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黄昏時、ネオン街の裏路地に、空間の歪みが生まれた。
しがないフリーの呪術師、火堂(かどう)ジンは、C級指定の異形型呪霊を追っていた。低級とはいえ、隠密性と再生能力に長けた厄介な相手だ。
「おいおい、路地裏かくれんぼはもう飽きたぜ」
ジンが軽口を叩きながら懐中電灯で暗がりを照らすと、コンクリートの壁がぬるりと歪み、皮膚のない肉塊のような呪霊が姿を現した。異形の口から、人間の赤ん坊の泣き声のような甲高い奇声が響く。
「ま、そろそろ終わりにするか」
ジンは、左手首に巻かれた古びた包帯を解き始めた。包帯の下からは、幼い頃に刻まれた、龍のような禍々しい刺青が露わになる。刺青が淡い青白い光を放ち始めると、ジンの纏う空気そのものが変わった。
呪霊が本能的な危険を感じ取り、逃げ出そうとコンクリートの壁に溶け込もうとする。しかし、もう遅い。
ジンは静かに、しかし断固とした声で、己の領域を宣言した。
「領域展開――『俺様の流ぎ』」
その瞬間、ジンの足元を中心に、透明なドーム状の帳(とばり)が展開された。一瞬で周囲の景色が塗り替わる。
ここはもう、先ほどの薄汚れた路地裏ではない。
彼らが立っていたのは、見渡す限り水墨画のようなモノクロームの世界だった。空間には水平垂直の概念がなく、無数の巨大な「筆跡」が空中を縦横無尽に走り、足場となっている。まるで、巨大な書家が気ままに筆を振るった直後の、未完成なキャンバスのようだ。
これが、ジンの生得領域――筆一本で森羅万象を塗り潰す「流ぎ(なぎ)」の世界。
「ようこそ、俺のキャンバスへ」
領域の必中効果が発動する。この空間では、ジンの「意志」がそのまま物理法則となる。
呪霊はパニックに陥り、空中を走る筆跡の足場を駆け巡り逃げようとするが、足がもつれる。領域の効果により、この空間内の重力と摩擦力は、ジンの思い通りに操作されていた。
「逃げ足だけは速いが、領域の中じゃその特性も無意味だな」
ジンは空中に浮かぶ巨大な筆跡の一つに飛び乗り、スケートのように滑走する。
「まずは筆一本、『破』」
ジンが指先で虚空に鋭い一閃を描くと、彼の意思が筆跡となって実体化し、逃げ惑う呪霊の胴体を両断した。
通常なら即死級の一撃だが、相手は再生能力を持つ異形型。切断面から肉芽が蠢き、瞬く間に元通りになる。
「しぶといな。なら、ちょっと色を加えてやる」
ジンは懐から墨壺を取り出し、指先に墨を少しだけ付ける。墨は触れた瞬間、エネルギー体として増幅され、指先から禍々しいオーラを放ち始めた。
「領域の真髄は、描いたものが**『現実』**になることだ」
ジンは呪霊に向かって跳躍し、空中で巨大な「火」という文字を筆で描くように振るった。
「『炎上』」
描かれたばかりの「火」の文字が、突如として現実の業火となり、呪霊を丸ごと包み込んだ。再生能力を持つ呪霊も、存在そのものを焼き尽くす純粋な呪力による炎には耐えられない。断末魔の叫びを上げながら、呪霊の体は黒い灰となって崩れ去っていった。
灰がモノクロの空間に舞い、やがて消滅するのを見届けたジンは、墨のついた指を軽く振って息を吐く。
「はい、おしまい」
ジンが領域を解除すると、景色は再びネオン輝く元の路地裏へと戻った。周囲には、戦闘の痕跡も、灰も何も残っていない。
すべては、彼の「領域展開『俺様の流ぎ』」というキャンバスの中だけで完結した出来事だった。ジンは残った墨を包帯で拭き取りながら、次の仕事場へと足早に消えていった。
仕事を終えたジンは、指定された喫茶店にいた。目の前には、白髪混じりの初老の男――彼の上層部のパイプ役である影山(かげやま)が、退屈そうにコーヒーを啜っている。
「ご苦労。C級異形、完全に祓えたな」
「まあな。毎度あり」
ジンが報酬の入った封筒をポケットにしまうと、影山は眼鏡の奥の鋭い目でジンを見た。
「火堂ジン。お前の『領域』、上層部が少しばかり興味を持っている」
「興味、ねえ……」ジンは鼻で笑った。「俺の領域は、ご存知の通り視覚的な情報操作と法則書き換えだ。派手さはないが、確実だろ」
「その『確実さ』が問題なんだ。祓った痕跡が全く残らない。完璧すぎる」影山は声を潜めた。「最近、お前の領域の『特性』に似た現象が、各地で報告されている。描かれたものが実体化する――まるで子供の落書きが現実になったような事案だ」
ジンの顔から笑みが消えた。
「それは俺じゃない。俺はフリーだ、縛られない」
「分かっている。だが、上層部は『共鳴』を疑っている。お前と同じか、あるいはそれ以上の『流ぎ』の使い手が現れた可能性がある」
影山は一枚の写真を取り出した。そこには、都心のビルの壁に描かれた巨大な「魚」の絵が写っていた。その絵はまるで生きているかのように躍動しており、目撃証言によれば、描画された直後に壁から飛び出し、空中を泳いで消えたという。
「これは……確かに俺の『流ぎ』に似てる」ジンは写真を見つめた。「だが、俺の領域はモノクロームで、俺の刺青の呪力でしか描けない。これは明らかに『色』があるし、呪力反応も薄い」
「だからこそ厄介だ。呪術師じゃない一般人が、偶発的に似たような術式を発現させた可能性が高い」
ジンは立ち上がり、会計を済ませた。
「俺は専門外だな。上層部でなんとかしてくれ」
「待て」影山は鋭く言った。「その『魚』の絵が描かれた現場付近で、お前の呪力が微かに感知されている」
ジンは影山を睨みつけた。「ふざけるな。その時間は俺は別の現場でC級を祓ってた。アリバイは完璧だ」
「それは承知している。だが、現場に残された微弱な呪力の『質』が、お前の刺青のそれと完全に一致したんだ」
二人の間に重苦しい沈黙が流れる。
「誰かが俺の『流ぎ』をコピーしたか、あるいは……」ジンは刺青の残る左腕を見つめた。「俺自身が関わっている、と?」
「お前はシロだと信じたい。だが、この奇妙な『共鳴現象』を止めるには、お前自身の力が必要になるかもしれない」
ジンは店のドアに手をかけた。「分かった。その『落書き』野郎、見つけてやるよ。俺の流儀を汚す奴は気に入らねえ」
彼はそう言い残し、夜の街へと消えていった。
ジンの「領域展開『俺様の流ぎ』」を模倣する謎の存在。それは偶然か、模倣犯か、あるいはジン自身も気づいていない、彼の術式の深淵に隠された副作用なのか。
物語は、ジンの知らない「もう一人の書家」を追う展開へと続いていく。