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折れた鬼神丸
翌日、志麻は与作爺が用意してくれた角樽を持って家を出た。
志麻の剣の師、奥山阿十おくやまあじゅうの道場は、武家地を遠く離れた笠取山の麓にあり志麻の足でも半刻ほどかかる。志麻は懐かしい田舎道を春の気配を感じながらブラブラと歩いた。綻び始めた梅の香りが漂ってくる。
「よう、黒霧のじゃじゃ馬娘!」
支流が岩田川に流れ込む辺りで後ろから声をかけられた。
「どうじゃ、仇を討ってさぞ鼻が高いじゃろう?」
聞き覚えのある声に眉を顰めて振り返る。思った通りに蝦蟇がまがえるに似た顔がそこにあった。その後ろに四人の人影も見える。
「これはこれは、どちら様かと思ったら御上士様の御子息様ではありませんか」
わざと笑顔を繕って慇懃にお辞儀をした。蝦蟇が嫌な顔をした。
「このような田舎に、梅の花見にでもいらしたのですか?さすが御上士様は風流な事で」
「相変わらず口だけは達者な様だな」
「はて、達者なのは口だけではありませぬが?」志麻はわざと惚けた口調で言った。
「くっ!たった一度俺に勝ったからと言って自惚れるなよ。あれはお前が女だから油断しただけだ!」
蝦蟇こと蜂須賀半次郎は、大目付蜂須賀斧八郎の惣領息子だ。武家地に大道場を構える浅田又兵衛義嗣の弟子で、いつだったか城下で催された野試合で剣を交えた事がある。その時は、志麻の面打ちで半次郎が脳震盪を起こした。
「そうでしたか、あの時は手加減して頂き、誠に有難うございました。お礼はまた今度ゆっくり致すとして、本日は急ぎますのでこれにて御免!」
切口上に言って、志麻はさっさとその場を離れようとする。
「待てぃ!」
予想通りの言葉が返って来た。
「なんなら今ここでその事を証明してやろうか?」
「いや、それには及びませぬ。せっかくのお花見の邪魔になるといけませんので」
「逃げるのか?」半次郎がしつこく詰め寄った。
「逃げる?」そろそろ志麻の腹の鍋がグツグツと煮えてきた。
「そうよ、せっかく仇を討ってもここで俺に負けたら手柄も台無しだものなぁ」
憎々しげに口の端を上げた。
志麻がフゥと息を吐く。
「あ〜あ、せっかく恥を掻かせずに済まそうと思ったのに」
「なに?」
「お仲間が大勢居るようだからね、可哀想だな〜と思って」
「なにを!」
「どうせ一人じゃ敵わないと思って連れて来た連中だよね?」
「小癪な!」半次郎が刀を引き抜いた。「二度と刀を握れないように可愛がってやれ!」
「お、応!」
半次郎の後ろで控えていた男たちは、斧八郎の部下の子息たちであろう。半次郎の言う事に渋々従っていると言う感じだ。
「こいつを討ち取った奴には俺が親父に言って目をかけて遣わす、出世したい奴は全力でかかれ!」
「応!」全員が一斉に刀を抜いて、半次郎と入れ替わるように前に出た。
まったく、上の命令に逆らえないのは永い太平の世が培った負の遺産だ。昨夜、兄が言っていたように、やはりこのままでは日本は・・・志麻は角樽を梅の木の下にそっと下ろすと、男たちに向かってお紺譲りの啖呵を切った。
「さあ、覚悟を決めてかかって来な!」
*******
思った通りだった。
道場で形ばかり竹刀を振って来たのだろう。
真剣の戦いなど唯の一度も経験した事の無い腰つきだ。
皆、竹刀のように刀を扱おうとして必要以上に腕に力が入っている。
刀のような重量物を扱う時は、どこかに力が偏ると足の動きが止まってしまう。
