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「よろしいですか? こちらが私の主人であるソフィア様でございます。ティアルジ公爵家の姫君であり、フォンレーヌ公爵夫人となられた素晴らしいお方なのですよ!」
誇らしげに胸を張りながらそう言ったアンリエットは、私の目の前に一枚の肖像画を掲げた。
……ソフィアをそこまで褒め称える人なんてきっとあなただけね。
肖像画に描かれているのは、淡いピンク色の髪に甘いローズピンクの瞳を持つ絶世の美女。
アンリエットは、記憶を失った主人に少しでも思い出してもらおうと、一生懸命ソフィアという人間がどれほど素晴らしい女性なのかを語り続けた。
「アンリエットったら。お医者様も言っていたように、すべての記憶を失ったわけではなくて一部の記憶が損失しているだけよ。自分が誰なのかくらい分かっているわ」
そう。私は自分が一体誰なのか、誰に転生してしまったのか、もう気づいている。
この世界は間違いなく、昔に読んだロマンス小説『きゅるりーん物語』の世界だ。
どうやら私は、小説に登場するキャラクター。
それも恋の当て馬役として悲しい結末を迎える悪女ソフィアに転生してしまったらしい。
左手首に視線を落とすと、そこには丁寧に巻かれた包帯があった。
うっすら血が滲んでいて見るからに痛々しいそれは、昨日私が自ら傷をつけたものだ。
今もまだはっきりと痛みを感じる。
何度もこれは夢だ、きっと夢に違いないと現実逃避をしようとしても、この首の痛みがそれを否定した。
メイドに連れられてやってきた医者に対して「なんで医者までイケメンなのよ! これがロマンス小説の力なの?!」などと意味不明なことを叫ぶ私に、医者は『記憶喪失』という診断を下した。
まだ転生したという現実を受け入れきれなかった私は、「私は記憶喪失なんかじゃない!」と喚き散らしたが、よくよく考えてみると「精神病」と診断されなかっただけマシだったと思う。
そんな嘘みたいな展開を経て、私は今ソフィアとしてここにいる。
よく考えてみると、これは私にとってラッキーな出来事だった。
私は元々、大のロマンスファンタジー+転生モノオタク。本棚はロマンス小説で埋め尽くされており、読み終えた後はいつも感想を140字に詰め込む日々を送っていた。
つまり、そんな私にとって異世界転生は神から与えられたご褒美のようなものなのだ。
転生して、貴族令嬢になって、イケメンたちに囲まれるヒロイン……なんて、どれだけ憧れてきたことか。
ただ問題なのは、私が転生したのがこの世界の“主人公”ではなく、“悪役”だということ。
公爵の妻という華々しい肩書とは裏腹に、ソフィアというキャラクターは、主人公たちのためだけに存在する哀れな当て馬だ。
この世界にやってきてから早くも3日が経った。
たったの72時間という短い時間だが、私が前世で死を迎え、新たな人生を迎えるために異世界転生をしたという荒唐無稽な状況を把握するには十分な時間だった。
「記憶喪失だなんてお可哀想に……。何かありましたら、このアンリエットになんでもお申し付けくださいね」
胸の前で手を合わせ、今にも泣きそうな顔で私を見つめるアンリエット。
彼女は心からソフィアのことを慕っているのだろう。
忠誠を誓う主人の中身が入れ替わったと知れば、彼女はどんな顔を見せるのだろうか。
なんでもお申し付けください……か。実は私は別世界の人間で、その世界で死んだから転生したの。あなたたちは小説のキャラクターで、私はその小説を読んだからあなたたちを知っているの。
そんなことを言えば、それこそ頭がおかしくなったと思われてしまうだろう。
『きゅるりーん物語』、そしてこの世界の主人公フィオレッタ。
傲慢な悪女ソフィアとは違って、フィオレッタはとても誠実でいて、とても美しい少女だった。
彼女は地方の貧乏貴族の娘に生まれ、貧しいながらも優しい家族と楽しく暮らしていた。
フィオレッタは貴族という身分を隠し、こっそりと家を抜け出してはシスターたちに紛れてボランティア活動に励む心優しい子だった。
いつものようにフィオレッタがボランティア活動をしていた時、街の視察に来ていたノアと偶然出会う……まさに、運命的な出会いだった。
