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葬儀から、数週間が経った。
雨の季節は過ぎ、街には蝉の声が鳴り響き始めていた。
元貴は、音楽機材の並ぶ自室で、静かにPCの前に座っていた。
画面には“umbrella_demo_final.wav”と名前のついたファイル。
それを再生しては停止し、また再生しては止めている。
心のどこかに、まだ決めきれない気持ちがあった。
“これは、俺の大切な記憶だ。だから、本当は世に出したくない”
“でも、タケさんが最後まで聴いてくれてた。あの人の傘になれた曲なんだ”
その狭間で、ずっと揺れていた。
⸻
メンバーとのスタジオ練習の帰り道。
ふと、涼ちゃんが口を開いた。
「ねえ、umbrellaって、もう正式に録るの?」
元貴は、無言でうなずく。
「タケさんが、あんなに好きだった曲だもんね」
滉斗も、歩きながらポケットに手を突っ込んだまま、ぽつりと言った。
「俺、あの葬儀で初めて“歌が祈りになる”って意味がわかった気がした。
あの時の“umbrella”、すごく綺麗だったよ。……すごく、あったかかった」
その言葉が、元貴の胸に深く刺さった。
自分にとっての“記憶の曲”が、誰かにとって“祈りの曲”になった――その事実に、やっと少しだけ向き合える気がした。
「じゃあ…ちゃんと録ろうか」
元貴は、顔を上げて言った。
「“あの人”に聴いてもらえるように、もっと綺麗に、もっと強く。
しまっておきたいって思ったけど――もう、一緒に歌ってほしい」
⸻
その日から、スタジオでのレコーディングが始まった。
普段のようにワイワイとした雰囲気ではなく、3人とも、どこか神妙な面持ちだった。
ピアノの音、ストリングス、シンプルなビート。
音のひとつひとつを、まるで“誰か”に語りかけるように丁寧に積み重ねていく。
ボーカル録りのブースで、元貴はイヤホンから流れるガイド音に合わせ、そっと目を閉じてマイクに向かう。
「君が笑えるならば側にいよう
僕が傘になる 音になって 会いに行くから」
その瞬間、涙が込み上げた。
何度も歌ってきたはずのフレーズなのに、この日の「umbrella」は、特別だった。
まるであの日の葬儀場にいた空気が、マイク越しに蘇ってくるようだった。
“君に届くように”
そんな祈りを乗せて、何度も歌った。
⸻
完成した「umbrella」は、シングル『サママ・フェスティバル!』のカップリングとして、世に送り出されることになった。
メインの表題曲が、真夏の熱気とフェスの開放感を歌った陽の歌だとすれば、
「umbrella」は、その陰に優しく差し込む雨音のような、深くて静かな一曲になった。
リリース当時、ファンの間では「どうしてカップリングにこんな名曲が…」「一番泣ける」とささやかれた。
だけど元貴自身は、表には出さなかった。
“語らなくても、きっと届く”。そう信じていた。
その後、幾度もライブツアーがあっても、「umbrella」は演奏されることがなかった。
それは、やはり彼にとって「大切すぎる曲」だったからだ。
しまっておきたかった。
まだ心の奥に、静かに置いておきたかった。
けれど――
それから数年。
節目の年が近づいていた。
10年という長い年月。
その中で、メンバーとの関係も、音楽との距離も、変化していった。
そしてある日、滉斗がふと口にした言葉。
「元貴。今度のAtlantisでumbrellaやろうよ」
その言葉に、元貴は一瞬だけ黙って、それから――ゆっくりと、うなずいた。
「うん。……今なら、歌えるかも」