それから何事もなく日々は過ぎ、終業式まであと二週間となった。
「ルシンダ、卒業パーティーで着るドレスは決まったの?」
「うん。お母様がすごく派手なドレスを買おうとしてたんだけど、お兄様が説得してくれて、なんとかまともなドレスを着られそうだよ」
義母が勧めてきた、やたらと胸元の開いた毒々しいデザインのドレスを思い出してげっそりとしながらルシンダがミアに答える。
ちなみに卒業パーティーとは、終業式翌日の夜に学園で開催される、卒業生を見送るためのパーティーだ。
立食形式で豪華な料理が振る舞われ、ダンスの音楽を有名楽団が演奏するとのことで、楽しみにしている生徒は多い。
「なんだかご両親のことで大変そうね……。でもまあ、クリスが意見を出してるなら、ドレスのデザインは安心できそうね」
「うん。清楚な感じですごく可愛いの。パーティーなんて出るのは初めてだから緊張するけど、楽しみだな」
「そうね。それに、原作は卒業パーティーでエンディングだし、この状況でバッドエンドになることはあり得ないから、安心して大丈夫よ!」
「そうなんだ。よかった〜。じゃあ安心してご馳走を楽しもうっと」
「もう、あなたってば食い気ばかりね。ダンスもあるんだから、そっちも気にしなさいよ」
ミアが呆れ顔で溜め息をついた。
◇◇◇
そして終業式も無事に終わり、いよいよ卒業パーティーの夜となった。
この日のために誂えてもらったドレスに着替え、クリスと一緒に馬車で学園へと向かう。
クリスと馬車なんて何度も一緒に乗っているのに、今日に限ってやたらと緊張してしまうのはなぜだろう。
(いつもと違って着飾っているから落ち着かないのかも……)
出発前、玄関ホールに正装で現れたクリスは、身内の目から見てもあまりに素敵だった。文化祭で観た演劇の公爵様のような色気に溢れ、でももっとずっと優しい雰囲気で、思わずぼーっと見惚れてしまった。
そうして頭が麻痺したまま馬車の中にエスコートされて腰掛けると、クリスはなぜかルシンダの手を取ったまま、隣に腰を下ろした。
「お兄様……?」
ルシンダが小首を傾げると、クリスはまるで壊れものを扱うかのように優しくルシンダの手を持ち上げ、そのままそっと口付けた。
「……本当に綺麗だ。このまま二人だけでどこかに行ってしまおうか」
クリスに口付けられた場所から全身に熱が広がっていく。
そのうえ甘い囁きが耳に響いて、ルシンダは頭がくらくらするのを感じた。
(……どうしてこんなに胸がどきどきするんだろう……)
さっきから胸の動悸が激しくなるばかりで、ちっともおさまってくれない。
前にアーロンから同じことをされたときは初めてだったから衝撃も大きかったけれど、今は二回目でもっと落ち着けてもよさそうなものなのに。
しかも相手は兄だ。きっとクリスは綺麗に着飾ったルシンダを褒めてくれただけで、こんなに動揺しているほうがおかしい。
「お、お兄様、サボったらだめですよ。ご馳走も食べたいですし……」
結局そんな返事をすると、クリスは残念そうな顔をしながらも、ふっと笑みを漏らした。
「そうだな。ルシンダも、入学してから一年間よく頑張った。今日は楽しむといい」
「はい、一緒に楽しみましょうね」
馬車の中の甘い空気も少し和らいで、ルシンダはほっとしたような、名残惜しいような、妙な気分で学園へと向かうのだった。
◇◇◇
会場に着くとすぐ、ミアとユージーンとサミュエルを見つけた。
「ルー! そのドレス、よく似合っているよ」
「ありがとうございます。お兄様が見立ててくれたんです」
「……へえ、クリスが。僕もルーに似合うドレスを選んであげたいな」
ユージーンがクリスを横目で見ながら言う。
