森の中にはまた1つ……どころではなく、今日は4つほど落書きが増えていた。もはや獣のテリトリーの印のようである。
『ふい~っ、今日は大分進んだぞー。もう少ししたら帰ろうかな……ん?』
辺りを見回しながらつぶやく少女の耳に、風や木の葉とは違う音が届いた。
『なんだろうこの音……絵描いてて気づかなかったけど』
寂しさを紛らわせる為に、鼻歌を歌いながら落書きに集中していた少女は、そこまで遠くない音にも全然気づいていなかった。
森の中でそれは致命的な事だが、前世で自然とはほぼ無縁だった小さな少女には、知る由もない。
気になった少女は、無警戒に音のする方へと走って行く。
『あれ?この音ってもしかして……』
茂みを抜けるとそこには……
『これはっ!!』
日が傾き始め、少し森が薄暗くなる中、ミューゼとパフィの2人は気楽に歩を進めていた。
「いやー、こんなにもお肉が増えるなんて予想外なのよ」
「ちょっと重くなっちゃったね。暗くなる前には着けると思うけど」
「まさかモスグリーディアに出会えるなんて思わないのよ。即狩るしかないのよ」
モスグリーディアとは、背中や角に苔を茂らせた鹿のことである。肉は大変美味しく、角や苔は薬品の材料になるが、見かけるのも珍しくすぐ逃げる為、遭遇した2人は目の色を変えつつも慎重に狩ったのだった。
その為魔力の泉への到着が、予定より遅くなってしまう事を危惧していた。
「良い臨時収入になるし、後悔していないけど、とりあえず今は急ぎましょ」
「もちろんなのよ」
少し焦って森を進む2人は、退屈しないように喋りながら進んで行く。そのせいで、離れた背後から静かについてくる気配には気付くことはなかった。
「到着なのよー」
「いやー流石に疲れたわ」
「まだ休む前に野営の準備なのよ」
「分かってるよぅ」
着いて早々に疲れた足に鞭を撃ち、野営の準備を始めようとする……が。
ざばぁ
『ぷはっ』
泉の中から少女が現れた!
「はっ!?」
「!?」
突然の出来事に、2人は驚いて振り向いた。まさか泉から何かが生えてくるなんて思っていなかったのである。
予期せぬ事態に頭の処理が追い付かず、硬直してしまう。
(はぁ、気持ち良かった~。そろそろ出ようかな)
そんな2人とは逆の方向を向いていた為、その存在には気づかず、泉の縁へと向かう少女。
ゆっくり出ようとしていると、我に返った2人が動き出した。
「ちょっと貴女! 何してるのよ!?」
「ちょっとパフィ……」
血相を変えて少女に駆け寄るパフィと、相手が少女である事に気づき、パフィを抑えようと遅れて走り出すミューゼ。
その声が聞こえ、驚いた少女が振り向いた。
『!?』
少女が出会う最初の人。その存在は、物凄い形相で長い物を突き出してくる危険な女性だった。
(な、なんだっ!?)
「ここは神聖な魔力の泉なのよ? どうして潜ってるのよ?」
ナイフを少女に向け、怒りをあらわにするパフィ。
少女はその顔を驚愕に染め、泉から出るのも忘れて呆然としている。というか、パフィの顔が怖いようだ。
「何とか言うのよ!」
「ちょっと待ってパフィ! 相手は子供よ!? それにこの森にいるのっておかしくない?」
「……分かったのよ。私は警戒するからミューゼお願いなのよ」
険しい顔で対応を考える2人を見ながら、少女はさらに困惑を深めていく。
そんな少女に、優しい顔でミューゼが少し近づき、少し離れた状態で少女に語りかける。
「こんな所でどうしたの? パパやママはどこ?」
「………………」
「怖いのかな? 大丈夫よ、何もしないから教えてくれない?」
それでも黙ったままの少女に、パフィは少し苛立ち、ナイフを持つ手を強める。
しかし、少女の方はそれどころではなかった。
2人の背後、茂みの無い方に、大きな生き物の姿が見えたが、目の前の2人は気づいていない。謎の少女に気を取られて、注意力がおろそかになっているのだ。
ますます慌て、2人を交互に見るが、全く気付く気配が無い。
「何なのよこの子。言いたい事があるなら、ちゃんと言えばいいのよ」
パフィが苛立ちながら呟くのをきっかけに、背後の生き物が静かに突進してきた。すぐにジャンプしたかと思うと、ムササビのように広げた翼で滑空し、その勢いのまま爪を出して迫ってくる。
(もう駄目だ! この人を狙ってる!)
