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アリーセ・エリザベスとの遣り取りから感じた苛立ちを抱えたままホームに帰ったリオンは、不機嫌さを一発で見抜いたゾフィーに何があったと問われるが、ぞんざいな態度で彼女を誘ってキッチンへと無言のまま向かう。
歩くだけで穴が開くのではないかと思うような廊下を無言のまま進み中に入ったリオンは、子ども達の姿がないことを訝るように室内を見回し、その答えを得るために背後のゾフィーを振り返る。
「今日はミュラーさん家でお手伝いをして、お食事をいただけるそうよ」
「・・・・・・ああ、ミュラーじいさん、元気なんだ」
己が幼い頃も何くれとなく面倒を見てくれていた人の好い男性がいたが、その人が今もまだあの頃と同じようにここの子ども達にとって良き祖父でいてくれる事を知り、ささくれだっていた心が一瞬だけ凪いだように静かになる。
「マザーも?」
「もちろんよ。私は今日は用事があったから残っていたの」
一人だから食事の用意も何もしていないけれどあんたはどうするのと問われて考え込むように宙を睨んだリオンは、腹が減ったとだけ呟き、木の椅子を引いて後ろ向きに跨る様に腰を下ろす。
「ゾフィー、メシ」
「スープを温めるから少し待ってなさい」
幼い頃いつも腹を空かせていたリオンは、ゾフィーの姿を見つけては腹が減ったと訴え続けていたのだが、その癖は大きくなった今も変わることがないのかして、リオンの口が短い言葉で己の欲するものを伝えてくる。
そんなリオンに溜息を零して肩を竦めた彼女は、言葉通りにスープが残っている鍋を火に掛け、小さなパンとマッシュポテトやチーズをリオンの前にそっと置く。
いつもならばそれだけでも飛びついて来るリオンだが、今夜は何故か彼女の動きをじっと見つめるだけで決して手を付けようとはせず、その事に彼女が首を傾げて一体どうしたのと問いかける。
「んー・・・・・・なぁ、ゾフィー」
「何よ」
「・・・・・・・・・何でもねぇ」
苛立たしそうに舌打ちをし、己が発しようとしていた言葉を呑み込んだリオンにゾフィーがくっきりと眉間に皺を刻み、本当にどうしたと問いかける。
椅子の背もたれに顎を載せてだらりと腕を垂らすリオンの姿は、ここのホームで育ち、夢を叶えるために出て行くまでは良く見ていた光景だったが、その姿を見るのも久しぶりだと内心で苦笑し、何か言いにくいことでもあるのと優しく問えば、くすんだ金髪を掻きむしりながら苛立ちを押さえきれない声が流れ出す。
「・・・・・・セレブと付き合うってのも大変なんだな。初めて知ったぜ、ゾフィー」
「一体何があったの?」
程良く温まったスープを器に入れてテーブルに置くと同時に自嘲混じりの声がぽつりと床に落ち、リオンの口から今まで一度も聞いたことのない種類の弱音にさすがに驚きを隠せなかった彼女は、本当に何があったのだと問いかけながら椅子を引き、テーブルを挟んでリオンと正対する。
「リオン、何があったの?言いなさい」
幼い頃から笑える悪戯や決して笑って済まされない悪事を働く彼を叱りつけ、時には手を挙げて言うことを聞かせる事もあった彼女は、リオンが幼い頃と全く変わることのない口調で問い質し、なかなか返事がない事に苛立ちを感じて唇を噛み締める。
「リオン」
「・・・・・・・・・・・・なんて言うんだっけ、あれ、ほら・・・」
言いたいことが出てこないもどかしさに何度も舌打ちをし、金髪を掻きむしるリオンだったが、ぽんと閃いた言葉を自嘲に載せてテーブルにも載せる。
「身辺調査だ」
「身辺調査?どういう事・・・!?」
その一言にゾフィーが目を吊り上げて腰を浮かせ、一体どういう事なのと拳を握ると、リオンが何でもない事のように肩を竦めて煙草に火を付ける。
「どうも俺の身辺調査をしてたらしい」
「誰がそんなことをするの!?」
怒りのあまり顔色を無くしたゾフィーをガラス越しに見つめている、そんな感覚の中で見つめたリオンは、彼の家族だろうなぁと呟いて天井にぷかりと煙草の煙を吐き出す。
「それが本当だとして・・・あの人はその事を知ってるの!?」
あんたの恋人は家族が身辺調査をしていた事を知っているのかと詰め寄るゾフィーに首を傾げ、オーヴェの性格や家族間の付き合いの無さから考えると何も知らされていないだろうと答え、灰皿に煙草を押しつける。
「オーヴェは家族と不仲だから関係ないと思ってるし、今までそれで過ごしてきたんだろうけど・・・」
どうやら家族の方はそうでもなかったらしいと肩を竦め、スープが冷めてしまう前に食べ終えようとするのか、いただきますと呟いて一気にそれを胃袋に送り込むが、ここに来る前の恋人の姉との接触がもたらしたものが先に胃袋を満たしていたようで、出されたスープを半分も残すと言う、リオンのまだまだ短い人生の中で前代未聞の事をしてしまい、それに気付いた苛立ちから再度煙草に火を付ける。
「・・・・・・せない・・・っ」
「ゾフィー?」
椅子の向きを正しくした後、足を組んでぼんやりと煙草を吹かし始めたリオンの前でゾフィーが震える拳を握りしめて許せないと零す。
「家族と不仲でも・・・自分の恋人の身辺調査をさせて何食わぬ顔をしてるなんて許せない!」