「ルシンダのことは僕に任せてください。ユージーンはミア嬢に見立てて差し上げてはいかがですか。お二人はとてもお似合いだと思いますよ」
クリスが余裕の笑みを浮かべて返事をする。
(たしかに、ミアとお兄ちゃんは良きビジネスパートナーみたいな感じで相性が良さそうな気がするなぁ)
そんなことを考えていると、ミアとサミュエルが近づいてきた。
「まったく、巻き込まれ事故はごめんだから逃げてきたわ。……ルシンダのドレス、とっても素敵よ」
「……アレキサンドラトリバネアゲハみたいだ」
サミュエルが目を逸らし、顔を赤らめながら呟く。
「アレキ……? ──褒めてくれてありがとう」
一瞬何かの呪文かと思ったが、アゲハということは彼のことだからきっと綺麗な蝶にでも例えて褒めてくれているのだろうと、ルシンダは判断した。
そうしてお互いに衣装を褒め合っていると、今度はアーロンとライルがやって来た。
アーロンは、今日の主役は卒業生だからなのか、あまり王族らしくない控えめな装いだ。とは言え、いかにも攻略対象らしい美形オーラが漂っているので、全く控えられてはいないのだが。
「皆さん、楽しそうに何の話をされていたんですか? 私もご一緒させてください」
アーロンがにこにこと微笑みながら、さりげなくルシンダの横につく。
「もちろんです。みんなの衣装が素敵ですねという話をしていたんですよ。アーロンも、よくお似合いで眩しいです」
ルシンダが褒めると、アーロンは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「褒めてもらえて嬉しいです。ルシンダもとても綺麗ですよ。お伽話に出てくる月の女神のようです」
アーロンの褒め言葉は相変わらずロマンチックで照れてしまう。
「あ、ありがとうございます」と、ぎこちなくお礼を伝えると、突然、鐘の音が鳴り響いた。
「鐘の音……?」
ルシンダが不思議そうに辺りを見回す。すると、これまたいつの間にかルシンダの横にいたライルが綺麗な顔を近づけ、耳元で「卒業生入場の合図だ」と教えてくれた。耳に吐息がかかって、なんだか恥ずかしい。
鐘の音が鳴り止むと、今まで閉じられていた中央の扉が開いた。
次々に入場してくる卒業生たちは、晴れやかな笑顔だったり、瞳を潤ませていたり、さまざまな表情を浮かべている。
全員が入場し終え、教師や在校生に向かって一礼すると、温かな拍手が沸き起こった。
これから懇親の時間だ。立食形式の食事も用意されており、何人かの生徒たちが豪華な料理やデザートが並んだテーブルへいそいそと移動している。
「来年はユージーン先輩とクリス先輩もご卒業ですね」
二人の先輩を見て、ミアが言う。
「ルーと一緒に学園生活を送れるのも、あと一年か……。そうだ、僕が留年すれば……」
「そんな不純な動機で留年するのはどうかと思いますよ」
「不純なものか。ルーともっと一緒に過ごしたいという、ひたすら純粋な──」
「ユージーン会長、私もわざと留年するのはよくないと思います」
ルシンダが諌めると、ユージーンはしょんぼりと眉を下げた。
「でも、ルーの卒業まで悪い虫が寄ってこないか見守れないのは心配だ。そうだろう、クリス?」
「それは確かにそうですが……」
「? 虫なら虫除け魔道具があるから大丈夫ですよ」
ルシンダがきょとんとした顔で言うと、ミアが苦笑いを浮かべる。
「えっと、そういうことじゃなくてね……」
「ルシンダのことは私たちが守ります」
アーロンが爽やかな笑顔で宣言するが、ユージーンはじとっとした目で一瞥する。
「君たちが一番信用ならないんだよ。こうなったら、卒業までレイ先生に担任として見守ってもらうしかないな。彼なら安心して任せられる……!」
「レイ先生がずっと担任になってくれたら嬉しいですけど、それは学園が決めることですから……」