ヒステリックな性格のソフィアと違い、誰にでも優しい天使のようなフィオレッタ。
ノアがフィオレッタに惹かれるのは至極当然のことだった。
そして物語は山場へと入り、勘違いからの身分さの悩みや、すれ違いがじれったいロマンティックな恋へと展開していくのだが……。
そんな二人の一番の障害となったのがソフィアだった。
夫の異変にすぐに気が付いたソフィアは、ノアが夢中になっているというフィオレッタを見つけ出し、消し去ろうとした。
しかし、物語の正義であるヒロインに悪役が勝てるはずがない。フィオレッタが間一髪だったところを、颯爽と現れたノアが助け出すのだ。
ノアがフィオレッタを助け出すシーンは本当にかっこよくて、何度も見返した覚えがある。本当に見事なロマンティックなシーンで……。
でも、今はそんな呑気なことを言っていられない。
二人のロマンスが輝かしく見えるのは、悪女ソフィアの犠牲があったからだ。
そして今、ソフィアは私なのだ。
二人のラブストーリーのために犠牲になるほど、私は彼らに対して思い入れはない。
その後、ソフィアは殺人未遂の罪でティアルジ公爵家の別邸で幽閉されることになる。
読んでいる時は悪役にしては可愛げのあるエンドだなと思っていたけど、それはきっと、ソフィアにとってこれ以上ないほどの地獄だったのだろうと今になって思う。
私はそんな結末を迎えるつもりはない。断罪エンドなんて、絶対に嫌……!
私はただ静かに楽しく、幸せに生きていきたい。誰にでもあるような日常が欲しいだけだ。
だったら、悪女ではなく物語のモブあたりにまで落ちてしまえばいい。
娘に無関心なティアルジ公爵は、ソフィアに湯水のごとくお金を使わせていたというし、金銭面においては気前が良かったらしい。
公爵から一生不自由なく暮らしていけるだけのお金を貰って、どこか遠くの国へ行くのも悪くないかもしれない。
けれど、そのためにはまずあの男。すべての引き金となる夫ノアと離婚しなくてはならない。
そうすればきっと、『きゅるりーん物語』のメインストーリーからソフィアは外れることができるはず。ノアはソフィアのことを嫌っているし、こちらから離婚の話を持ち出せば二つ返事で了承してくれるだろう。
なんだ、すっごく簡単なことじゃない!
・ ୨୧ ┈┈┈ ⋯ ┈┈┈ ୨୧ ・
「疲れた……」
色々と考え事をしたり、慣れない話し方をして常に誰かと一緒に居たから、いざ一人になると心身ともにどっと疲れが押し寄せてきた。
そもそも、この身体は病弱すぎるのだ。
病にかかっているワケでもないのに、ルドヴィカによって長年引きこもりの生活を強いられていたソフィアの身体は体力がなく、少し階段を上っただけでも息が上がってしまうほどのか弱さだった。
私がこの身体に転生するきっかけとなったであろうソフィアが階段から落ちた出来事も、全てはソフィアの運動不足が関係していたという。
そのため、体力作りとして医者から毎日三十分の散歩を命じられることになった私は一人で夜の庭園を散歩していた。
「グスッ……」
前世に未練も何もないし、戻りたいだなんてちっとも思わないが、どうしても夜になると悲しくて涙が出てしまう。
これは数年前、前世からの癖のようなものだ。
悪夢も、涙も、自分で制御することが出来ない謎の症状。
ソフィアの身体なのに、おかしいな。
これは肉体の問題ではなく心の問題なのだろうか。
「泣いたって、何かが変わるわけじゃないのに」
そんな言葉を口にして、自分を叱るように目をぎゅっと閉じた。
ふらふらと拙く歩きながら、噴水の傍に置かれた白い石造りのベンチに腰掛け、そっと袖口で涙を拭う。
「ここで、何をしている」
その時、背後から突如声がして、私は急いで振り返った。
そこに立っていたのは、この世界のヒーロー。
ノア・ティアルジ公爵だった。
「どうしてこんな夜に……」
「ここに俺がいたら何か都合が悪いのか?」
「い、いえ、そういうわけではなくて……」
「そうだろうな。ここは俺以外の立ち入りを禁じている庭園だ。それを分かったうえで入ってきたのか」
「え……」
そ、そんなの私が知るはずがないじゃない!
