おかしい。
『…遅くない?』
イザナさんが帰ってこない。
正確な時間は分からないが私が起きてから数時間以上は経っているはず。外だって恐らくもう真夜中。
いつもならこのぐらいの時間になると開くはずの扉がまるで何かで塗り込めたように微動だにしない。
『…どうしたんだろ』
重く黒ずんだ不安が胸の奥でじっと佇んで片付かない。
胸にこみ上げる重苦しい気持ちを紛らわすように真っ暗な部屋を行ったり来たりする。
何かあったのかな、もしかして事故?いやあの人ならもし事故に遭いそうになっても相手の車背負い投げしそうだし大丈夫か…(偏見)
口を真一文字にして必死に考え込む。不気味なほどに静まりかえったこの部屋の中で私の頭が回転している音が聞こえそうなほどだ。
だけど私の中のイザナさんのイメージが最悪過ぎていくら経ってもまともな考えが纏まらない。だって仕方ない、仮にもあの人は誘拐犯なのだから。
いつも凍てついたように静かな空間が何故か今日だけ一層静かに感じる。微かに聞こえる自分の心臓の音ですら騒がしく聞こえてしまうほどに。
『…ふぅ』
自分を落ち着かせるように一度大きく息を吐く。それだけでは不安は消せ出せなかったがいくらか冷静さを取り戻せた。
彼だって忙しい日くらいあるはずだ。いずれ待っていれば帰ってくるだろう。息を吐き終えた後ようやくそう気づいた。
『…あれ、私…なんで…』
なんでこんなにも彼の心配をしているのだろう。ふとその考えが稲妻のように心を鋭く貫く。
彼は誘拐犯。私をここに閉じ込めている人。
前だってそうだ。せっかく玄関まで行けたのだ。あのまま逃げればよかったのに。
なんで?なんで私はここまで彼に固執するの。これじゃあまるで──
思考がぐるぐる目まぐるしく回り、次から次へと考えが浮上する。
現れては曖昧さを残して消える。なんで、なんで?ともう1人の自分が胸の内で訪ねてくる。
『……分からないよ』
そこまで呟き、「あ、“同じ”だ」とハッとしながらあの日を思い出す。
イザナさんに好き?と問われた、あの日と同じ気持ち。あの時もこのような“分からない”に囚われていた。いやそれよりもずっと前からこの曖昧さに囚われていたような気もする。
冬の痛いほどの冷気が体だけじゃなくて心まで冷たくしていく。
『…ぁ』
そういえば“あの日”も寒い季節だったような気がする。寒さから守るように誰かが抱きしめてくれた。たくさん楽しい話をしてくれた。黒い傷を癒してくれた。
優しくいつでも守ってくれた。
─「約束な」
頭の中で何か激しくぶつかり合う音がした。パズルのピースの様な記憶が頭の中でバラバラになりながら再生される。
─「好きだよ」
千切れた記憶の欠片で笑う“アノ子”とイザナさんが重なる。記憶の奥底に埋もれていた名前が涙と共に溢れ出てきそうになる。
『っ!』
頭が痛い、目が熱い、心が疼く。
せっかく固く蓋をして守ってきたのに。溶けて溢れ出ないように冷凍保存していたのに。
ジクジクと痛む頭を両手で庇うように抱え崩れ落ちるように俯く。
『…やめてよ』
酷く掠れた声が自分の口から零れた。
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