「ふっ、学園に最も高額な寄付金を納めているのは、我がフィールズ公爵家だからね。少しお願いすれば教師の人事くらいなんてことないさ」
にっこりと笑顔で悪どいことを言い出すユージーンにルシンダが少しだけ引いていると、タイミングよくレイが現れた。
「お前たち、相変わらず仲がいいな」
「先生、ルーが卒業するまでよろしくお願いします。先生だけが頼りです」
「なんだ、大袈裟だな。ああ、ちゃんと面倒見てやるから安心しろ」
頼もしい返事に、なんだかルシンダも嬉しくなる。
「そういえば、あと三十分もしたらダンスの演奏が始まるぞ。お前たちはきっと大勢からダンスを申し込まれるだろうから、今のうちに何か食べておいた方がいい」
そんなありがたい助言を残して、レイは卒業生たちのほうへと去っていった。
「ダンスか……」
ユージーンが呟くと、クリスや他のみんなも何故か沈黙する。
(みんな黙ってどうしたんだろう? 何の料理を食べようか考えてるのかな?)
ルシンダは自分も今のうちに食事をとろうと思い立った。そしてみんなに一声かけようと口を開いたそのとき。アーロンが笑顔で被せてきた。
「ルシンダ、最初のダンスは私と踊りましょう」
「は? アーロン、お前、従兄を差し置いて抜け駆けする気か?」
「ユージーン兄上には申し訳ありませんが、ここは一番身分が高い私が最初に踊るべきでは?」
「お前……なかなか言うようになったな。だが、年長者に譲る度量も大切だぞ」
アーロンとユージーンが言い合っていると、クリスが割り込んできた。
「そうですね。でも、それなら僕も年長者ですし、ルシンダの身内なのだから、僕が最初に踊るのが妥当ではないでしょうか」
「身内ならなおさら遠慮すべきでは? ほら、皆がこんな調子でルシンダが困っているようなので、間をとって俺がファーストダンスを引き受けましょう」
ライルがルシンダに手を伸ばすと、先にルシンダの手を取ったのはサミュエルだった。
「ルシンダ、とりあえず料理を取りに行こうか」
「サミュエル、どさくさに紛れて何をしてるんだ?」
目ざといユージーンがルシンダとサミュエルの間に割って入る。
言い争いが止まらない男子たちを呆れた顔で見つめていたミアが、パンッと手を叩いた。
「はいはい、こうなるんじゃないかと思って、クジを作ってきました。ルシンダと踊る順番は公平にクジで決めましょうね」
「いや、しかし──」
「あなたの大事なルシンダが困ってるじゃないですか。ルシンダのためにクジで決めてください!」
なんとか食い下がろうとするユージーンに、ミアがぴしゃりと言い放つと、みんな反省したのかしゅんとしてミアの前に並んだ。
すごい、敏腕マネージャーみたいだなぁと、ルシンダは妙な感動を覚える。
「俺はこのクジにする」
「では私はこれにします」
「僕もそれがいいんだけど」
「早い者勝ちですよ、兄上」
クジの取り合いをする攻略対象たちを眺めながら、ルシンダは長かったようで、あっという間だったこの一年を思い返す。
偶然だったけれど、今では運命のようだったとも思えるみんなとの出会い。
彼らのおかげで、自分は大切なことに気づけたような気がする。
こんな自分でも、彼らは本当に大事に思ってくれているのだと知った今、自分も一歩踏み出して、もっと彼らのことを知り、その心に近づきたいと思う。
ルシンダが、舌戦で盛り上がっている仲間たちを優しい眼差しで見つめる。
「……これからもよろしくね」
ぽかぽかと温まった胸に手を添えて、ルシンダはそっと呟いた。
《第一部完結》
※第二部に続きます
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