄が撫でていく。
ここで自分が死んだら、
セゾンエスペースでは、冬季、積雪の多い地域での地盤調査は禁止になるかもしれない。
それに加えて屋根の積雪に対しての雪下ろしも禁止になればいい。
そうすれば牧村みたいに落下するスタッフも減るはずだ。
いや、そもそもセゾンの家は、積雪2mまで耐えられるから、雪下ろしをする必要がないんだった。
いやいや、まず牧村はミシェルの社員だ。セゾンじゃない。
いやいや何を。ミシェルだって2mの積雪に耐えられる家作りをしているはずだ。そもそも雪下ろしをしなくたっていいんだ。
思考がどんどん鈍くなっていく。
今自分が何を考えているのかよくわからなり、意識が遠のいていく。
(ああ。死ぬならせめて……)
由樹は目の前の雪を掴んだ。
「せめて、篠崎さんに謝ってから死にたかったなぁ」
――そうか。
脳裏に低い男の声が聞こえた。
――なら存分に謝れ……!!
「?!」
感覚が無くなったと思っていた肩と、首に鋭い痛みが走る。
そのまま由樹は後ろに引き抜かれた。
柔らかい雪の上を、まるでソリのように引きずられていく。
道路が見えたと思った瞬間、由樹は抱きかかえられた。
「篠崎さん!?」
発した声は音にならなかった。
篠崎は抱きかかえた由樹を、停めてあった由樹の車の後部座席に乗せた。
ヒーターをつけたまま、エンジンをつけっぱなしにしていたため、物凄く温かい。
「大丈夫か?!」
歯の根が合わずガタガタガタガタと奥歯が音を立てる。
篠崎が覆いかぶさっている下半身がカタカタと震える。
―――これは夢だろうか。
だって、篠崎が自分を助けに来るわけがない。
直帰だったはずだ。
雪かきに行こうとしていたことも知らなかった。
自分が家に帰ってこないことを知りようもなかったはずだ。
それなのに――――。
そう。これは幻想だ。
「ああ、いよいよか……」
由樹は諦めて目を閉じた。
「お母さん……一人にして、ごめん」
「アホ!」
スパンと頭を叩かれる。
「指先、動くか?」
篠崎の声が聞こえる。
例え幻聴だとわかっていても、身体が勝手に指示に従う。
―――動いた。
その事実に自分で驚き目を開ける。
視界が小刻みに揺れる。体中がまだ震えているのだ。
「足は?動くか?」
言いながら篠崎が由樹の長靴を外す。
そこから出てきた足を動かす。
足首も、指も動く。
それでも体の震えは止まらない。
「俺が、分かるか?」
篠崎が由樹を覗き込む。
うんうんと頷く。
「………寒いか?」
グッと抱きしめられる。
「……っ」
全身の震えが徐々に、途切れてくる。
小さく、弱くなっていく。
「痛いところはないか?骨は折れてないか?」
震えが止まった頭で頷くと、コートを脱いでいる篠崎の首筋が頬に触れた。
温かい。
でも髪の毛が……濡れている?
「……とりあえず意識があって痛いところがないなら温めれば大丈夫だと思うが……落ち着いたら病院に行くか?」
篠崎が覗き込む。
夢じゃない。
夢じゃ……ない!
由樹は首を横に振った。
意識と思考は戻った。
身体も体温と血流を取り戻しつつある。
もう大丈夫だ。
自分でわかる。
病院に行くよりも、自分には篠崎に伝えなければいけないことがあった。
他のどんなことよりも優先させて―――。
「……篠崎さん、俺………!!」
その時、もう一つのヘッドライトが、分譲地に入ってきた。
篠崎が由樹から顔を上げ、そのライトを見つめる。
停めているアウディのヘッドライトにそのボディが浮き上がった。
見覚えがある。
あれは―――。
運転席から降りてきた男に、篠崎が静止する。
「あれ?もしかして、お楽しみ中ですか?」
ヘッドライトに照らされた牧村は、光の中でにやりと笑った。
ヘッドライトを背にこちらに歩み寄ってくる牧村の手には何か四角いものが握られている。
あれは―――デジカメ?
そんなことはどうでもいい。
なぜこいつがここにいる。
篠崎は眉間に皺を寄せながら考えた。
分譲地に用があった?
