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第6章 水溜まりの先に
あの日のように冷たい雨が降る。山頂まであと少しというところで、また降られた。
真っ先に浮かんだ彼の顔を振り払うように、下山しながら、何度も訪れている店の扉を思い浮かべていた。
〝雨宿りの美容室〟
彼の店との出会いは紛れもなく雨宿りだった。
それだけの理由にされた事が、思いの外苦しかった。
あれ以来、遠退いていた彼の店。
翔太の声。
コーヒーの温度。
氷に触れた時の、あの冷たさ。
断片みたいに、思い出が浮かぶ。
ガラス越しに見えた影を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
それが“会えるから”なのか、
それとも――
〝誰かと一緒だったら嫌だ〟なのか。
俺はまだ言葉にできなかった。
奇しくも、また雨の日だった。
再び訪れた俺は、
彼の言う通り〝ただの雨宿り〟の客だった。
雨の日は客が多い。
翔太はそう言った。
その〝客〟の中に、
俺も一括りにされているみたいで、
妙に腹立たしかった。
ただの客だと、分かっているのに。
ステンドグラスの光が溢れる店内。
ドアベルより先に扉を押したのは、濡れた体じゃなくて、確かに感情だった。
客に頰を寄せて話す彼を見て、思わず吐き出した。
「……お前、無防備すぎ」
危うい距離だ。
あれじゃ、誰だって勘違いする。
その自覚がないのが、一番厄介だ。
都合よく、嫉妬を心配に置き換える俺だって、その危険な奴らと何が違うって言うんだ。
言い終えた瞬間、俺はソファにどかッと腰を下ろした。
彼は苦笑いしてそれを見送り、鏡越しに、また楽しそうに客と頰を寄せた。今度はチラチラと俺の方を気遣って……
先ほどまで俺が居た場所に、水溜まりが出来ていた。
ぽつぽつと落ちた雨が、そこに溜まっている。
まるで、あそこに置いてきた自分みたいで。
その場に残っていたくなくて、
俺は店を飛び出した。
一歩踏み出すと、足元の水が跳ねる。
踏み越えたはずなのに、 まだ、そこにあるみたいだった。
来た時より雨足が強くなり、レインコートのフードを被ると、 霧が濃くなる麓の畦道に、幾つもの水溜りが出来ている。
また、足元の水が跳ね、フード越しに視界が滲む。
カラコロとドアベルが鳴り、振り返るとほぼ同時に掴まれた腕は温かく、胸が一瞬で跳ねた。
「ひかる」
名前なんて意味がないと言った彼が、
俺の名前を呼んだ。
目尻が下がるのを自覚して、少し笑ってしまう。
「ごめん……また、晴れたら来るよ」
名前のない関係のくせに、客に嫉妬して、惨めったらしい。頰が熱くなるのを感じた。
顔を伏せ腕を振り払おうとするも、翔太の腕に強く引かれた。
「それって、もう来ないってこと?」
雨男のくせに、とでも言うように吐き捨てると、彼はステンドグラス付きのキーホルダーを翳し、店の裏から続く家の扉の鍵を俺に渡した。
「濡れた体、ちゃんと拭いて…終わるまで待ってて?」
拒もうと手を伸ばすと、彼はウインクしながら、
「断るのは無しだよ? これで照が風邪でも引いたら夢見が悪いからね」
無理やり掌に添えられた家の鍵を、俺はぎゅっと握り締めた。胸の前で抱き締めると、心臓が早鐘を打った。
この早鐘の名前を、俺はもう随分と前から知っている。
それでも、まだ口にするつもりはなかった。
だって 俺はまだ、
彼の名前すら、呼べずにいるのだから――
コメント
2件
ひかる、って本当にいい名前💛
