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「夢見た自分じゃなくて、」
高層ビルが並ぶ早朝のオフィス街。吐く息は白く、コートの襟を立てて碧(あおい)は駅へ向かう。手にしたスマートフォンの画面に、「今日も無理せずに」と自分宛てのリマインダーが表示されていた。
数年前に夢見た自分は、こんなはずじゃなかった――そんな思いが、胸の奥にずっと刺さっている。
***
学生時代、碧はクリエイターになることが夢だった。大きな賞をもらったあの夏、周囲や家族からも「きっと大物になる!」と期待された。
でも、現実は厳しかった。自分の作品に自信が持てなくなり、就職活動でもうまくいかず、流れで都心の事務職に就いた。忙しいだけで、やりがいも情熱も感じられない毎日。
ふと、勤務先の休憩室でSNSを開くと、大学の同級生たちの活躍が並ぶ。「映画デビュー」「個展開催」「起業した」——それらに比べて、自分は小さくまとまったままだ。
「夢見た自分じゃなくて、現実を選んでしまった」
ため息混じりに自分を責めてしまう。
***
そんな中、ある晩。会社近くの小さなバーに同僚と立ち寄った帰り、碧は駅前で声をかけられる。
「……あれ、碧?」
振り向くと、そこに湊(みなと)がいた。大学時代のバンド仲間であり、かつて互いの夢を語り明かした友だった。
湊は今も、音楽活動を地道に続けているらしい。「今のオレはバイトのほうがメインだけどね」と笑う彼の肩越しに、ギターケースが見えた。
「久しぶりだな。元気だった?」
「うん……まあ、なんとか。」
駅前のベンチに並んで座り、いくつか当たり障りのない話をしたあと、ふと、湊がこぼす。
「オレさ、あの頃思い描いてた理想とぜんぜん違う。売れてるわけでもないし、親には未だに心配されて。だけど……今の自分も、そんなに嫌いじゃないんだ。」
碧はぎこちなく笑った。
「オレも最初は夢にこだわったけど、気付いたらそれを遠ざけて生きてる。夢を持った自分に、顔向けできないよ。」
湊は静かに頷く。
「でもさ、本当に“夢見た自分”になる必要はあるのかな。大切なのは“今の自分”の声なんじゃない?」
急に胸の奥が温かくなった。理想どおりじゃなくたって、誰かと気持ちを分かち合えるだけで救われていく。
***
それから、週末になると湊と会うようになった。ライブハウスの片隅、静かなカフェ、公園のベンチ。湊の歌声や言葉は、少しずつ碧の心を柔らかくしていった。
ある日、湊が言った。
「碧はさ、何かを諦めた人になんて見えない。むしろ、昔より優しくなった気がする。自分にきびしい分、人にも優しくできるようになったんだと思う。」
「そう、かな……」
「オレは、そんな碧が好きだ。」
湊の視線をまっすぐに受け止めて、碧は初めて本音を言えた。
「……オレも、湊といる自分は嫌いじゃない。」
夢に縛られ、過去に縛られていた自分が、そこでほんの少しだけ前を向いた気がした。
「夢見た自分じゃなくて、今の自分と、ここからもう一度進んでいきたい。」
湊がそっと碧の手を取る。それは、夢の続きを歩いてもいいんだと、教えてくれる力強さだった。
***
週明けの朝、碧は少し早起きして、久しぶりにノートパソコンを開いた。何気なくイラストを描いてみる。拙い線だが、心は不思議と軽い。
「夢見た自分じゃなくて、今の自分だから描けるものがきっとある。」
そう思えたのは、湊と出会い直したから。
新しい朝日がビルの隙間から差し込み、碧はゆっくりと、けれど確かな一歩を踏み出した。