コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
熱き風吹くリヴィア海の、平穏に生きる者の中では誰も知らない海域に、人の手の入っていない島がある。都市間を行き交う噂話も荷運びの獣もやって来ないが、大陸には知られていない極彩色の果実の味を知る渡り鳥や海の底の深く暗い海溝に潜む怪物を隣人とする回遊魚が訪れる孤島だ。
人の手は入っていないが未踏の地ではなく、人は住んでいないが誰も住んでいないわけではない。
その島には怪物がいた。誰かに名を呼ばれることのない孤独な怪物、釣る者だ。
それはまだマシチナ群島国が西の大国の影に怯えていた頃、政変と海賊が島々に住む自由と陽気を愛する人々を脅かしていた時代のことだ。ある日、まだ太陽が目を覚まさない内に、プサラスキラは静まり返った森の奥の木の洞の獣の巣のような寝床から這い出てくる。ほんの些細な違和感を覚え、いつもより少し早く起きてきたのだった。
プサラスキラは本性の姿を晒して闊歩する。飢えた獣のようなぎょろりとした眼、犬や狐のように伸びた鼻面、熊や虎のような巨体で、冬を迎えてもいないのに長い毛に覆われて丸々としている。隻脚の後肢と尻尾の二本で直立し、釣竿を担いで海風の呼ぶ方向へと歩いていく。べとつく潮風に鼻をひくひくとさせ、朝の訪れを察した鳥や獣の声に耳を傾け、島の様子を探る。が、異変は見つからない。
甘酸っぱい果実の香りの漂う森を抜け、岩の転がる流刑者たちの墓地を通り過ぎ、雪に似て真っ白な砂に覆われた砂浜までやってくる。寄せては返す歌うようなさざ波の音と共に、白い砂が優雅に舞い、流れ転がる様子が眼前に広がる。その頃には東の水平線から太陽が顔を出し、青い海が煌めいていた。
「何だあ?」
孤独なプサラスキラが意味のある言葉を発するのは久しかった。ざらついた声は岩礁をそそぐ波に似ている。
円らな黒い瞳をきょろきょろとさせ、小さな耳をぱたぱたとさせ、雲の流れと波の立てる白波、その音に注意を向ける。いつもと風や波の様子が違う。いつもはもっとずっと不自然な風が吹き、不自然な波が打ち寄せる島なのだが、まるでリヴィア海のあちこちで愛される気ままな風と規則的な波のようだった。この島においては不自然であることが自然なのだ。
プサラスキラは毛を逆立て、海をじっと眺める。他に何か変化はないかと目を凝らすが見て取れない。
疑問は解決しそうになかったので、誰も知らない島の獣はいつものように、昨日、昨月、昨年と同じように、釣竿を巧みにしならせ、針を沖の方へ放る。あるいは海の中を探れば何か分るかもしれない、という期待もある。
プサラスキラにかかれば海蛇のように揺蕩う釣り糸の動きが手足のように支配でき、釣り針が波と海流と水底を探ると指先で触れたように把握できる。釣竿を巧みに動かせば、海の中で見ている景色を自身の目で見、耳で聞くように感じられるのだ。うねる海流、鯛の鱗の煌めき、貝の吐く泡の弾ける音が一体となって釣竿を伝う。また魚を釣るばかりではなく、海亀や海豚と戯れ、海藻をもぎ取り、水底の石をひっくり返すこともできる。とはいえ釣竿で出来る大概のことは遊び尽くした。今日も今日とて釣りそのものを楽しむほかない。
しばらく暇に飽かし、太陽が朝の勤めを終えた頃、プサラスキラは海の中を異物が漂っていることに気づいた。その正体を察すると慌てて釣り上げる。
釣り上げたのはまだ十にも満たない少女だった。亜麻布の色彩豊かな柄物の半袖、鍔広の日除け帽に革の草履。海に生き、波と歌い、風と踊る典型的なマシチナ民の格好だが、どれも高い社会階層に好まれる高級素材を丁寧な手業で作られた高品質な衣装だ。
プサラスキラは乱暴に――しているという自覚はないが――砂浜に引っ張り上げた少女の小さな背中を打ち、水を吐かせる。冬の夜に墓場で石ころの裏を漁る魔性の呻き声のような嗚咽を漏らし、少女は力の限りに咳き込む。
