俺、並木蒼太が高岸由美に出会ったのは、半年付き合った彼女と別れた翌週のことだった。
姉夫婦に連れて行ってもらって以来、1人でも飲みに来るようになったダイニングバーのカウンターで彼女はお酒を煽るように飲んでいた。
チラッと横目でその様子を見て、彼女も何かヤケ酒したいような出来事でもあったのだろうと思った。
モテる自覚のある俺は、女性に声をかけると面倒ごとに巻き込まれかねないので、もちろん声などかけない。
静かに1人でワインを飲んでいたのだが、この店のオーナーである洋一さんが彼女に話しかけ、そして俺に話を振ってきたのだ。
まさか話を振られるとは思っておらず、思わずビクッとしてしまった。
「推し?」
洋一さんから質問され、俺は首を傾げる。
「そう。こちらのお客さんと話してて、何か嫌なことあったのか聞いたら、推しがいるかって聞かれてさ」
洋一さんの視線に促され、俺は2つ隣の椅子に座る彼女に視線を向けると目があった。
二重の大きな目が印象的な愛嬌のある顔立ちの女性だった。
薄化粧で髪もシンプルなボブだから学生に見えなくもないが、仕事帰りと思われる服装だからおそらく歳は同じくらいか少し下だろう。
彼女は俺をまじましと観察するように見てくるが、不思議と嫌な気分にならない視線だった。
それにしても、嫌なことと推しがどう関係しているのか意味が分からない。
俺は率直にそう返すと、彼女は堰を切ったように話し始めた。
「え、聞いてくれますー!?あのですね、私には推しがいるんですけど、その話をするとみんな呆れちゃうんですよ。全然分かってくれなくって!今日も合コンだったんですけどね、私が推しの話したら、最初はニコニコしてたくせに最後には引かれちゃったんですよ!もう悲しくって!私はただ私の大好きな推しについて語りたいだけなのに!」
その勢いに若干圧倒される。
まさに「ぶちまける」という表現がぴったりな話っぷりだった。
さらに、洋一さんに推しについて聞かれると、今度は一転してうっとりとした表情を浮かべて滑らかに語り出す。
「聞いてくれます?私の推しはですね、私の会社の先輩なんです。女性の先輩で、それはそれはものすごく美しくて、もう女神なんですよ!しかも見た目の美しさだけじゃなくって、仕事もできるし、仕事への姿勢も真摯で素敵で!近くで一緒に仕事してるだけでも、もう本当に幸せなんですーー!目の保養で、心の栄養なんですーー!!」
すごいテンションで目をキラキラさせて話す彼女に、俺はどんどん興味が湧いてきた。
なんて変わった面白い子なんだろうと思ったのだ。
俺に対して全く媚びてこないのも良かった。
俺は彼女の語る推しについて興味のままに質問を重ねると、彼女は水を得た魚のごとく、ペラペラと流暢な話っぷりだ。
ついには、俺のことを「イケメンさん」と呼んだきた時には、思わず吹き出してしまった。
彼女の様子を見て、俺と同じように洋一さんも面白そうに笑っている。
洋一さんは俺と彼女にそれぞれの名前を紹介させると、テーブル席のお客さんに呼ばれて去って行った。
由美ちゃんとの会話が楽しかった俺は、そのあともそのまま話し続ける。
よくここに飲みに来るのかと聞かれ、飲みたい気分だったと曖昧に答えると、「私もぶっちゃけたんだから話してよ」と言われた。
いつもなら、それでもサラッと流すのだが、なぜかその時はそれもそうだなと納得し、彼女に振られて別れたことを漏らした。
もしかしたら俺も誰かに話したい気分だったのかもしれない。
あの由美ちゃんのアッパレな語りっぷりを聞いた後だと余計にだし、気分がまぎれたのでありがたかった。
あんなに推しに一生懸命になれるのは正直羨ましいと思うし、そんな情熱が俺にも欲しいと思ったと俺が溢すと、由美ちゃんは目を瞬き、嬉しそうな表情をした。
そして由美ちゃんは今度はその推しの人物像を語り出す。
その話を聞いてると、俺はなぜか自分の姉を思い出した。
姉を思い出すと自動的に振られた原因も芋づる式に脳裏に蘇り、「別れた原因が姉だった」と由美ちゃんにポロッと言ってしまった。
(今日の俺は口が軽すぎる‥‥。こんなこと人に言うつもりなんてなかったのにな。由美ちゃんの饒舌さにつられてるな)
案の定、由美ちゃんは俺が思わず溢した言葉を聞き留め、驚いた表情を浮かべている。
そしてどういうことかと問いかけてきた。
(もうこの際だからぶちまけてみるか。どうせ姉のことを知らない相手だし、お互い酔っ払ってるし、この子なら話を聞いてから言い寄ってくることもならないだろうし)
ある種開き直った俺は、普段は人に話さないことをぶっちゃける。
別れた彼女に「シスコンだからついていけない」と振られたこと、そして歴代の彼女にも同じ理由で振られることを。
俺自身はシスコンだなんて自覚がないだけに、なぜそう言われるのかすら分からないという不満まで述べた。
思い当たる節はないのかと聞かれ、俺はつい先日別れた彼女のことを思い出す。
彼女とは友達に誘われた合コンで出会って、そのあと告白されて付き合った。
俺は社会人になってから彼女がいなかったので、数年ぶりの彼女だった。
というのも、仕事が充実していたし特に欲しいと思わなかったのだ。
それに実を言うと、姉が心配で、姉が落ち着くまではいいかと思っていた部分もある。
2つ年上の姉は、高校3年間付き合った彼氏を、高校卒業間近で亡くした過去があり、それ以来不安定だったのだ。
