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テーブルに広げられた朝食は、いつもと変わらぬ和食だった。 鮭の塩焼きに卵焼き、味噌汁に漬物。そして白米。 炊き立てのご飯のいい匂いが鼻腔をくすぐり、強烈に空腹感を刺激される。そう言えば昨夜は何も食べていなかったと、今更ながらに思い出した。
自分が意識を失っている間に、瀬名が作ってくれたのだろう。勘違いとはいえ、あんなに冷たく突き放してしまったのに……。そう思うと、胸の奥が申し訳なさでいっぱいになる。
「あ、理人さん。ご飯粒ついてますよ?」
不意に声をかけられ、テーブルを挟んで向かい側に座っていた瀬名が、するりと身を乗り出してきた。 ――チュッ。 軽い音を立てて頬に唇が触れる。
「っ、な……、馬鹿か!? 普通に言えよっ! 自分で取るからっ!」
不意打ちの接触に驚いて、理人は慌てて手で顔を覆った。指の隙間から伺うと、瀬名がクスリと楽しげな笑い声を上げている。 瀬名は理人がこうして慌てふためく姿を見るのが、どうやら好きらしい。最近気づいたことだが、彼は理人が恥ずかしがったり動揺したりする反応を、慈しむように楽しんでいる節がある。
だから、わざとこういう子供じみたことをしてくるのだ。 意地が悪いと思う反面、そんな瀬名の新しい一面――自分にしか見せない独占欲の形――に触れられた気がして、少しだけ嬉しいと思ってしまう自分もいた。
「チッ……」
ニコニコと嬉しそうな表情を浮かべてこちらを見ている瀬名を、理人は照れ隠しに睨みつけ、小さく舌を打って食事を再開した。温かな味噌汁が、荒んでいた心にじわりと染み渡る。
「あ、そうだ。理人さん……今度、一緒に旅行に行きませんか?」
不意に差し出された話題に、理人は箸を止めた。
「旅行?」
「そう。実はナオミさん達から、僕の快気祝いにってペアの宿泊券を貰ってたんですが……。色々あったから、ずっと切り出すタイミングがなくて」
差し出された二枚のチケットには、テレビの旅番組で何度も目にしたことがある超老舗旅館の紋章が印されていた。しかも、隅の方には「貸切露天風呂付客室」という、今の理人には刺激が強すぎる文字が躍っている。
「アイツ……いつの間に……」
「……だめ、ですか?」
瀬名が捨てられた子犬のような、卑怯なほどに無垢な瞳で上目遣いに覗き込んでくる。 ダメなわけがない。瀬名と二人きり、誰にも邪魔されない温泉旅行。想像しただけで心臓が跳ね、期待で胸が苦しくなる。だが、そんな素直な言葉を口にするには、理人のプライドが邪魔をした。
「いいんじゃねぇ? 別に。……空いてる日があるならな」
「良かった。じゃあ、決まりですね」
ぶっきらぼうな返答にも関わらず、瀬名は理人の内心を見透かしたように、花が綻ぶような笑みを浮かべた。
遠くない未来の約束。そんな些細なことで、冷え切っていたはずの胸が熱を帯びていく。理人は自分の単純さに呆れながらも、この平穏がいつまでも続くことを願わずにはいられなかった。
「あ、でもその前にバレンタインがあるので……。楽しみだなぁ、乱れる理人さん」
「……くっ……てめぇの頭ん中はそればっかりか!! この変態がっ!!」
感傷に浸ったのも束の間、投げかけられた言葉に理人は手に持っていた箸を投げつけそうになった。
本当に、この男は――。
理人は心の中で盛大に溜息をつき、沸騰しそうな頭を冷やすように、冷めかけたお茶を一気に飲み干した。呆れと、憤りと、そして逃れようのない愛着を噛み締めながら、二人の賑やかな朝食は続いていく。