力の流れを止めないように、刀の行く道を邪魔しないように、躰を捌く必要がある。
それはやはり、実戦の中でしか培われない感覚なのかも知れない。
幸か不幸か、いつの間にか志麻の実戦経験は、その辺の武士の遠く及ばないものになっていた。
屁っ放り腰の連中の動きなど手に取るように分かる。
志麻は納刀のまま、鍔に拇指をかけたままの姿勢で前に出た。
すると馬鹿正直に真っ向から斬り込んでくる奴がいる。その切っ先を避け、すれ違いざま浅く脇腹を斬ってやった。
敵は大仰に悲鳴を上げて道に転がった。
他の三人が一斉に後退る。
「なにをしている、女如きに怖気付いたか!」半次郎が叫ぶ。
その声に弾かれたように一人の敵が斬りかかってきた。
右足を敵の右方向に踏み出しながら鎬しのぎで受け流す。その瞬間両膝を抜いた。
流れるように志麻の躰が入れ替わり、落ちてきた刀の棟が敵の首筋を打つ。
敵はムゥと唸ったきり顔から地面に突っ込んで動かなくなった。
「馬鹿、二人同時にかかれ!」
左右から剣が飛んできた。
左の剣を払いながら敵の懐に飛び込んだ。肩で体当たりを食わせると呆気なく後ろへ転がって戦意を失った。どうやら志麻の肘が鳩尾に当たったようだ。
初撃を外された右の敵が、態勢を整えて二の太刀を繰り出してきた。
軽く往なすとたたらを踏んで膝をつく。
志麻はゆっくり近付いて刀を大上段に振りかぶった。
敵は膝を軸にして体を捻ると、上からの斬撃を受け止めようと刀を上げた。
「顔面がガラ空きよ」
敵の顔が恐怖に引き攣った瞬間、志麻の足裏がその顔にめり込んだ。
「残るは、あなただけね」
志麻が半次郎に向き直る。
「お、お前、こんな事をしてタダで済むと思うのか?」
「あら、先に刀を抜いたのはそっちだけど?」
「ふん、誰がそんなこと信じるものか。俺の親父は藩の大目付なんだぞ!こいつら全員が口裏を合わせれば・・・」
「俺が証人になってやろうか?」
岩田川の土手を登って来る人影が声を投げてきた。津藩奉行正木出雲の一人息子右京である。
「右京さん・・・」
「女一人に喧嘩を売って返り討ちにあったって・・・それとも奉行の息子じゃ役不足かな?」
「くっ!」
半次郎のこめかみを脂汗が流れて、だぶついた顎を伝って地面に落ちた。蝦蟇の油とはこの事だ。
「ちっ、今日の所はこれくらいにしといてやる・・・おい!お前たち、帰るぞ!」
半次郎はサッサと刀を鞘に納めて、川沿いの田舎道を引き上げて行く。倒れていた仲間たちも互いに肩を貸し合ってその後を追った。鼻血を流している男が一番痛々しい。
その後ろ姿をしばらく見送ってから、おもむろに右京が志麻に向き直った。
「久しぶりだなぁ志麻、元気だったか?」
「右京さん、助かりました。でも、見ていたんならもっと早く出てきてくれたら良かったのに」
「志麻がやられるところを見てみたかったんだ」
「な・・・!」思わず睨んでしまった。
「ははは、冗談だよ。あんな奴らにやられる志麻じゃないだろ?」
「それはそうだけど・・・」
「ちゃんと危なくなったら出て行くつもりでいたよ。しかし全くその必要が無かった・・・腕を上げたな、志麻」
褒められてドギマギしてしまった。志麻はその動揺を悟られまいとして話柄を変えた。
「それよりもどうしてここに・・・」
「おいおい、俺だって奥山道場の弟子だぜ。道場はこの道の先にあるんだ、俺がここに居たってなんの不思議もなかろう」
「ま、まぁ・・・そうだけど」
「嘘だよ、実を言うと隼人が知らせて来たんだ。さっき妹が道場に向かったって」
「兄上が?」
「ああ見えても隼人は志麻の事を心配しているんだぜ」