一見普通なのだが、逃げるように途切れることなく男と付き合って、出会いと別れを繰り返していた。
それに姉は自分の気持ちを溜め込むタイプだから、俺が気にかけてやらないと壊れてしまいそうで心配だったのだ。
そんな姉にも転機が訪れ、半年前に今の旦那である亮祐さんにプロポーズされたのだ。
これで姉も落ち着くだろうとホッとして肩の荷がおりた俺は、そんな頃に告白してくれた子と付き合うことにしたのだった。
彼女のことは普通に可愛いなと思っていたし、好きだったと思うのだが、結局は以前の彼女と同じくシスコンを理由に振られた。
姉と電話したり、食事に行く頻度が多すぎるらしい。
姉と約束していた日に誘われたら、先の約束である姉を優先したところ不機嫌になられたこともあった。
これは一度姉に会わせたら面識ができるし納得してもらえるのではと思い、3人で会ったら、逆にそれ以来姉の話題を出すのを嫌がられるようになった。
最後に言われたのは、「お姉さんを大切にしすぎ」とか、「あんな綺麗なお姉さんと比べられてるようで嫌だ」というものだった。
そんな記憶を呼び起こしながら、由美ちゃんに思い当たりを話すと、彼女より姉を優先したことがシスコンと言われる原因じゃないかと言ってきた。
そして自分も、推しとの約束を友達より優先してブーブー言われたことがあると経験談を語り出す。
そんなに推しとの約束が大切なのかと聞いてみれば、胸を張って自信満々にこう言うのだ。
「もちろん!推しとの至福の時間を逃す私ではないのですよ!!」
これにはまた声を出して笑ってしまった。
本当にいちいち発言が面白い子である。
女の子と話していてこんなふうに屈託なく笑ったのはいつぶりだろうか。
だいたいの女の子が仲良くなると告白してくるから俺には女友達というものがいない。
最初から恋愛を見据えて話しかけてくる子ばかりで、駆け引きのような会話になることが多い。
だからこそ、こんな一切の駆け引きのない会話は新鮮で、何も考えずに話せて楽しかった。
(由美ちゃんは貴重な子だな。こんなふうに他愛もない話をしながらまた飲みたいな)
俺と由美ちゃんはその後は席を隣に移動して話し続けていたのだが、しばらくすると最初にお酒を煽っていたのが効いてきたのか、由美ちゃんはカウンターに突っ伏して眠ってしまった。
「あちゃ~。由美ちゃん寝ちゃったなぁ」
洋一さんがカウンターに戻ってくると由美ちゃんを見ながら俺に声をかけてくる。
「そうなんですよ。たぶんヤケ酒してたのが効いたんでしょうね」
「だろうなぁ。なんか最初に会った時の百合ちゃんを思い出すよ。百合ちゃんも亮祐が最初にここに連れて来た時、酔っ払ってカウンターで眠っちゃったんだよなぁ」
「姉がですか?初めて聞きました」
「百合ちゃん的には醜態だったらしく、秘密にしたそうだったしな」
「その秘密を俺に話しちゃていいんですか、洋一さん?」
「ははっ。まぁもう時効だろう。2人も結婚したことだしな」
洋一さんは全く悪びれることなくカラッと笑っている。
笑い終えると、今度は心配そうな視線を由美ちゃんに向けた。
「百合ちゃんの時は亮祐という連れがいたからいいけど、この子はどうすっかなぁ。1人だろ?」
「俺がタクシーで送って行きますよ。居合わせたのも何かの縁だろうし」
「頼めるか?蒼太くんなら大丈夫だと思うけど、送り狼にはなるなよ?」
「ははっ。大丈夫ですよ。ご安心ください」
そんな気はまったくもってない。
むしろこんなふうに話せる貴重な相手を、みすみす恋愛相手になんてしたくないと思った。
タクシーで由美ちゃんの家まで送っていくつもりだったのだが、結論から言うと俺は由美ちゃんを近くのラブホに連れて行くことになった。
なぜなら全く起きなかったのだ。
初対面の相手を前に、勝手に鞄を漁るのも気が引けた。
まぁ俺が手を出さなければ良いだけのことだしと軽く考え、手頃なところに入ったのだ。
ラブホのでっかいベッドの上に由美ちゃんを寝かせ、俺はシャワーを浴びる。
シャワーを浴びて戻ってきても由美ちゃんは全く目を覚ます気配はなかった。
俺も結構な量のお酒を飲んでいたから睡魔が襲ってきて、バスローブに身を包むと、広いベッドの中に潜り込む。
十分な広さがあるため、由美ちゃんに触れることもない。
(まぁ、ラブホに連れてきた理由や経緯は明日朝にでも説明すればいいか。それに由美ちゃんの連絡先も明日聞こう)
そう考えた俺は、そのまま睡魔に抗うことなく眠りについた。
そして翌朝に目を覚まして驚いた。
隣に寝ていたはずの由美ちゃんはいなくなっていて、もぬけのからだったのだ。
テーブルの上には1万円札だけが置いてあり、連絡先などは何も残してなかった。
つまり、俺は由美ちゃんの連絡先が分からないし、連絡を取ろうにも取れないわけだ。
ラブホに1人置き去りにされたのも初めてだった。
由美ちゃんが意外と冷静に立ち回ってあえて連絡先も何も残さずに立ち去ったのか、それともパニックで動転していたのかは分からないが、いずれにしても面白い行動をする子だなと、俺は小さく笑った。
由美という名前と、同じ会社の同性の先輩を推しとして崇めているということ以外、どこの誰か知らない相手だ。
だが、そんな由美ちゃんとは意外なところで、それからしばらくして再会することになるのだったーー。
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