「素晴らしい! です! 何もかもが大きくて! 複雑で! それに綺麗!」
少女の声が乗合馬車の停留所に響く。蹄の叩く音、車輪の転がる音、乗客たちの騒めきを貫いて高らかに通る。しかし気にする者はいない。巨大な都市にあっては声の大きな少女ですら埋没するものだ。
季節を三巡した年頃の少女は丈長の新しい外套を纏い、履き慣れた短靴を履き、背には大きな麻袋を背負っている。
少女は荷物の重みに耐えかねているかのようにふらふらと歩き回りながら、あちらこちらに視線をやっている。何かを目にするたびに見開き、大きく開いた口から感嘆の声を漏らす。建物を見上げて笑ったかと思うと、近くを馬車が通り抜けた途端飛び退いたと思えば、鼻をひくひくさせて眉根を寄せる。
田舎者がテロクスの誇るこの貿易都市淡い原に圧倒されている。少女のそのような姿は酒場に酔っ払いがいるのと同じくらいありふれた光景だ。
山をも崩した広大な土地に層の重なる建築物が所狭しと並び立っている。残された街の中心の丘には薬と毒を司る神々のために築かれた神殿が聳えている。人間が薬草の知識を得るに至った神話を刻み込まれた幾基もの塔に囲まれ、神代の英雄の偉大さを知らしめる鐘楼の響きが街とその歴史を寿いでいた。
少女は瞳を爛々と輝かせ、目に映るもの全てを魂に刻み込もうとしているかのように熱心に観察している。そして誰も聞いていない感想を大きな声で口にしている。
「広場だけで村が入っちゃいそうです!」
誰も答えはしないが少女もまた気にしていない。綺麗な衣服に大荷物のお上りさんとくれば、いかにもすりの標的だが、少女に近寄る者は誰もいない。
「えっと、どこで待ち合わせだっけ?」
少女は懐から一枚の手紙を取り出すと、その場にいる全員に聞かせたいかのように音読する。
「停留所についたら大人しく待っていろ。わがはい自ら街を案内し、工房まで連れて行ってやろうぞ。ですよね」
少女はすぐ近くで誰かを待っているらしい男の方へ駆け寄る。
「御師匠様ですか?」
男は面食らいつつも律儀に答える。「いや、違うけど」
「そうですか。すみません。ありがとうございます」
少女は丁寧に辞儀をし、次の標的を探す。しかし平穏を愛する市民は関わり合いにならないようにとさりげなく逃げていく。
「まだ来てないんですかね」
少女は停留所全体が見えるように大通りに植わった街路樹、爽やかな香りを振りまく袋楠の下で待つことにする。
「なんで薬師のおじさんに、薬師の魔女さんの名前を聞いておかなかったんでしょう。これからお世話になるのに」
その独り言に応えるように袋楠の樹上でがさごそと葉の擦れる音が聞こえる。ファルマポリに着いて初めての小鳥か栗鼠か、少女は素晴らしい何かを期待するように、既に笑顔を輝かせて見上げている。
すると幹に抱き着いている一匹の奇妙な獣がいた。大きな丸い耳と丸い鼻を持ち、灰色のふわふわとした毛皮で覆われている。ごく短い尾に、短く太い四肢だが、爪は鋭く尖っている。
「わあ! 可愛い! 都会はすごいです! こんな動物、故郷では見た事がないです!」
獣は悠然と別の枝に移ろうとした。しかし枝が根元で折れ、獣は幹から落下する。少女は枝が撓った瞬間には走り出して獣を受け止めた。勢い余って幹に顔を打ち付ける少女だが不安そうな瞳は獣に注がれている。
「大丈夫でした? しっかりつかまってないとだめですよ」
そう言って奇妙な獣を再び幹に抱かせてやる。
「柔らかい毛並みですね。触っても良いですか?」
しかし少女の伸ばした手は獣の背中に届かない。獣は幹から落ちた鈍さなど嘘だったかのように器用に樹上へと逃げていく。少女は少し不満そうに呟く。
「いいですけどね。慣れっこです」
「ああ、君、君。もしかして新しく来るっていうお弟子さん?」