こんな雪に埋もれている土地に?
しかも街灯もなくヘッドライトで照らさないとわからないような漆黒の夜に?
地盤調査の準備?
そんなわけはない。ファミリーシェルターは地盤調査を独自でやらない。契約後に専門の業者を雇って行う。営業スタッフは関与しない。
自分にしたように渡辺が連絡した?
それこそあるわけない。なぜ他の展示場の営業マンにわざわざ――――
……答えはただ一つ。
篠崎は自分の下でただ呆けている新谷を見下ろした。
(こいつが……自分で呼んだんだ)
「やだなあ、そんな怖い顔で睨まないでくださいよ。邪魔する気はないですってば。間男は用が済んだら退散しますから」
―――何が邪魔だ。
―――何が間男、だ。
白々しい。
牧村はデジカメのストラップをプラプラと揺らしながら分譲地を眺めた。
「やっぱりコピー用紙と大差ねえな」
わけのわからないことを言いながら一人で笑っている。
「あの、篠崎さん…」
顔色が戻ってきた新谷がこちらを不安そうに見上げる。
「…………」
謝りたいだの、帰ってきてほしいだの言っておきながら、新谷が死の危機に瀕したときに電話で呼んだのは、自分ではなく牧村だった。
プツン。
その事実に篠崎は張っていた最後の糸が切れた音を聞いた。
(それがお前の、答えだろ)
篠崎は新谷の車から降りた。
「……篠崎さ……」
「運転はまだするな。体の震えが完全に収まってからな」
「わかりました。それより、しの……」
「帰ってから少しでも体調に違和感があったら病院に行けよ」
「あ、待っ……」
篠崎は新谷と目を合わさないまま、後部座席のドアを閉めた。
「あれ?お帰りですかー?」
少し離れたところでこちらを振り返った牧村が笑う。
「別に俺のこと気にしなくていいのにぃ」
篠崎はその視線を無視すると、アウディに乗り込みギアをRに入れた。
分譲地をバックで通り抜けると、Dにギアを入れ替え、公道に走り去った。
なんとか自力で起き上がって由樹がドアを開けたときには、篠崎のアウディはバックのまま分譲地を抜け出ていた。
「……篠崎さん」
区画番号の看板の雪を払い、分譲地の写真を撮っている牧村と目が合う。
「悪かったな。こんな場所でカーセックスしてるなんて思わなかったもんで」
牧村がヘラヘラと笑っている。
「……そんなんじゃ、ないです」
足元がよろつき、その場に座り込む。
「おいおい。何してんだよ」
牧村は笑いながら由樹に駆け寄り、引っ張り起こした。
「……は?お前、なんでそんなにズボン濡れてんの?」
「雪に、嵌って、動けなくなって……」
由樹の言葉を受けて牧村は目の前の分譲地を見た。
雪を避けただけの簡易的な通路の奥に、大きな穴が開いている。
(隣の土地の高低差に気づかなかったのか)
瞬時に状況を把握した牧村が頷く。
「それで、篠崎さんに助けを求めたわけか。……でもちゃんと来てくれたんだから、もう終わりってことはないと思うけど?」
牧村は笑いながら由樹を見下ろした。
「してない」
「は?」
「連絡してない。俺、携帯電話、車に忘れて……」
「…………」
牧村は篠崎が走り去った田圃道を眺めた。
「……そりゃあ、ちょっと。まずいかもな……」
◆◆◆◆◆
ハンドルを握りながら篠崎は、抱きしめた新谷のことを思い出していた。
もしかしたらあいつを失うかもしれない。
そう考えたら何を考えるわけでもなく身体が動いた。
この分譲地まで、どこをどう車を走らせたのかわからないくらい無我夢中だった。
脳裏には、牧村のことも新谷の身体に刻まれた情事の痕のことも、全く浮かばなかった。
それが、自分が出した答えだと思っていた。
しかし―――。
新谷の出した答えは全く違っていた。
あいつが牧村を選んだなら、
(……俺は、その決断に従うまでだ)
素手で新谷を雪の中から引きずり出した手の甲は、氷の塊で切ったのか、血が出ていた。
篠崎はそれを舐め上げつつ、LEDの白い光に青く照らし出される雪景色を睨んだ。