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国語の授業は続く。健太は窓の外を眺めた。業平橋の東京スカイツリーがあそこだから、隅田川はあの辺りに流れているはずだ。川の向こう岸に祖父の製麺工場があって、父の働く本社はその少し下ったところにある。
ふと、昔は敬語を使えないと怒られたものだ、と父が言っていたのを思い出した。そういえば、藤田先生も同じようなことをたまに言う。他の大人からも聞く話だ。彼らは異口同音に、かつての美風が消えてしまった今の若者言葉に苦言を呈する。
しかしそれは、健太には理解し難いことであった。この授業がそうであるように、その「美風」を消そうとしているのは、紛れもなく大人自身なのだ。健太の知る大人はこれまで何度もそうだった。自分で環境を壊しておきながら、環境は大切ですとも言う。
しかし伯父さんは、言葉についても違った言い方をした。美風については何も語らず、相手によって言葉を使い分けていた頃のわずらわしさを話した。相手が自分よりも年上か下か、上司か部下か、売り手か買い手か、初対面か何度か会っているか、一人か大勢の前かなどを複雑に加味して、敬語を使うか使わないか、さらに使うとしたらその度合いを、そのたびに判断していた昔はひどく面倒だった、そんなことばかりに気を使っていた時代は、肝心な話そのものが今よりもお粗末だったと語った。それが、今では男言葉と女言葉の差もなくなってきているから、健太が大人になる頃には男と女が、一つの日本語で語り合っているかもしれないぞ、とも。こういう伯父さんを世間ではひねくれ者と呼ぶ。
けれど伯父さんが今の言葉を絶賛しているのかと言えば、健太にはそのようには聞こえなかった。というのは、伯父さんがかつてマスターに、こう言っていたのを聞いたことがあるからだ。敬語を使う使わないのどちらが正しいというものではない。問題は、何を目指すかだ。人間の平等を目指すのならば、同じ言葉を使うことは理にかなっているかもしれない。しかし、ではなぜ平等を目指すのか? 平等が正義というためには、その奥にある理想がはっきりしていなければならない、と。
健太はもちろん、伯父さんの言っていることが分かったわけではない。でも、ただひとつ言えることは、大人になったら伯父さんとラーメン一人前を食べながら、ビールを飲んでみたいということだ。その際、野菜炒めは麺の上に載せる。但し、マスターの料理は油が多すぎるので、できれば別な店がいい。または、頼んでもう少しおいしく作ってもらう。