少女は決意して、急いで泉から上がり、ミューゼへと駆け出した。
「えっ、裸……」
「チッ、離れるのよミューゼ!」
急な動きにパフィが焦り、攻撃態勢へ。
そんな事には気付かず、少女はミューゼに体当たりをかけた。
ドンッ
「んっ!?」
「このっ!」
体当たりをした瞬間に、ミューゼに当たらないようにと振ったナイフが少女の足をとらえ、血しぶきが飛ぶ。そして……
ザシュッ
「んうっ!!」
飛来した生き物の爪が少女の肩を切り裂き、その衝撃で泉へと弾き飛ばされた。
「えっ……」
「ディーゾル!? なんで!?」
突如背後から現れたソレも含め、様々な事が同時に起こり、戦いなれた2人が硬直してしまう。
飛ばされた少女が泉に落ちる音によって辛うじて我に返ったミューゼが、声を張り上げた。
「パフィ! ディーゾルを!」
何も持っていないミューゼは、襲い掛かってきたソレをパフィに任せ、泉に飛び込んだ。
「! いっ今はコイツを倒すのよ! その子は頼むのよ!」
パフィは困惑を振り切り、ナイフを構え、興奮するディーゾルと対峙する。
一方飛び込んだミューゼは、少し深い場所ですぐさま少女を見つけた。苦しそうな顔で、弱々しく傷を抑えている。
急いで少女を抱き込み浮上すると、丁度パフィがディーゾルを斬り飛ばす瞬間だった。
腕の中で力なく項垂れる裸の少女を抱え、急いで手当てをする為に荷物の元へと向かう。
「パフィは野営の準備をお願い! 私はこの子の手当てをする!」
「え、ええ。任せるのよ……」
ミューゼが手際よく少女の手当てをしている間に、少女の意識はいつの間にか無くなっていた。
「ミューゼ……その子は……」
「気絶してるだけよ。血は止めたし大丈夫だと思う」
「そう……」
手を進めながらも、少女の事を気にするパフィ。その表情はかなり暗い。
やがて手当を終えたミューゼも野営の作業を手伝い、道中で得た肉を焼いて食事となった。
2人の顔は依然として暗い。ミューゼのすぐ傍で寝ている少女の事が気になっているのだ。
「その子……ミューゼを守ったのよ……」
「うん、後ろからディーゾルが近づいてる事に、気が付かなかったなんて」
「2人とも、その子に気を取られ過ぎてたのよ」
疲れていたうえに驚いていたとはいえ、周囲に気づかないのは、自然界では致命的である。
もちろん、それだけが暗い理由ではない。
「身を挺してミューゼを守ったそんな幼い子を、斬ってしまったのよ……私どうしたらいいのよ……」
背後に気付かず、誤解してしまったが故の悲劇だった。
「泉からこの子が現れてから、ほんの少しの間にいろんな事が起こったね……」
「そうなのよ……その子が何故泉に入っていたかを言わなかったのも気になるのよ」
「単純に怯えてたのかな?」
「だとしたら全部私が悪いのよ……」
パフィの手は震えていた。怯えながらも仲間を助けてくれた幼い少女を斬った感触が、今も忘れられない。
その一部始終を見て、気持ちに気づいているミューゼも、言葉に詰まっている。
「食べたらすぐ寝る? 看病ついでにあたしが見張ってるけど」
「いいのよ……どうせ眠れないのよ……」
「そっか、この子が起きたら謝らなきゃね」
身に着けていた外套は、体を冷やさないように少女に被せてある。あとは起きるのを待つしか無い。
それに加え、明日の事を考えると早めに休まないといけないのだが、今のパフィにそれを実行する心の余裕は無かった。
「それじゃあこの子と一緒に寝ておくから、起きたり容態が変わったりしたら起こしてね」
「もちろんなのよ。もうヘマはしないのよ」
今にも泣きそうなパフィの横顔を見たミューゼは、それ以上は何も言わず、少女の手を取って眠りについた。
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