テラーノベル
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「あー……」
畳の上に大の字で寝転がりながら、俺は天井を見上げて声を漏らした。
大学二年生の夏。日付も変わった深夜零時過ぎのこと。
俺は、生命の危機を感じていた。
「はぁー……。どうしよ」
動いていないはずなのに、じっとりと汗が噴き出してくる。
じんわりと噴き出した額の汗を拭い、部屋の壁際へと設置されたソイツへと目を向けた。
確実に俺より年上の、日に焼けた黄白色の肌を持つこの夏の頼れるナイスガイ――になる予定だったもの。
俺のこの夏の生命線であった冷暖房付きエアコン。
築50年を超えるボロアパートの一室、六畳一間の畳部屋を借りた時に一緒についてきた同居人だ。
製造年月日を見ると一九九〇年。そんな同居人を、俺は連日容赦なく働かせた。老骨に鞭を打たせていたわけだ。
そして今日の昼間、同居人は静かに動きを止めた。
「どうして、俺を置いて行くんだよッ……」
享年三〇歳の大往生である。
同居人を亡くした俺は、徐々に蒸し暑くなる室内温度に根負けして窓を開け――少しでも風の流れを取り入れてから大家へと連絡をした。
けれど、大家からの返事はあっさりとしたもので「ああ、そうですか。まあ、あの子も年ですからね」の言葉のみ。
結局、新しいエアコンを用意してもらえる望みはなかった。もともと前の住人の残置物で、「壊れても保証できない」と契約時に念を押されていたのだ。家賃が安い理由はそこにあったわけで、文句の言いようもない。
そうして、新しい同居人を迎え入れる交渉は失敗に終わり、俺はそれ以来ずっと、畳の上で体力の消耗を防ぐべくなるべく動かないようにしている、というわけである。
とは言え、いつまでもこうしているわけにはいかない。
熱中症とならないよう水だけは飲んでいたけれど、さすがに昼間から何も食べていないから空腹だ。
深夜となって、気温もだいぶ落ち着いてきた。外に出るなら今だろう。
「コンビニ、行くか」
のっそりと起き上がり、机の上に置かれた財布をのろのろと開いた。中身を確認する。すると柴三郎が一人、俺を申し訳なさそうに見つめ返してきた。
「……そうか。お前も一人、か」
言って、俺は寂しく笑みを口元に浮かべて財布を閉じた。
世間一般で言えば、今が一番楽しい時期だろう。
なのに、何が悲しくて蒸し風呂となった部屋で過ごさなければならないのか。同期の奴らは今頃、彼女や女友達と別の意味で熱い夜を過ごしているというのに!
……考えるだけでも泣きそうだ。
額を伝う汗が頬まで流れ落ちていく。
カーテンが揺れて、夜風が俺の頬を優しく撫でていった。
そんなはずはないのに『元気出せよ』と言われたような気がする。
「にしても、なんで……こんなに金がないんだろ」
ああ、そうだった。思えばここ数週間、ずっと飲み歩いていたんだっけ。
夜の繁華街に足を運ぶたび、財布の中で身を寄せ合っていた栄一たちは愛想を尽かしたように出て行ってしまっていた。そうして気がつけば、柴三郎だけが財布に残されている。
典型的なダメ大学生の姿だった。
俺を慰めていた夜風も『自業自得じゃねえか』とばかりに部屋から出て行ってしまう。
代わりにやってきた熱帯夜の湿度が、俺を馬鹿にしているような気がしてきた。
「コンビニ行くの、やめとくか」
誰にでもなく呟き、俺は再び畳の上に寝転がった。
もう寝てしまおうか、と思ったが眠気は全くと言っていいほどやってこない。
連日の夜遊びの影響で、完全に昼夜逆転してしまっているのだ。
「暇だな」
ゴロゴロと畳の上を転がり、投げ出されていたスマホを手に取ると俺はその画面を確認する。
「ん?」
すると、そのメッセージアイコンが目に入った。
「……予約されたトワイライト・ワールドが利用可能になりました?」
なんだっけ、これ。
「ああ、前に事前登録してたやつか」
あまりにも暇すぎて、以前ネットを巡回していた時に見つけたMMORPGだ。『リアル×レベル&スキル制』とでっかく書かれた広告の謳い文句に惹かれて事前登録していたものだった。
「どれどれ……。ってダウンロードに一時間!? なげぇー……」
ゲーム画面をタップし、そこに表示された数字に言葉を失う。
最近では発達したネット環境のおかげか、ダウンロードに一時間も掛かるゲームはあまり見かけない。どんなにデータ容量が大きくても、大抵は三十分以内に終わるからだ。
それだけ、リアルな映像だということだろうか。
「いいね。楽しみだ」
俺は笑って、わくわくとダウンロード画面を見つめた。
ダウンロード画面はどこかの世界の映像だった。
