「とりあえず、もう遅いですし⋯⋯
続きはまた明日
アリアさんも交えてお話しましょう」
リビングの灯りの中で
時也は湯気の消えかけた紅茶を手に
静かに告げた。
その声音には
緊張を解こうとする穏やかさがあったが
どこかで力を使い果たした人間の
無理をした柔らかさでもあった。
「今夜は、念の為
僕と青龍とで彼を見張ります。
ですからお二人は──」
その言葉が最後まで届く前に
低く重い声がそれを遮った。
「いや、俺と青龍とで見張る」
ドン、と地に打ち込むような語気。
ソーレンは椅子の背から身を起こすと
時也を真っ直ぐに見据えて言い放った。
「さっきのお前を見てると、不安だしな。
俺の方が適任だ」
時也が何か言い返そうとした時には
すでにソーレンは立ち上がり
あの堂々とした歩幅で
靴音を鳴らしながら階段の方へと
向かい始めていた。
「それに、俺が居なくとも店は回るが⋯⋯
お前は居なきゃダメだろ?」
その背中越しに
軽く手を振りながらソーレンは言う。
「アリアと一緒に寝てろ。
⋯⋯お前がいねぇと
アイツもゆっくり眠れねぇだろ?」
言い終わる頃には
もう背中は階段の中腹にまで消えていた。
その様子を見送っていたレイチェルが
ふっと口元に笑みを浮かべながら
時也の方を向いた。
「うん、私もその方が良いと思うな?
時也さん、疲れきった顔してるし⋯⋯」
気遣いに満ちた声だったが
その言葉にこめられた真実は鋭かった。
時也の表情は
変わらない微笑を保っていた。
けれどその目元に刻まれた影
疲れに滲んだ頬の薄さ
それは──レイチェルの言う通りだった。
「すみません。
⋯⋯お二人には、感謝しきれませんね」
そう言って時也が浮かべた笑顔は
いつものように整っていたが
レイチェルにはそれが──
ひどく痛々しく映った。
その微笑みは
自分を保つために貼りつけた仮面で
〝ありがとう〟よりも〝ごめんなさい〟が
滲む笑顔だった。
「ほんと、素直に休めばいいのに⋯⋯」
小さく呟いたレイチェルの言葉は
優しい叱咤のように空気に溶けていった。
リビングの灯は柔らかく
それぞれの想いを
今はそっと包み込んでいた。
「アリアさん、早く良くなると良いね⋯⋯」
レイチェルの声は、微かに震えていた。
気丈な笑顔で取り繕ってはいるが
その目には確かに──大切な人の無事を願う
切なる祈りが宿っていた。
今の彼女には、それしか言葉にできなかった。
だが、そんな想いを
時也は静かに受け取った。
微笑む代わりに
そっとレイチェルの頭に手を添える。
優しく、迷いのない動作で
彼女の髪を一撫でしながら
温かく言葉を返す。
「レイチェルさんは⋯⋯お優しいですね」
その声には、労いと感謝
そしてどこか
癒されるような温もりがあった。
「では、お二人の言葉に甘えて
僕はアリアさんの傍に参ります。
レイチェルさんも
ゆっくりお休みください」
小さく一礼をしてから
時也は緩やかな足取りで階段を登っていく。
その背を見送りながら
レイチェルは胸に手を当てて
そっと目を伏せた。
⸻
寝室の扉を開けると
そこはまるで時間が止まったような
静けさに包まれていた。
特注の防火布に包まれたベッドの上。
そこに横たわるアリアの姿は
少し前とは違っていた。
血に染まり
熱に焼かれた姿はもうなかった。
繋ぎ目の痕が残る肌はまだ痛々しいものの
その顔には
ほとんど傷も汚れも見られず──
再生の果てに
彼女の美しさが、確かに戻っていた。
彼女は今、深い眠りの中で
静かに呼吸を繰り返している。
時也は静かに近付き
ベッドサイドに膝をついた。
そして
震える手でそっと彼女の頬に触れる。
⋯⋯熱くない。
かつて触れれば焼かれたその肌は
今や人肌の温もりを帯びていた。
「⋯⋯アリアさん⋯⋯すみませんでした」
ぽつりと漏らしたその言葉は
自責と安堵の混じるものだった。
時也はそのまま
額をそっとアリアの額へと寄せた。
温かい──
その感触だけで、胸が詰まりそうになる。
けれどその瞬間──
(⋯⋯⋯お前、泣いているのか?)
不意に、心の奥に届いたアリアの声。
驚きとともに目を開けると、そこには──
深紅の瞳があった。
視界いっぱいに広がる、アリアの瞳。
すぐそこに
微かに濡れた時也の睫毛が揺れていた。
「⋯⋯アリアさんが、無事で良かったと⋯⋯
嬉し泣きですよ」
努めて穏やかな声で
時也は笑みを浮かべた。
それは
崩れそうな心をどうにか繋ぎ留めるための
必死の微笑だった。
(私は⋯⋯
お前が無事で、良かったよ⋯⋯時也)
アリアの声は、心の中で優しく響いた。
(お前は死の経験が少ない⋯⋯
お前の心を壊されるのではと
⋯⋯怖かった⋯⋯)
あの凄惨な仕打ちを受けながら──
なお
最初に語られるのは自分への心配だった。
アリアは、自分の痛みではなく
自分を見て
壊れてしまうかもしれない
〝彼〟の心を案じていたのだ。
その想いに触れた時也の視界は
すぐに滲んでいった。
溢れる涙を堪えることは
もうできなかった。
「⋯⋯僕も⋯⋯貴女を失うのが⋯⋯
何よりも恐ろしいんです」
時也は
崩れるようにアリアの胸元に身を預け
その胸に顔を埋めた。
彼女の鼓動が、確かにそこにあった。
アリアは無言のまま
彼の黒褐色の髪をそっと撫でた。
いつものように
感情を言葉にすることはない。
けれどその指先には
確かな愛情と慰めが込められていた。
「もう⋯⋯居なくなったり⋯⋯
しないでください⋯⋯
自分を犠牲になど⋯⋯
不死とはいえ、しないでください⋯⋯っ
お願いです⋯⋯アリアさん」
泣きながら、語りながら
彼はただ──
その温もりを確かめ続けた。
最も愛する者の無事に
ようやく触れられた夜。
涙と再会の中で
彼の心は少しずつ
ゆっくりと解けていった。
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