呼ばれたことに気づいて少女が振り返ると、初めて見る都会の立派な建築物に目を奪われるように誰も彼もの注目を集める美しい女がやってくる。程よい親近感を保つ長身に、余分でも不足でもない魅惑的な体躯、どの角度から眺めても均整な姿勢で、踊るような調子の良い歩き方だ。その美女が降り立てば雅な都も鄙びた寒村のようだ。ただし身に着けているのは色とりどりの染みに塗れ、汚らしく変色した長衣だ。全体の寸法もあっておらず、そもそも左右で裾の長さが違う。そうと分かると好奇心に魂を縛られた人々も距離を取る。
が、その美女が己の有様を気にしていないように、少女の方も特に引っかかることもなく受け入れる。
「初めまして、お会いできて嬉しいです!」と少女は丁寧に挨拶をする。「今日からお世話になります。光り輝くと申します!」
「いい、いい。挨拶は後でね。ちょっとそこで待っていて」
そう言うと女は懐に手を突っ込み、握った手に納まるくらいの小さな硝子瓶を取り出す。硝子瓶の蓋を開き、中の青緑の液体を樹上の獣に向けてぶちまけた。しかし獣はひょいと避け、木を飛び降りると逃げてゆく。後には二人の沈黙と、街の喧騒だけが残る。
木にかかった液体は網状になって的外れな標的を縛り付けていた。
「え? あの子がどうしたんですか?」ディタは女と木、そして逃げ去る獣を見比べながら悲鳴に近い上擦った声で問いかけた。
「あの子守熊はうちの薬の材料なのよ。逃げ出しちゃってね。捕まえなきゃいけないわ」
「殺しちゃうんですか?」
女はディタを見下ろし、推し量るように眺める。
「そういう場合もあるわ。あれに関しては基本的に毛と糞しか使わないけど。でも生き物を殺すのに躊躇いがあるなら、向いてないから帰った方が良いわね。まったく、すばしっこいんだから」
そう言い残すと女は獣の逃げた方へと走り去っていく。
ディタは、薬師を志す少女は停留所と子守熊の逃げた方向を見比べる。大荷物を背負い直すと子守熊と薬師の美女の去った方へ走り出す。
「私もお手伝いします!」
ディタは薬師に追いつくが、子守熊の姿はもうどこにもなかった。
「そう。助かるわ。じゃあ、お嬢さん、手分けして……」二人は大通りで立ち止まる。「いえ、初めて来た街だものね。一緒に探しましょう」
「ディタです。よろしくお願いします」
「ええ、さっき聞いたわ。ああ、違うわね。私は高潔。これからよろしくね」
「よろしくお願いします! それと逃げた方向なら分かります。こっちです!」
ディタは返事を待たずに駆け出し、エナマシエも後を追う。
「本当に? 目が利くのね」
「いいえ! 鼻が利くんです!」
子守熊の臭いを追って、二人は通りを急ぐ。徹底的に整備された道には肥えた馬が勇ましく駆け、絵画から抜け出したような麗しい装いの馬車が走り抜けていく。市場から市場へ、集会から集会へ多様な衣を纏った民族種族が歩いて回り、肥沃な河岸を姉妹とする張り巡らされた大小の水路には市民の足としての船が行き交っていた。子守熊の臭いは勝手知ったる街を縦横無尽に駆け巡っている。
しばらくしてディタの視線の先に確かに子守熊が現れた。出会った時の鈍さは演技だったかのように、鼠のようなすばしっこさで石畳の上を駆けていく。
「あ!」とディタが声をあげたのは子守熊が塀を飛び越えて行ってしまったからだ。「入っちゃいました。どうしましょうか?」
「大丈夫よ。ここは提携している薬草園だから事情を話せば入れてもらえるわ」
二人は正門の方へ回り込み、エナマシエと面識のある門衛に話を通して中へと入った。塀の外にも僅かに漏れ出していたが、中は噎せ返るような青臭い香りが立ち込めている。広々とした土地に多種多様な植物が植えられており、そこにいるだけで薬効が体の奥に染み込んできそうだ。
「すごいです! 見た事のある薬草も見た事のない薬草もいっぱい!」
「これから何度でも来ることになるわ。それでどっちに逃げたか分かる?」