「おおい。よく生きてたなあ。こんな所まで泳いで来たってのかい?」
ずぶ濡れの少女は紫に変色した口を拭い、黒い瞳で毛むくじゃらの怪物を見上げる。が、特に感慨もない様子で砂浜や島の奥の森の方に目をやる。
「私、鳥を追って来たの。でもあれは夢だったのかもしれないわ。ここはどこ? 海の上だと良いんだけど」
「ああ、安心しな。あんたもあたしも死んじゃいないよ。幽世じゃあない。ヴィリア海のどこかのしけた島さ」
「そう。良かった」少女は立ち上がり、決められた動作を確認する忠実な兵士のように身体を検める。怪我は無いようだ。「他には誰かいるの? あなたみたいなひとでも、そうじゃなくても良いんだけど」
「いいや、あたしを除けばあんただけ、あんたを除けばあたしだけ。毛むくじゃらは他にもいるけど、言葉を話せる奴はあたしだけさ。それで、あんた、何者だい?」
歳の割に大人びた視線で少女はじっくりプサラスキラの捩くれた毛に覆われた顔を見つめ、首を傾げる。
「何者かだったことはないの。あなたは何者? もしかして水底郷の番人神の眷属?」
プサラスキラは変な顔をするが、毛に覆われていると分かりにくい。
「いいや、違うよ。そんな大それたもんじゃない。あたしはプサラスキラ。ただの流刑者さ。あんたは流刑者じゃないよねえ?」
「ええ、違うわ。流刑者は監獄船で運ばれるものでしょ? 私は波に攫われてやってきた。つまり遭難者ね。よろしくね、プサラスキラ」
「ああ、よろしく。名乗らずさん」
「私、名前があったこともないわ」と少女は真顔で答える。
「ふうん。それなら釣果って名はどうだい?」とプサラスキラは揶揄う。
「良いわね。気に入った」そう言ってシーリップはプサラスキラのふかふかの腹に抱き着く。
驚いたプサラスキラだが、されるがままになるほかなかった。そういう風に接されたことはなくて、どういう風に返すべきなのか分からなかったからだ。温かな海水がじんわりと体毛に染み込むのをただ感じていた。
流刑者以外がこの地にやって来たのは初めてのことだが、プサラスキラの生活に大きな変化はなかった。
まだ他に生きている者がいた時も、プサラスキラは釣りを中心とした生活を送っていた。絶望したり、希望を持ったりしている他の流刑者たちに釣った獲物を分けてやることはあったが、会話はほとんどなかった。体制への反抗を計画する政治犯たちも、人殺しや海賊たちも、最初は島に棲む怪物に驚くが、害にはならないと分かれば次第に興味を失くしたものだ。そして島を脱出できずに皆死んでしまった。
シーリップもまたプサラスキラには大して興味がないようだった。それよりも島や海の様子、動植物に興味を向けて、日々散策している。あまり表情には出ないが、鳥や魚が好きなようだった。
時折、生活が交じることはあっても混じることはなかった。二人ともが釣りをしていることはあっても、共に釣りをすることはない。二人ともが魚を焼いていることはあっても食卓を囲むことはない。ただし時々、プサラスキラのふかふかの体毛を堪能するように抱き着いてくる。プサラスキラが抱き締め返そうとするとするりと擦り抜けてしまうが。
プサラスキラにとってはその距離感が丁度良い刺激と寛ぎを得るのに適していた。シーリップもそうなのだろう、と考えていた。
シーリップが一切プサラスキラを頼らないという訳でも、プサラスキラが一切シーリップに関わらない訳でもない。森の中で迷子になったシーリップがプサラスキラの名を呼んで助けを求めることもあった。シーリップが海で溺れていたらプサラスキラが釣り上げてやった。
子供というのもプサラスキラにとっては初めての存在だったが、少なくとも海賊なんかよりはよほど賢く、思慮があり、政治犯たちよりも外に目を向ける好奇心を備えていた。