「心配?」
「志麻は江戸に行っていたからよく知らんだろうが、今、藩は尊皇派と佐幕派で真っ二つに割れている」
「でもその事とさっきの事は無関係でしょう?」
「いや、それがそうでもない。志麻の父上は尊王派、そしてさっきの蜂須賀は佐幕派だ。尊王派の娘が立派に仇討ちを果たしたなんて事は面白くないに決まっている。しかも相手は江戸でも有名な剣客、草壁監物だとくれば、いずれ大殿からお褒めの言葉を賜る事は目に見えているからな。そうなれば尊皇派の評判はいやが上にも上がる」
「え、でも父上はそんな事何も・・・」
「せっかく仇討ちを果たして帰って来たお前に、心配かけたく無かったんだろう」
「そんな・・・」
「ま、ここで立ち話もなんだ、歩きながら話そうか」
「え、まだ何かあるの?」
「ん、道場に着くまでに志麻に話しておかなければならない事がある」
右京は、志麻が梅の木の根元に置いた角樽をひょいと抱えて歩き出した。志麻は慌てて右京に追い付くと、肩を並べて歩きだした。
*******
奥山阿十は、庭に面した濡れ縁の上に座布団を敷き、夜着の上に掻巻を羽織って座していた。
この季節にしては暖かい日で、膝の上には白い猫が気持ち良さそうに寝息を立てている。
「先生、今日はお加減はよろしいのですか?」
床を延べた座敷に入ると、右京が畳に手をついて訊ねた。
「うむ、今日は久々に気分が良い、たまには庭でも眺めてみようと思ってな」
広い庭では無いがよく手入れが行き届いている。家人がこまめに下草を抜き、落ち葉を掃いているのだろう。今は白梅が三分咲きだ。
道場までの道筋で、右京が話してくれた事によると、十日ほど前、道場での稽古中に突然阿十が倒れたのだそうだ。医者の見立てでは、心の臓が弱っておりもう激しい稽古には耐えられないだろうと言う事だった。
師の意向で病の事は公にせず、今は右京が弟子達に稽古をつけている。
「志麻が先生にご挨拶がしたいと参っておりますが・・・」
「なに?」
阿十が急に身を動かしたので、白猫は膝から飛び降り、そのまま何処かへ行ってしまった。
「先生、ご無沙汰をお許し下さい」
右京の後ろに控えていた志麻が手をついて頭を下げると、阿十が躰ごと向き直った。
志麻が江戸に出た頃と比べるとだいぶ痩せたように思える。そういえば来年は古希を迎えられるはずだ。
「お加減はいかがでしょうか?」
阿十は目を細めて志麻を見遣ると、目を細めて「志麻」と言った。
「はい」
「よう戻った」
「は、神仏のご加護と先生のお陰をもちまして、無事本懐を遂げる事が出来ましてございます」
「うむ、重畳じゃ、めでたい・・・本当にめでたい」
「ありがとうございます」
「志麻、もう少し近くに来て元気な顔を見せてくれ」
志麻はツと立って縁側に出ると阿十の横で膝を折った。
「ほう、良い面構えになったな」
「そうでしょうか、自分ではよく分かりませぬ」
「いや、江戸に旅立った時に比べれば雲泥の差じゃ・・・それにしても、よくあの草壁監物を討ち取る事が出来たのぅ?」
「この刀のお陰でなんとか命を落とさずに済みました」
「刀のお陰・・・?」阿十は訝しげに志麻の顔を覗き込んだ。
志麻は膝元に置いた鬼神丸を手に取って師に差し出した。阿十は志麻に断って鞘を払った。
暫く矯めつ眇めつ眺めていたが、刀身を鞘に戻して志麻に訊ねた。
「確かに見事な刀ではあるが・・・」特に違和感は感じていないようだ。
師に嘘はつけない。信じてもらえるかどうかわからないが、包み隠さず話す事にした。
「実はその刀には妖力が宿っているのです」