「すみません。薬草の匂いに紛れてしまっています」
「いえ、大丈夫。いたわ」
エナマシエの指さす先に子守熊はいた。爽快な香りを漂わせる薬草の野原で戯れるように転げまわっている。しかしディタとエナマシエが近づくと今度は網に変じる薬液を使う暇も与えず再び逃げ出すのだった。
薬草園は青臭いだけでなく、甘やかな香りや爽やかな香りに包まれている場所もあれば、極彩色の花園に目から癒される場所もあった。
「この場所に来れただけで、わたしファルマポリに来てよかったって気分になっちゃいました」
子守熊に翻弄されつつ薬草園をぐるりと巡り、思わずディタは本音を漏らす。
「それは結構なことだけど、あいつ今度は正々堂々門から出て行こうとしてるわ。憎たらしい」
門衛に呼びかけるが、子守熊はその手をするりとかわして薬草園を出て行ってしまった。
薬草園の他にも様々な鉱物や動植物の取引される市場を走り抜け、先進的な魔術や知識が蓄積された大学、図書館を巡り、薬師を支える様々な器具を創り出す工房にも迷惑をかける。名高い芸術家たちの作品を収蔵した美術館や勇ましい戦士たちの勲たる戦利品を展示した博物館を訪れるのはまた後日だ。人の賑わう食堂街ではエナマシエに食事を奢ってもらい、どうせ後に買いに来るのだからと仕立て屋で寸法を測ってもらった。
子守熊を追いかけながら、ディタは笑い声を漏らす。
「すみません。わたし、なんだか楽しくなっちゃってます」
エナマシエは変わらず控えめに笑う。「苦しいよりいいわ。それにディタの嗅覚が無ければもっと苦労する羽目になったでしょうし。ほら、見て」
ディタの視線の先には子守熊がいた。通りのど真ん中に座り込み、二人に背を向けて毛繕いをしている。
エナマシエが懐から薬を取り出そうとするのをディタは押し留める。
「私に任せてもらえませんか?」
エナマシエは無言で手を開いて促す。
ディタはゆっくりと子守熊に近づく。が、手の届く距離に近づく前に子守熊は振り返った。しかしディタが両腕を広げると子守熊は自らその胸に飛び込んだ。
「どうやったの?」追い付いたエナマシエが尋ねる。
「特に爽やかな香りが好きみたいだったので」とディタは数種類の葉を懐から取り出すと子守熊に与える。
辺りに目の冴えるような香りが漂う。
「ありがとう。助かったわ。それに丁度良かった」
目の前にはこの街で見たどの建物よりも古く、背の高い建物が聳えている。エナマシエはその巨大な門の脇にある通用口を開く。
「さあ、いらっしゃい。ここがこれからディタの学び、働く場所。煎ずる者の工房よ」
ディタははっと気づく。
「それじゃあ、お師匠様は私の案内を兼ねて子守熊と追いかけっこしたんですね!」
エナマシエは首を傾げる。「さあ? それは師匠本人に聞いてみて。私も翻弄されただけよ」
「うむ、よくぞ、わがはいの企みを見抜いた」と言葉を発して子守熊がディタの胸から飛び降りつつ、二本の足ですっくと立ちあがる。「まあ、わがはい自身には最後の最後まで気づかなかったがな。わがはいこそがお前の師匠となる、毒と薬で世を統べし稀代の天才薬師にして、人間どもの上位に君臨せし不死不老の怪物ヴォラタナである!」
「わあ!」ディタは再びヴォラタナを抱き上げて撫でまわす。「お師匠様がこんなに可愛らしいなんて最高ですね! これからよろしくお願いします!」
「やめろ! 一定の敬意と節度を持った可愛がりをするのだ!」
「これをあげるのでもう少し滅茶苦茶に撫でさせてください」
ディタの差しだした薬草を咥えてヴォラタナは大人しくなる。
「今回だけだぞ」
ディタはヴォラタナをもみくちゃにしながらエナマシエを追って門をくぐる。
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