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第41話:言えなかった真実
皇后としての日々は、彩が思っていた以上に慌ただしかった。
作法の稽古、公務の見学、そしてこれまでの功績を後世に残すためという名目で命じられた、疫病騒動の記録整理。玲様がいらしたら、きっとこんな仕事も事務的に、あっという間に片付けてしまわれたのでしょうね。そう思うと、彩の胸の奥に、小さな寂しさが疼いた。
与えられた一室で、彩は文机に向かい、積み上げられた書類の山と格闘していた。窓から差し込む午後の光が、紙の束を柔らかく照らしている。数字を数えるのは、あまり得意な方ではない。何度も算盤の玉を弾き直しては、指先に墨をつけながら、彩は一枚ずつ丁寧に目を通していった。
手にしていたのは、教会が配布した「真の治療薬」の流通記録だった。配布先、数量、日付。単調な作業だったが、彩はこれを、自分に与えられた新しい役目として、真面目に取り組んでいた。
ある一枚の書類に目を留めた瞬間、彩の手が止まる。
「……あら?」
配布記録の最初の日付。それは、王都の広場に「欠陥」を告げる高札が掲げられた、あの日よりも随分と前だった。それどころか、玲様が囚われた日よりも早い。
何かの間違いだろうと、彩は思った。日付を読み違えたのかもしれない。そう考えて、別の書類を引っ張り出し、照らし合わせてみる。だが、何度確認しても、同じ結果だった。高札が立てられたのは確かこの日付のはず。それなのに、こちらの配布記録では、それより三日も前から、もう教会の薬が動いていることになっている。
まさか、そんな。
彩は、自分の記憶違いかもしれないと思い直し、もう一度、他の帳簿と照らし合わせてみた。それでも、結果は変わらなかった。欠陥が判明する前から、もう「真の治療薬」の用意ができていた、そんなこと、あり得るのだろうか。
書類を手にしたまま、彩はしばらくの間、動けずにいた。どなたかに、確かめていただいた方がいいかもしれない。
○
神殿の奥、いつもと変わらぬ書棚の匂いが漂う執務室で、大神官は帳簿の整理に没頭していた。彩が訪ねると、彼は穏やかな笑みで振り返る。
「聖女様……いえ、皇后陛下。どうかなさいましたか」
「大神官様、少しよろしいでしょうか。実は、疫病騒動の記録を整理していて、気になることがございまして」
彩は、手にした書類を差し出しながら、日付の食い違いについて説明した。話すうちに、大神官の顔色が、みるみる曇っていくのが分かる。
「……その、記録の件でしたら」
大神官は、言葉を選ぶように視線を泳がせた。
「教会としても、事態の急変に備えて、あらかじめ一定の備蓄を用意していたのです。決して、不自然なことではございません」
「備蓄、ですか。……でも、それにしては、配布の規模が」
「……皇后陛下。この件については、あまり深く詮索なさらない方がよろしいかと存じます」
その一言に、彩は思わず息を呑んだ。大神官の声には、これまで聞いたことのない、澱んだ響きがあった。誠実で、いつも民のことを第一に考えているはずのこの方が、これほどまでに動揺を見せることなど、これまで一度もなかったのに。
「大神官様……?」
「……いえ、何でもございません。ただ、この一件は既に、宰相様のご采配で片がついたこと。今更蒸し返しても、混乱を招くだけかと」
「宰相様の、ご采配……」
彩がその言葉を繰り返すと、大神官は、しまったというように口をつぐんだ。
「……失礼。今のは、忘れてください」
そう言うと、大神官はそそくさと帳簿へと視線を戻し、それ以上の会話を避けるような素振りを見せる。何か、おかしい。大神官様は、清廉な方のはず。それなのに、今のあの様子は。
彩の胸の中で、先ほどよりも大きな違和感が、静かに広がっていった。
大神官の反応は、彩の不安を解消するどころか、かえって深めてしまった。それでも彩は、この違和感を自分一人の胸に留めておくべきではないと、自らを奮い立たせた。伝えるべき相手は、一人しかいない。焔だ。
公務の合間を縫って、彩は謁見の間へと向かった。廊下を歩きながら、何度も頭の中で言葉を組み立て直す。どう切り出せば、大袈裟に聞こえずに済むだろうか。どう伝えれば、陛下の心を無駄に乱さずに済むだろうか。手にした書類を、彩は胸に抱くようにして握りしめていた。