どこまでも広がる草原と、しらす雲が広がる青空。ただそれだけの映像なのに、日本にはないその映像が俺の心を掴んで離さない。いつもならダウンロード過程なんて放置して別のことをやるはずなのに、俺はその画面から目を離すことができなかった。
食い入るように見つめるスマホの画面の中で、ダウンロードは少しずつ進んでいく。
どうやら、ダウンロード画面はダウンロードが進んだ分だけその映像の中で太陽が動くらしい。はじめは夜明けを思わせた青空が、やがて黄昏色へと染まっていく。
そして、画面の中の空が完全に黄昏に沈んだ時、ダウンロードは終わった。
「……すごいな、これ」
思わず、そんな言葉が口から出た。
静かな興奮が俺の内側から湧いてくる。
映像だけで時間を忘れられるゲームなんて、これまでにやったことも聞いたこともない。これは、間違いなく当たりゲーム。いわゆる神ゲーというやつだろう。
「よし。さっそく」
興奮を胸に、俺は画面に浮かぶ『ゲームスタート』の文字を押した。
瞬間、画面が暗転する。
「え?」
まるでスマホの電池が切れたかのような現象に呆けてしまう。
だが、次の瞬間には画面が復活した。
≫≫トワイライト・ワールドに接続しました。
≫≫種族の自由選択が可能です。
手にしたスマホからアナウンスが鳴った。機械的な女性の合成音声だった。
ついで、画面には新たな表示が浮かび上がる。
表示されたのは、種族選択の画面だった。人間、エルフ、ドワーフ、獣人――いくつかの選択肢がリストとなって並んでいる。
「へぇ……。最初から種族を選べるのか。いいな。どれにしようかな」
じっくりと選びたいところだ。スペックを比較しながら決めるのもゲームの醍醐味というやつだろう。
寝転がったまま画面を覗き込み、リストを上から順に眺めていく。エルフ、ドワーフ、獣人――それぞれの名前の横にはステータス補正らしきアルファベットがずらりと並んでいた。
「人間……地味だな」
比べるまでもなく、どう見ても一番補正値が低い。
もう少し下を見てみようと、スクロールしようとした、その時だった。
じっとりと浮かんだ汗が額を伝い、スマホを持つ指先へと流れた。
「っ」
思わず指がずれた。
タップしたのは、リストの一番上。
≫≫種族:人間を選択しました。
「……ちょ、待って!」
思わず声をあげた。
人間。よりにもよって一番補正値が低い種族を、選んでしまっていた。
≫≫種族:人間でのセットアップを開始します。セットアップ完了まで、しばらくお待ちください。
「キャンセルは――」
画面は俺の抗議など意に介さず、粛々と次の処理へと移行していく。
異変が起きたのは、やり直しを求めて画面を操作しようとしたその瞬間だった。
「な……んだ……!?」
強烈な眩暈が、突如として俺を襲った。
見慣れた天井が、六畳一間の部屋が、手にしたスマホが、そのすべてが渦を巻くように視界を回り、平衡感覚すらもなくなる。上も、下も、右も左も分からない。畳の上で寝転がっているはずなのに、まるでどこかに放り投げだされたかのような浮遊感。ただ目を開けているだけで、猛烈な吐き気が俺を苦しめてくる。
「お、おえっ」
思わず嘔吐いてしまうが、幸いにも昼から食べ物は口にしていない。口から出たのは少量の唾液ぐらいだった。
「き、気持ち、わる……っ」
揺れ続ける視界に耐え切れず、俺は瞼を閉じた。
このままでは立っていられない。いや、寝転がっているのに、それでもどこかへ落ちていきそうな感覚が止まらない。
熱中症だ。このままでは、死んでしまうかもしれない。
≫≫セットアップ中です。種族スキルの付与には同意が必要です。応答してください。
「熱中症の応急処置は……水と塩分……あと、身体を冷やすこと……だったよな」
這うようにして冷蔵庫へと向かい、水を引っ張り出して一気に煽る。冷えた水が喉を伝い、身体に染みわたる。それでも眩暈は収まらない。
≫≫セットアップ中です。種族スキルの付与には同意が必要です。応答してください。
震える手でキッチンの塩を掴み、舐める。あとは身体を冷やせば――。
≫≫セットアップ中です。種族スキルの付与には同意が――
「うるさいッ! それどころじゃないんだよ! 同意する! 同意でいいだろ!?」
怒鳴り声をあげた瞬間、俺はがくりとよろめいた。眩暈に引きずられるように、その場にずるずると座り込んでしまう。
荒い息の中、スマホが静かに応えた。
≫≫同意を確認しました。種族:人間でトワイライト・ワールドを開始します。
≫≫種族:人間を選んだあなたに種族スキルが付与されます。
≫≫スキル:未知の開拓者を獲得しました。