「⋯⋯顔の傷⋯申し訳ございませんでした」
時也の声は
静かだったが確かな思いやりを含んでいた。
目の前の青年──
ライエルの頬には
先ほど自身の拳で刻んでしまった痕が
生々しく残っている。
それを見つめる時也の眼差しは
痛みと責任の色に沈んでいた。
「何か、冷やす物をお持ちしましょう。
青龍、彼をお願いしますね」
「⋯⋯御意」
幼子の姿をした青龍は、静かに頷き
時也に向けて一礼する。
その視線は変わらず鋭かったが
どこかでライエルに対する評価を
改めようとしている気配が滲んでいた。
時也は立ち上がろうとしたその瞬間
背中を撫でていたソーレンの手に
そっと自分の手を重ねる。
軽く指先で触れ、視線を交わす──
それだけで、互いに言葉は要らなかった。
「⋯⋯おう」
ソーレンは頷くと
そのまま立ち上がり、時也の後を追った。
二人が部屋を出ると
青龍は既に一歩進んでいた。
用意していた銀のポットを手に取り
片膝をついてライエルに向き直る。
「紅茶をお入れしましょう。
砂糖は要りますか?」
その声音は、毅然としたままながら
どこか柔らかさを帯びていた。
言葉は変わらず敬語であったが
それは〝敵〟としてではなく
〝時也が許した者〟としての
扱いであることを示していた。
ライエルは
伏せたままの顔の影で
目を閉じるように小さく頷いた。
その肩は未だ震えていたが
先ほどよりも僅かに呼吸は落ち着いている。
時也はその様子を一瞥したのち
静かに扉を閉めた。
廊下に出ると
家の空気がまたいつもの
喫茶桜の静けさを取り戻しつつあるのが
分かる。
そのまま階段を下りると
下の踊り場に立っている人影が目に入った。
レイチェルだった。
黒髪ボブの頭を上に向けて
ティアナを胸に抱きながら
二階を不安そうに見上げていたその姿は
どこか怯えた子供のようで──
だが、その胸の内には
確かな緊張が漂っていた。
「あ、時也さん、ソーレン!
⋯⋯すごい音がしてたけど⋯⋯大丈夫?」
声に混じる心配は
抑えきれないものだった。
何が起きたか詳細は分からない。
だが、何か大事があったことは確かだと
彼女は感じ取っていた。
「⋯⋯おう。なんとか⋯⋯な」
ソーレンは言葉少なに呟くと
すれ違いざまに
レイチェルの頭をひと撫でする。
その手付きはぶっきらぼうながらも
明らかに優しさを込めていた。
レイチェルはぴくりと肩を揺らしながら
少しだけ微笑む。
それが、彼女なりの安堵の証だった。
「ご心配をお掛けしてしまい、すみません。
少し、皆で話しましょう」
そう告げた時也の声は
いつもの柔らかな調子を
取り戻しつつあった。
けれど
その奥にはまだ冷めぬ炎が
静かに燃えているのを
レイチェルは敏感に察した。
三人は連れ立ってリビングへと入り
テーブルを囲んで椅子に腰掛けた。
温かい明かりが灯るその空間には
夜の闇と混ざりながら
まだ語られていない真実の気配が
静かに満ちていた。
⸻
「彼についてなのですが──」
時也は湯気の立つ紅茶を手にしながら
ゆっくりと口を開いた。
その声は落ち着いていたが
決して軽く語る内容ではないことが
すぐに伝わってきた。
レイチェルが静かに身を乗り出し
ソーレンも腕を組んで耳を傾ける。
「⋯⋯彼には、ひとつの肉体に
今〝二つの魂〟が宿っているようです」
時也の視線は
テーブルの上の湯気に一瞬沈んだ。
けれど
すぐにいつものような丁寧で
分かりやすい語り口で続けられた。
「一つは、前世の魂──
〝ライエル〟と名乗る人物です。
記憶を司る魔女の一族で
転生を繰り返す魔女たちに
使命や本来の力を思い出させるために
生まれてきた存在です」
「⋯⋯転生した魔女を、導く存在⋯⋯」
レイチェルがぽつりと呟き
真剣な表情で頷いた。
「はい。そしてもう一つは、今世の魂──
〝アライン・ゼーリヒカイト〟
不完全な記憶を持ったまま転生し
その不安定さから
暴走的な行動に出てしまったようです。
⋯⋯アリアさんを
あそこまで凄惨な姿にしたのも
アラインの側の人格でした」
その瞬間、ソーレンの眉がぴくりと動いた。
拳を握る音はしなかったが
彼の全身から微かに熱が立つような
気配が漏れた。
「先ほど
彼の中でその二つの人格が入れ替わる瞬間を
僕は目の前で見ました。
アラインの時には
歪んだ笑みで挑発してきます。
まるで、痛みすら愉しむような⋯⋯
そんな人物です」
時也はそこで一度、短く息を吐いた。
そして
柔らかい調子を崩さぬまま、言葉を続ける。
「ですが、ライエルさんの人格は違います。
怯え、戸惑い、そして⋯⋯
自分の犯したことではないのに
深く謝罪をしていました。
今世の彼の記憶を見てしまっただけで
苦しみ続けているのです。
⋯⋯僕は、彼を
〝味方〟として扱おうと考えています」
「はっきりしねぇ話だな⋯⋯」
ソーレンが低く唸るように呟いた。
「⋯⋯えぇ、ですが、今の彼──
ライエルさんは我々に敵意を向けていない。
⋯⋯いえ、むしろ
その行いを深く悔いていました。
だからこそ、僕は彼に対して
〝罰〟より〝責任〟を与えたいと
思っています」
「責任⋯⋯」
レイチェルが小さく目を瞬かせる。
「彼が導くべき転生者たちは
今もまだ迷い、苦しんでいます。
もし、ライエルさん自身が
その役目を全うできるのなら⋯⋯
僕たちにとって
これほど心強いことはないのでは
ないでしょうか」
沈黙が、しばしリビングに落ちた。
その中で
時也の声だけが、灯のように暖かく
けれど決して消えない意志をもって
語られていた。
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