扉の前で、彩は一度、深く息を吸い込んだ。これまで幾度となく、この扉の向こうで焔と言葉を交わしてきた。だが今日ほど、その一歩を踏み出すのに勇気が要ったことはなかった。
扉が開かれ、焔の姿が視界に入った瞬間、彩の決意は、静かに揺らぎ始めた。
書類に目を通す焔の視線は、どこか虚ろだった。以前の陛下なら、たとえ不機嫌であっても、そこには確かな覇気があった。今、目の前にいるこの人からは、その覇気が、すっかり失われているように見える。頬はいくらか痩せ、筆を持つ指先にも、以前ほどの力がない。
「……何の用だ、彩」
その声にも、いつものような鋭さはなく、ただ淡々としているだけだった。
「あ、いえ、その……陛下、少し伺いたいことが」
言いかけて、彩は一度言葉を切った。本当に、今、この方に伝えていいものか。ただでさえ、お疲れのご様子なのに。自分の、ただの思い過ごしかもしれないことで、これ以上、陛下のお心を煩わせてしまってよいものか。
「……何だ。言いたいことがあるなら、さっさと言え」
焔の声には、苛立ちというより、億劫さが漏れていた。
「……あの」
彩は、もう一度、勇気を振り絞ろうとした。教会の記録に見つけた日付の食い違い。大神官の不自然な態度。それら全てを、言葉にしようとする。
「教会の治療薬について、少し、気になる点がございまして……」
焔が、わずかに視線を上げる。だがその目には、興味というより、この会話を早く終わらせたいという倦怠だけが滲んでいるように、彩には見えた。
「……教会の薬が、どうかしたか」
彩は、口を開きかけた。だが、その瞬間、脳裏に浮かんだのは、養父・玄安の穏やかな微笑みだった。
――よく話してくれましたね。彩は良い子です。
あの言葉と共に、彩の力を高めてくれた、あの日の温かさ。幼い頃、右も左も分からない孤児だった自分を拾い上げ、生きる意味と使命を与えてくれたのは、他でもない父上だった。迷った時はいつも、あの方の教えを信じてきた。それが、これまでの彩の全てだった。
そのおかげで、確かに奇病は収まり、瀕死だった焔も助けることができた。
ーー父上は、常に正しかった。
その父上が、まさか、人々を騙すような真似をするはずがない。きっと、何か事情がある。きっと、自分が知らないだけで、正当な理由があるのだ。
そう自分に言い聞かせた瞬間、彩の中で、固まりかけていた疑念が、すうっと溶けて消えていった。同時に、これ以上この話を続けることへの、漠然とした恐れのようなものも、胸の中に広がっていく。もし本当に、何か良くないことが明らかになってしまったらーー、しかしその先を、彩は考えることをしなかった。今は、平和なのだ。平和なのだから。それでいいのだ。
彩は、口元まで出かかっていた言葉を、静かに飲み込んだ。
「……いえ、何でもありません」
「……そうか」
焔は、それ以上何も追及しなかった。彼にはもう、彩の些細な変化を気に留める余裕すら、残されていないようだった。
「お忙しいところ、お邪魔いたしました。……失礼いたします」
彩は一礼すると、謁見の間を後にした。
○
夕刻。王城内に設けられた、玄安の執務室。彩が訪れると、彼はいつも通り、穏やかな笑みで彼女を迎え入れた。
「彩。……何やら、浮かない顔をしていますね」
「……父上」
彩は、何も語らないまま、ただ玄安の顔を見つめた。今日一日で見聞きした全てを、この場で打ち明けてしまいたい衝動が、一瞬だけ喉元までせり上がる。だが、それを口にする勇気は、もう残っていなかった。
「疲れているのでしょう。皇后としての務めは、思った以上に大変なはずです」
玄安は、彩の頭に、そっと手を置いた。皺の刻まれた掌の、思いのほか柔らかな重み。
「大丈夫。あなたは、よくやっています」
その言葉だけで、彩の胸の中に渦巻いていた不安は、まるで魔法のように、静かに解けていった。
「……はい、父上」
彩は、安堵の笑みを浮かべる。その笑顔の奥で、彩は確信していた。
これが、正しかったのだと。
コメント
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ああ、このもどかしさ……ッ。彩が教会の記録で見つけた日付の矛盾、大神官のごまかし、「まだ何かある」って読者にしかわかってる感覚がすごく辛い。一番苦しいのは、最後に玄安の「大丈夫」で全てを飲み込んじゃうとこだよ。彩は「正しかったのだ」と思いたいんだろうけど、それが逆に不気味で……。続きでこの違和感がどう爆発するのか、めっちゃ気になる🔥