週半ばの水曜日。
園香は朝の六時に起床して身支度をし、朝食準備に取り掛かる。
「おはよう」
しばらくすると瑞記が起きて来た。昨夜も深夜帰宅だったようで眠そうだ。
彼はあくびを噛み殺しながらダイニングテーブルの椅子を引く。席につくと当たり前のように園香がつくった食事を口にしはじめた。
美味しいともまずいとも反応はない。ひとりで難しい顔をしたり、機嫌良さそうに口角を上げたりと、どうやら自分の世界に浸っている様子。
そんな彼が突然思い出したように顔を上げて園香を見た。
「今日なんだけど、母さんが七時にいつもの店を予約してるから手土産は日持ちするものにして」
「いつもの店って?」
「は? 何言ってるんだよ……」
園香の言葉に瑞記が面倒そうに眉を顰める。
「ああ、覚えてないんだったな……銀座の木蓮っていう店だよ。有名だから調べればすぐに分かる」
「分かった。銀座に七時ならここを六時前に出た方がいいね。瑞記の予定は?」
「俺は直接向かうから、現地で落ち合おう。あ、もう時間がないな」
瑞記は時計をちらりと見ると慌てた様子で席を立ち、バスルームに向かう。
園香は溜息を漏らしながら、テーブルの上にそのままになっている汚れた食器を片付けた。
記憶を失い義父母の顔すら覚えていない妻に、何の気遣いもない夫に失望するということはもうない。
予想通りだと思うだけになっている。
瑞記には、離婚意外はもう何も望んでいないからだ。
(強いて言うなら早く出かけて欲しいくらいかな)
こんな冷めきった夫婦を義父母が見たらどう思うのだろう。
(私と瑞記の家族との付き合いはあまりないみたいだけど)
園香が事故で大怪我をしても見舞にすら来ないくらいだ。
せめて険悪な空気にならないことを祈ろう。
園香が家事をこなしていると、瑞記が慌ただしく家を飛び出して行った。
園香は掃除機を片付け、リビングのソファに腰を下ろす。
瑞記の前では出勤日のように振舞っていたけれど、実は今日は休日だ。
しばらくは何もせずに、瑞記が忘れ物でもして戻って来ないか様子を窺う。
もう大丈夫だと確信できると立ち上がり、瑞記の部屋に向かった。
記憶を失ってからの園香は彼の部屋に入ったことがない。
瑞記は園香が立ち入るのを嫌がっているようで、掃除は不要だから自分の留守中には絶対に入らないようにと強く言っていたからで、せいぜいドアが開いたタイミングでちらりと中の様子を見たことがあるくらいだ。
(でもそんな言いつけを、律儀に守る必要はないよね)
今日は彼の私室を探り、何かないか確認するつもりでいる。
プライバシーの侵害になるが、瑞記と希咲の関係を調べる為は彼についてもっと知る必要があるからだ。
閉じたドアに触れるのに少しだけ躊躇いを覚えながらも、そっとドアを引く。
瑞記の部屋は六畳の洋室だ。奥行のある長方形だが、四方の壁は窓と出入口とクローゼットの戸が有る為、意外と家具の配置が難しそうだ。
瑞記は奥のコーナーにL字型のデスクを配置していた。大き目の机で、パソコンとモニター二台、プリンターが置いてある。自宅でも仕事が出来るようにしてあるようだ。
(その割には家に居つかないけど)
他はシングルベッドとラックが二台。シンプルな部屋だ。
園香はざっと室内を見回してから机に近付いた。ファイルと資料が乱雑に置いてあるが、これといって目を引くものはなかった。
念の為クリアファイルの中身も確認してみるが、全て仕事関係だった。
家に寄り着かず何をしているのか分からないが、仕事はきちんとこなしているようだった。
(あとはパソコンか……中を見てみたいけど)
電源を入れてみたが、予想通りパスワード入力で阻まれた。
(なんとかしてパスワードを入手しなくちゃ)
よい方法はないか考える一方で、こそこそ家探しをする自分が急に情けなくなってくる。
それでもなんとか気を取り直してラックやベッドの下などの確認を続けるも、不倫を仄めかすものは何もない。
落胆しながら最後にクローゼットの扉を開いた。
すっきりした部屋の印象とがらりと変わり、物が適当に詰め込まれていた。
しっかり元に戻さないといけないので、気をつかいながら何があるのかチェックしていく。
「……あ、これって」
園香は、クローゼットの隅に隠すようにしてあったリーフレットに目を留めた。
A4を三つ折りにしてあるそれを手に取る。
「旅館の案内?」
呟きながら広げてみた。緑の樹々が広がる中に赴きある日本家屋が佇んでいる写真からはじまり、客室や料理の例が続いている。
ぱっと見た感じだけでも高級旅館だと分かる。
瑞記はこの旅館に泊ったのだろうか。
「全室離れで露天風呂付か……」
仕事で使うには無駄に豪華すぎる。
(もし仕事だとしても、名木沢さんと一緒だったんでしょうね)
この離れにふたりで泊っていた証拠があれば、仕事と言い逃れするのは難しそうだ。
とはいえあくまで想像だ。リーフレットがあるだけでは実際泊った証拠にはならない。
他に何かないかと捜していると封筒が見つかった。
封はされてなく中には、リーフレットと同じ旅館名が記載された領収書が入っていた。内容を確認する。
【撫子、一泊二名 十二万五千円】
リーフレットに記載してある宿泊料よりも高額で、園香は僅かに目を瞠る。
(日付は?……六月三十日?)