小説で読んだこと以外、あなたのことなんて何も知らないんだから。
「それか。メイドの言っていた、あなたが自殺未遂を起こしたという傷は」
ノアの視線が、私の左手首に向く。
涙を拭うために顔の傍に持ち上げた左手は袖がめくれてしまい、血が滲んだ包帯が丸見えになっていた。
自殺未遂って……まさか、三日前のこの世界が夢だと思って夢から覚めるために死のうとしたことのこと?
確かにあれは死ぬつもりで起こした行動。
だけど、それは夢だからであって、死にたいなんて感情は少しも持ち合わせていない。
私はどちらかというと、しぶとく生き残りたいタイプよ。
あの時のことをお医者さまは「頭部への強い衝撃により、一時的に混乱状態に陥っていたのではないか」と診断した。
だからこそ余計な波風を立てぬよう「この件は他言無用」と、使用人たちにも口酸っぱく言い聞かせておいたのに。
使用人たちはソフィアを完全に嫌っているようだったし、ノアはこの屋敷の主。彼に報告するのは当然だと思う反面、心の奥底ではどこか苦くて複雑な感情が渦巻いていた。
返事に迷っていると、ノアは無言のまま足を進めて、私の両肩を掴んだ。
「え? ……キャッ!」
肩を掴まれたまま、ノアの美しい顔が目と鼻の先まで迫る。
月光に照らされた彼の顔は、挿絵で何度も目にしたものと全く同じで、本当に物語の世界へ入り込んでしまったのだと実感する。
視界いっぱいにイケメンな顔が映し出され、今にも顔から火が出そうなほど照れてしまい、頬が熱くなっていないか恥ずかしかしさでどうにかなってしまいそうだった。
「一体、何を企んでいる」
しかしそんな私とは裏腹に、ノアはとても深刻な顔で話し始めた。
「この世の何より俺を嫌っているくせに、俺の気でも引きたいというのか?」
突然の問いかけに、思考が追いつかない。
怒っているような様子の彼を前に、だんだんと羞恥心よりも恐怖心の方が勝ってきた。
「他人を傷つけるだけに飽き足らず、自分を傷つけようと……命を絶とうとしたのか」
「な、何を言って……公爵様、どうか落ち着いて下さ――」
「命を何だと思っている!」
その瞬間、彼の手に込められた力が強くなり、肩に痛みが走る。
「痛っ……」
反射的に声が漏れた。
その声に、彼は我に返ったように目を見開くと、すぐに手を放してくれた。
強く掴まれた肩がじんじんと熱を帯びていて、自分でも気づかないうちに呼吸が浅くなっていたことに気づく。
「ご、ごめんなさい、私、本当に何も知らなくて……」
口をついて出たのは謝罪だった。
咄嗟に言葉を選ぶ余裕もなく、ただ震える声で謝罪をすることしかできなかった。
どうして。今の私はソフィアなはずなのに。
前世のあの愚かな癖が発動した私は、全身を震わせ、息を荒げながら必死に謝罪の言葉を繰り返した。
「け、けして悪気があったわけではなくて、階段から落ちて、それで気が動転してしまって……」
にゃみ3
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