「これは何?」
ある日のこと、いつもより一層不自然な風の吹く夕暮れ、プサラスキラは海で瓶詰の手紙を釣り上げた帰り道、森の中の墓地でシーリップに尋ねられた。辺りには苔生した石に名を刻んだだけの墓標が並んでいる。
「一応墓だよ。その下に眠っているわけではないけどね」
マシチナでは水葬が一般的なので、プサラスキラはそれに倣ってきた。
「プサラスキラが立てたの? どうして? 体制の指示?」
「いや、違う。どうしてだろうな? ……たぶん、忘れられることは可哀想だと思ったんだ」
「海は忘れるものよ。海には何の痕跡も残らない。記録しない。記憶しない」
「海はそうだけど。人間は土の上で生きているだろ?」
「そうね。でも私は海の上で生きたいわ。鳥のように、魚のように」
最近、シーリップは筏を作っていた。他の政治犯や海賊たちと同じように。だが決して脱出は叶わないことをプサラスキラは知っている。この島の周辺海域は風も波も海流も体制によって支配されているのだ。不自然極まりない空気と水の流れは誰も島から出させはしない。
だがプサラスキラはシーリップにそのことを伝えてやれなかった。伝えるな、と命令されているわけではない。シーリップの希望を断ち切りたくなかったのだ。島の外で自由に生きて欲しいと願ってもいた。願う以外には何もできなかった。
流刑者たちの冥福を祈るシーリップを残して、プサラスキラは寝床へと帰る。そして体毛の中に納めていた瓶詰の手紙を取り出す。久々のことだ。
綺麗に折りたたまれた羊皮紙に華奢で華麗な筆致が踊っている。それは体制からの通報であり、命令だ。ある少女を探しているらしい。万が一流刑地へとやって来たならば即刻引き渡すように、と。
どうやらシーリップは流刑者でも遭難者でもなく、脱走者のようだ。
プサラスキラを縛る命令は口頭でなくてはならない。手紙による指示では魂を束縛出来ない。かといって釣りの魔術で体制に反抗することも出来ない。また遥か昔に与えられた命令により、流刑地の監視者プサラスキラは返信に嘘を書くことも出来なかった。
直に体制の使者を乗せた監獄船が、考える能力を手放した役人がこの流刑地へとやって来るだろう。
シーリップの筏は完成したが、希望はない。ないはずだった。体制に支配された不自然な風が、波が、海流が鎮まっている。それは前にもあったことだ。それはシーリップがやって来た時のことだった。
「ぼうっとして、どうかしたの?」
シーリップがプサラスキラの長い鼻の辺りを見上げている。
「いや、お前は、もしかして……。いや、いい。達者で暮らせよ」
シーリップがプサラスキラを抱きしめ、プサラスキラも不思議な少女を抱擁する。
途端に意識を失う。すぐさま意識を回復する。貼り直されたのだ。魂を縛る命令が消え失せた。
シーリップが変わらない無表情でプサラスキラを覗き込んでいる。
「あんた、何者だい?」
「シーリップよ」
プサラスキラは久々に大きな声で、嵐にも負けない声で笑う。
「なるほどね。どんな政治犯や海賊よりも体制はあんたを恐れているんだろうね」プサラスキラの賞賛に対してシーリップは首を傾げるだけだった。「今度こそ、達者でね。鳥や魚のように生きてくれ」
「プサラスキラは出て行かないの?」
少し驚く。プサラスキラの中にそのような発想はなかった。なかったことに驚いた。
「あたしはどうやらこの生活が気に入っているらしい。でも、そうだね。体制に一泡吹かせてやりたいな」
シーリップも珍しく笑みを浮かべる。
「それなら時々ここに立ち寄るわ。体制と意見が異なるだけの、悪くない人を脱出させてあげるの」
「そりゃ良いね」
あとは二言三言、言葉を交わしただけで、シーリップは筏に乗り込み、首輪付きの風も飼い慣らされた波も鞭を恐れる海流も躾け直し、海の向こうへと流れ去った。