園香の仕事の件で激しく言い争ってすぐの頃だ。
(怒って出て行ったまま帰らないと思ったら、旅行に行っていたなんてね)
他に気になるものは見当たらないのを確認してから瑞記の部屋を出る。
自室で問題の旅館を検索してみると、有名な宿のようですぐに見つけられた。
領収書に記載されていた“撫子”は客室名のようだ。
セミスイートで、写真によると樹々に囲まれた隠家のような離れに、ふたりで入っても余裕がある大きな露天風呂がついている。日常から離れた時間を過ごすのにぴったりな環境だ。
園香は無意識に眉間にシワを寄せる。
(どう見ても同僚と過ごす部屋じゃないでしょ)
希咲との不倫の可能性が増してきた。
(私には文句ばかり言って、自分は恋人と贅沢に楽しんでいたってこと?)
今更嫉妬などしないが、怒りは湧いて来る。
(でも多分これだけじゃ駄目だよね)
宿泊の領収書を見つけたものの、離婚裁判になったときに使えるような、客観的に見て判断出来る決定的な証拠が見当たらないのだ。
園香は深いため息を吐いた。
人の部屋に無断に入りこそこそ探し物をする行為は神経をすり減らす。自覚しているよりも緊張し肩に力が入っていたようで、ぐったりした気分だった。
ソファに座り少し休んでから、スマホで今夜の義両親との会食の場である木蓮について検索をはじめた。
瑞記が言った通り有名な店のようですぐに見つかった。所謂高級料亭のようだ。
それなりの恰好をして行った方がいいだろう。
どこかで手土産を買わなくてはならながい、適当に選んだ裸瑞記がうるさく言いそうだ。彼が満足しそうな高級贈答品を百貨店で買わなくては。
面倒だと感じるが、一方で瑞記の家族に興味がある。
彼が園香以外の家族に対してどんな態度をとるのか。
会食中に油断をした瑞記が、ついうっかり普段園香に隠している何かを暴露したら更にいいのだけれど。
(……まあ、その可能性は低いかな)
瑞記だってかなり警戒しているだろうから。そもそも理性を失くすまで飲んだりしなそうだ。
園香が木蓮に着いたのは午後七時五分前。
わざとぎりぎりになるように調整した。
と言うのも移動中に瑞記からメッセージが入り、その内容が思わず眉をひそめてしまうものだったからだ。
【言い忘れていたけど、両親が心配しないように、園香の記憶喪失は重大なものじゃないと話してある。少し物忘れがある程度の認識でいるからそのつもりで】
あまりに勝手な話である。
(だから義家族の人たちお見舞いに来ないどころか、様子を窺う連絡すらなかったんだ)
それにしても、一年丸ごと記憶がない妻の状態を“重大じゃない”と言ってしまえる瑞紀の感性が理解不能だ。
だいだいなぜ隠す必要があるのだろうか。
訳が分からないが、園香ひとりで義両親に対峙するのは無理だろうと判断し、ぎりぎりに到着することで瑞記が先に店に到着している状況をつくろうとした。
(瑞紀はもう中に入ったよね……)
今の園香にとっては初対面の義家族。もし普通の夫婦だったら、心細く夫に頼りたくなる状況だが、瑞紀に借りをつくるのはごめんだ。
園香はひとり緊張しながら店に入った。
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