「妖力?」阿十は目を丸くして志麻を見た。きっと右京も同じ目で志麻を見ているだろう。
志麻は鬼神丸が自分の差料になった経緯と仇討ちの一切を淡々と語った。全てを語り終えた時、阿十と右京が同時に息を吐いた。
「とても信じられぬ話ではあるが・・・」
「でも、志麻が嘘をつくとは思えませぬ」右京が言った。
「確かに、それが本当なら得心も行くが・・・」
「現に最初の出会いでは手もなくあしらわれ、二度目の出会いでは危うく手籠に・・・」
「えっ!」
「その時は偶然通りかかった知り合いに助けられましたが・・・その後幾度となく修羅場を潜り抜け、その度に鬼神丸に助けられ紙一重の所で命脈を保って来たのです。
「う〜む・・・」
阿十が唸って腕組みをした。そして長い沈黙の後こう訊いた。
「最近ではその怪異はいつ頃現れた?」
志麻は思い出すように目を閉じた。
「そう言えば、あまり頻繁には現れなくなりましたが・・・」
「これは儂の想像なのじゃが・・・」
「はい」
「お前の危難はその刀が呼び寄せたものではないのか?」
「え?」
「そして一つ死線を越える度、お前は強くなって行った」
「・・・」
「ここに辿り着いたのも、お前の修行を完成させる為かも知れん」
「私の修行を?」阿十の言っている意味が分からず、志麻が困惑の表情を浮かべた。
「右京!」突然阿十が大声を出した。
「はっ!」
「志麻と太刀合ってみよ、ただし木剣を使うのじゃ」
「それは・・・」
「一つ確かめたい事がある」阿十は立ち上がって右京を見据えた。
「は、仰せのままに」
右京は久しぶりに見る、師の精気に満ちた顔を眩しげに仰いだ。
*******
道場で構え合った途端、右京の顔色が変わった。
「こ、これは・・・」
しかし、すぐに落ち着きを取り戻し、木剣の切先を落としやや前傾になる。
初めて感じる志麻の威圧感に警戒した構えだ。
志麻は真っ直ぐに右京に切先を向けている。
右京は摺り足で右に移動した。
志麻は躰ごと右京を追うように前に出る。
右京は構を崩さぬように一足後退った。
そこで二人の動きがピタリと止まる。
右京は呼吸を変えぬよう、全神経を集中した。少しでも気を抜けば志麻の気に押されて息が乱れる。
しかし、志麻の構えに気を取られていつの間にか呼吸が浅くなっていた。
呼吸を乱すな・・・と、自分を戒める。
額に汗が吹き出してきた。右京の太い眉毛と長い睫毛が、辛うじて汗が目に入るのを堰き止めていた。
だがいずれ堰を切って目に流れ込むだろう。
堪えきれず瞬きをした途端目に汗が入った。一瞬幕を張ったように何も見えなくなった。
「それまで!」
師の鋭い声が聞こえた。
視界が戻った時には目の前に切先があった。
いつの間に・・・
なんの気配も感じなかった。
そんな馬鹿な・・・まだ一合も打ち合っていないのに・・・
「まいった・・・」
右京は剣を納めた。
「まいったな・・・ここまでの腕だったとは」
「やはりな、思った通りだった」
「どういう事ですか、先生?」右京は阿十に向き直って訊いた。
「志麻は妖刀に助けられながら真剣勝負を繰り返す事で、途方もない力を身に付けておったのだ」
「そうか・・・ずるいぞ志麻!」
「う、右京さん、そんなこと言われても・・・」
「ははは、冗談だよ。おめでとう志麻、これで弟子の中にお前に敵う者はいないな」
志麻は木剣を刀掛けに戻して鬼神丸を腰に戻した。
その瞬間、阿十が声を発した。
「志麻、次は儂が相手じゃ」
「ええっ!」
「儂を倒せ、そうしなければお前の躰はその妖刀に乗っ取られる!」
