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――恋が始まった、あの頃から数えて何度かの季節が巡った。
春、まだ夜になると空気が冷え込む。風邪をひきやすい季節だ。
「涼太くん、おかえりなさい!」
午後11時。
玄関を開けた瞬間に飛びついてきた真衣香を抱き留めて、坪井は驚きの声を上げた。
「ちょ、どうしたの? 危ないよ、真衣香」
「思ったより遅かったね、営業部の飲み会。小野原さんとか、あと営業所の人たちも何人かいたんでしょ? 咲山さんとか……女の人もいっぱい」
「はは、何怒った顔してるの? 咲山さんはもう隼人の彼女じゃん」
「それでも、何か嫌だ……」
少し口をとがらせて見上げると、唇をそっと手で覆われた。
「あーあ、どうせお前会社でもそんな可愛い顔してたんだろ」
「え?」
靴を脱ぎ、気怠そうに部屋に入っていく背中を追う。
「酔ったじじぃがさ、立花が嫁だとどうなんだ? 夜も可愛いのか? だってさ、うるさいって。セクハラかよ、退職金なしで解雇されろ」
「じじぃって、もう……」
三年前に八木が中心となって新たに作られた部署、経営戦略部。そこへ部長として高柳が異動してしまったのがこの春だ。
後任で営業部の部長となった男性と相性がよくない坪井は、こうして悪態をつくことが多々ある。
「あ、そういや高柳部長と八木さんからもらったよ。今日飲み会来てたから、二人とも」
坪井から渡された紙袋の中には、ベビー服やおもちゃがいくつも入っていた。
「え、何これ」
「まだ性別もわかんないんですよって言ってるのに、ほら、黄色だからって、服」
「あ、あはは……気が早いなぁ」
結婚後、すぐに妊娠がわかったのだが、それでもまだ4ヶ月。
性別は次の検診くらいでわかるんじゃないかと言われている、まだそんな時期だ。
安定期に入る前から杉田課長や、八木。そして坪井に近い高柳には何かあった時の場合にと、報告をしていたのだが。
聞いた途端始まった彼らの過保護ぶりに、真衣香はいつも困ったように笑顔で応えるしかなかった。
孫を喜ぶじぃさんにしか見えないよね、と。さすがの坪井も真衣香と一緒に乾いた笑いをこぼしていたっけな。と、思い返しながら。
けれどそんな周囲と比べて坪井は騒ぐことなく意外にも穏やかだった。
『長生きして、いっぱい甘やかしてやってね』
妊娠したのだとわかった日。
嬉しそうに、そして少し切なそうに言ったの坪井のことを、今もよく覚えている。
それは、自分が叶えられなかったことなのかな。そう思うと真衣香も少し切なくなって、それと同時に強い決意も芽生えたのだ。
「高柳部長は、お前をベタ褒めで産休育休後は経営戦略に~。とか言うけど」
「え? そうなの、初耳」
「はぁ……絶対嫌だよ、死んでも嫌。八木さんがいるし」
ネクタイを解きながら、今度は坪井が拗ねたように口をとがらせた。
「他にもさぁ、今年の新入社員、総務に入り浸りすぎじゃない? 人のものだってわかってて舐めたマネするよね、あいつら」
刺々しい声に、真衣香は肩をすくめてみせた。
「も~、営業部の子たちのこと? 新しい部長と坪井くんの空気が悪いから逃げてきてるんじゃない?」
「俺のせいなの?」
「そうは、言ってないよ……」
いつの間にか毒づく姿も、拗ねる顔も、その後で甘える仕草も。素直に見せてくれるようになった。
そのたびに、きゅんと胸が締め付けられること。
恥ずかしいから最近は秘密にしている。
「お前は、どんどん人気者になってくね」
「涼太くんもでしょ? 笹尾さんに聞いたよ、経理の女の子から言い寄られてるんでしょ? 私がいてもいいから付き合ってくれとか」
「……チッ、この間残業させたから仕返しかな、あのやろ」
「そんな言い方しないの」
「…………ごめん」
落ち込んだ声を出して、真衣香に擦り寄って、そうしてきつく抱き寄せる。
「お前以外なんか相手にしないよ」
「……うん、ごめんね。意地悪な言い方して」
抱き寄せていた身体を、軽く抱き上げてそのままソファに座った坪井が、真衣香を膝の上に座らせ向き合わせた。
至近距離の、この顔には今でもまだドキドキすること。知っているのだろうか?
「でも俺もマジで気が気じゃない。彼女になっても結婚しても、それでも……時々凄く怖くなる」
「どうして?」
言いながら髪を撫でた。
サラサラとした髪を梳かす、これは自分だけの特権だと思うと不思議と自信になるから。
「そんなので安心できないくらい、可愛くて綺麗で、毎日誰かの目を奪うから」
「……奪ってないけど、そうだなぁ、もし本当にそうなんだとしたら」
「したら?」