「ど、どう言う事ですか先生、なぜ私が先生を倒さなければならないのです!」
「そうですよ先生、そんな馬鹿な話が・・・」
「昔・・・」そう言って阿十が右京の言葉を遮った。「豊後の国に吉田文五郎という剣客がおった」
「先生、それとこれに何の関係が・・・」
「黙って聞け右京」
「は、はい・・・」
「文五郎の望みは天下第一の剣客になる事だった。しかし、文五郎にはどうしても勝てない相手が居た。いくら修行を積んでも遠く及ばなかった。そんなある日、文五郎は妙な噂を耳にした。八鶴の海岸に夜な夜な赤子を抱いた妖怪が現れるというのだ。その妖怪は名を産女うぶめと言って、子供と共に殺された女の怨念が作り出した妖怪だという。月のない晩にその海岸を歩いていると、産女が現れて子供を抱いてくれとせがむ。抱いてやるとその赤子はどんどん重くなって行く。うまく抱きおおせれば良いが、取り落としたり尻餅をついたりすれば取り殺されて喰われてしまう。だが、うまく抱きおおせれば褒美に宝の箱か不思議な力を持った刀をくれるのだ。その刀を持てば天下一も夢では無い。文五郎は八鶴海岸に出かけて行った。そして首尾よく刀を手に入れて天下一の剣客になったのだ」
「ならば、その文五郎の夢は叶ったのですね?」
「そうじゃ。だがしかし、天下一となった文五郎は全くの別人格となっておったそうじゃ」
「つまり、躰を乗っ取られた・・・と」
「これは儂が剣術を習い始めた頃に師に聞いた話じゃ。儂は今まで、これは物に頼らず努力をしろと言う戒めなのだと思ってきた。しかし、志麻の話を聞いて、あながちそうとばかりは言えぬのでは無いかと思ったのじゃ」
「本当にあった事なのだと・・・」
「お前達の太刀合いを見てそれは確信に変わった」
「でも、どうして文五郎は変わってしまったのですか?」
「文五郎は最後の仕上げを怠ったのじゃ」
「最後の仕上げ?」
「刀を手に入れた夜、文五郎は産女に聞かれたそうじゃ。この刀を手に入れて何とする・・・と。そこで文五郎は答えた、天下一の剣客になるのだ・・・と」
「それで産女は何と言ったのですか?」
「もしその望みが叶ったなら、お前の師を殺せと言ったそうじゃ」
「何故に?」
「妖力で道の頂点に立ったものは、その原点を消さねばならぬ。もし、それを怠ればお前そのものが消える。何故なら、妖力で蒔いた種は最初に蒔いた種とは全くの別物だからだ・・・と言ったそうじゃ」
「それで文五郎は?」
「結局、師を殺す事ができなかったらしい」
「それで、人格が変わってしまったのですね?」
「でも、私は天下一になりたかった訳じゃない、草壁監物に勝てればそれで良かった」
「じゃが、お前は妖刀の力を借りて望みを果たした。じゃったら見返りに何かを差し出さねばならぬは道理じゃ」
「そ、そんな・・・」
「儂はもう老い先短い身。儂の命と引き換えにお前が助かるのなら安いものじゃ」
「そんな事出来ません!」
志麻の答えを聞いて、阿十は刀掛けから刀を取った。
「そう言うと思っておった。じゃが、儂がお前を斬ろうとすれば、その刀はお前の意思に反して儂を斬ろうとする筈じゃ」
志麻は腰の刀に手をやった。確かに志麻の命が危うくなれば鬼神丸は自らの意思で敵を倒そうとする。志麻は慌てて帯から鬼神丸を鞘ごと抜き取ろとした。
「え?」
いくら引っ張っても鬼神丸はびくともしない。まるで膠にかわで貼り付けたみたいに帯にくっついている」
志麻は師から離れようとしたが、今度は足の裏が床に貼り付いて動けない。
「どうなってるの!」
阿十が刀を抜いて鞘を捨てた。乾いた音が道場にこだまする。
「先生だめ!」
志麻は必死で鬼神丸の柄を押さえて叫ぶ。
「志麻、お前は生きよ」
阿十がゆっくりと大上段に振りかぶる。
「右京さん、先生を止めて!」
「お、俺も動けないんだ・・・」右京が脂汗を浮かべて身悶えしている。
阿十が目の前で立ち止まった。
「さらばじゃ、志麻・・・」
裂帛の気合いが道場に響き渡ると同時に、鬼神丸が鞘走った。
「鬼神丸やめてぇ!!!!」思わず志麻は目を閉じた。
ドサリ・・・と人が床に倒れた音と振動が志麻の躰に伝わった。
手には斬撃の手応えが残っている。
志麻の目から涙がこぼれ落ちた。私は敬愛して止まぬ師を斬ってしまった。
これからどうやって生きていけばいいの・・・
硬く瞑った目を開けるのが怖くて、志麻は動けずにいた。
「志麻、目を開けろ・・・」右京が言った。
「いや!」
「ちゃんと見るんだ!」
「右京さん酷い、私は先生を斬ったのよ、それを自分の目で確かめろと言うの!」
「そうだ!だって・・・先生は生きているから」
「え?」
「俺はまだ、躰が自由にならない・・・早く先生を介抱しなければ」
耳を疑った。右京は私に嘘をついているのではないか?そして自分の罪を認めさせようとしているのではないか?でも、そうだとしても、やはりこれは自分の目で確かめるべき事だ・・・
恐る恐る目を開けると、確かに阿十は倒れているがどこにも血の跡が無い。
代わりに折れた鬼神丸の刀身が三間ばかり先の床に突き立っていた。
「先生!」慌てて抱き起こした。師の躰の何処にも外傷は無い、ただ、胸に耳を当てると心臓が早鐘のように打っている。
右京もなんとか動けるようになったらしく、駆け寄って来た。
「右京さん、先生の心臓が爆発しそう!」
右京は居間へ取って返し布団を持って来た。
「この上に先生を仰向けに寝かせるんだ!躰を水平にして血の流れを楽にする!」
志麻は右京と二人で阿十を寝かせると、布団を引き摺って居間へ運んだ。
「俺は兼庵先生を呼んでくる!」
右京が道場を飛び出した後、志麻は師の名を呼び続けた。まるで黄泉の国から魂を呼び返すように。
*******
「もう、大丈夫、一過性の細動じゃ・・・」
兼庵はそう言うと、南蛮渡来の聴診器を箱にしまった。
「あれだけ言うておったに、また剣を持ったのじゃろう?」
「は、はあ・・・」曖昧に答えるしかない。
「弟子のあんた達が気をつけてやらねば、またこのような事があれば悪戯に命を縮めることになるぞ」
「はい、気を付けます」
「では、儂は帰る。くれぐれも阿十に剣を持たさぬように」
「はい、ありがとうございました」
門の外で兼庵を見送り座敷に戻ると、阿十は軽い寝息を立てていた。
「あれは一体どう言うことなのだろう?俺には先生の躰に触れた瞬間、刀が自ら折れたようにしか見えなかった」
右京が難しい顔で首を傾げた。
「私には鬼神丸を止める事は出来なかった、しっかりと手応えのようなものも感じた・・・」
「ならば、やはり刀が自ら折れたとしか考えられん」
「鬼神丸・・・私には何も言わなかった・・・」
「産女は志麻に刀を渡す時、何も言わなかったのか?」
「何も・・・」
「だったら最初から覚悟の行動だったのかも知れないな」
「鬼神丸・・・」
「今日はもう帰れ、先生は俺が看ておく」
「ありがとう、右京さん」
「今日の事は家族には言わないほうがいい」
「分かった・・・」
鬼神丸の鍔、否、鬼神丸を打った刀匠の娘の魂はこれで成仏できたのだろうか?それとも・・・
志麻は後の事を右京に託して道場を後にした。