数えるほどしか顔を合わせたことも無ければ口を利いたこともないあんたの恋人だが、そんなことをする家族に黙っていられる人だとは思わなかったと、怒りから来る激しい口調で吐き捨てたゾフィーにリオンが舌打ちし、知らなかったんだから仕方がねぇだろうと前髪を掻き上げる。
「あんた、それで許せるの!?」
ウーヴェとその家族に対する怒りの矛先がどうやらリオンにも向いたようで、ゾフィーがテーブルを叩いて怒鳴った瞬間、リオンが同じようにテーブルに拳を叩き付ける。
「仕方ねぇって言ってるだろうが!!」
「リオン・・・・・・」
「あいつの兄貴か親父かは知らねぇが勝手にやらせてんだろ!?だったら・・・・・・仕方ねぇんじゃねぇの?」
ゾフィーの怒りに触発されたリオンのそれだったが、あっという間に沈静化したのかそれとも奥深くに潜っただけで再度爆発する時を待っているのか波が引くように収まっていき、平静さを取り戻した顔でリオンが肩を揺らすが、ゾフィーはその顔を直視できなかった。
己の恋人が家族と不仲で連絡を取り合っているのがせいぜい姉夫婦だけである事実について、リオンは目の当たりにしたこともあるし折に触れ聞かされもしていた。
10歳の頃に巻き込まれた事件を境に家族仲が悪くなり、目には見えない溝が生まれたとも教えられたが、彼がそのつもりならばそれで良かったのだ。
彼にとって自分がただのリオン・フーベルト・ケーニヒという一人の人間であるように、自分にとっても少し性格が難しいだけの同年代の一人の男と言うだけだった。
ウーヴェがいて自分がいる。それだけで良かった。
なのに時々どうしようもなく説明のつけようのない感情が湧き起こり、昨日のように彼と自身の出自を比べ、顕著に表れる育ちの違いや収入の格差などを比べてしまって自己嫌悪に陥るのだ。
そんな己がイヤで昨日は頭を冷やす為に悲鳴を上げる心を押し殺して家に帰り、一晩中後悔し考え込んで今朝を迎えたのに、一日の終わりを迎える前に想像もしなかった形でそれを突き付けられたのだ。
考えまいとする己と目をこじ開けるように突き付けられる現実に思わず肩を揺らし、堪えきれない笑い声を上げたリオンは、傍に立つゾフィーの気配に気付いてのろのろと顔を上げる。
「・・・仕方ねぇかぁ・・・何処の馬の骨とも分からねぇもんな、俺」
「止めなさい、リオン!」
自らを卑下するなと、己の出自を貶すなと昨夜もウーヴェに言われたばかりだが、立て続けにこんな事になると陽気なリオンでさえも心に翳りが生まれてしまうらしく、その言葉をゾフィーが激しい口調で阻むと、くすんだ金髪を撫でつけながら絶対に許さないと悔しさを押し殺せない声を押しだす。
「そんな嫌な思いをしてまで一緒にいる必要などないわ!」
弟の恋人の身辺調査をするような家族がいる人とはさっさと別れてしまいなさいと、悔しさと怒りを混ぜ込んだ口調で吐き捨てられ、だからオーヴェは関係ないだろうとリオンが返すが、一緒にいれば一事が万事この調子よと決めつけられてしまい、思わずゾフィーの手を振り払って叫んでしまう。
「何でゾフィーがそんな事を言うんだよ!!」
さすがにこれはリオンも我慢できなかったようで、世界中で誰よりも自分を知り理解してくれている筈のゾフィーがどうして別れろなどと言うんだと、手を押さえて呆然とする彼女を睨んで吐き捨てる。
リオンの様子から己が踏み込んではいけない場所に土足で踏み入ってしまった事に気付いたゾフィーは、ごめんなさいと己の非を素直に認めて小さく詫びる。
彼女にしてもリオンを思ってのことであって、怒らせるつもりは毛頭なかったのだ。
彼女がもう一度謝罪をして何かを堪えるように唇を噛みしめたかと思うと、くるりと踵を返してキッチンから出て行こうとするが、その直前にドアが静かに開いて穏やかな声が二人に投げ掛けられる。
「一体どうしたのです?廊下にまで聞こえていて子供達が怯えていますよ」
もう少し冷静になりなさいと、厳しさと優しさを絶妙な具合で混ぜ合わせた目で見つめ、胸の前で手を組んでいるのはマザー・カタリーナだった。
「マザー・・・ごめんなさい。少し興奮しちゃったわ」
「そうなのですか、ゾフィー?」
「ええ。でももう大丈夫。子供達の所に行って来ます。────ごめんなさい、リオン。でも・・・私はやっぱり許せないわ」
別れろと言ったのは反省するが、それでもやはり身辺調査をさせるのを黙認している人は許せないわと断言し、リオンが何かを言いかける前にキッチンから出て行ったゾフィーだったが、廊下で怯えたように待っていた子供達に打って変わった笑みを見せ、駆け寄ってきた子供を抱き上げて今夜の手伝いについて問い掛けるのだった。
皆が一同に集まれる広い部屋に向かった事を遠ざかる子供達の声から知ったリオンは、苛立ちを煙草にぶつけるように灰皿で揉み消し、間を置かずにもう一本を取りだして火を点けようとするが、そっと伸ばされてきた皺が目立ち始めた小さな手に押し止められて顔を上げる。
「どうしたのですか?」
私にお話出来ますかと問われ、煙草をテーブルに投げ出したリオンは、頭の後ろで手を組んで椅子を軋ませながら背もたれにもたれ掛かる。
「マザー」
「何ですか」
ゾフィーが座っていた椅子に腰掛けて真っ直ぐにリオンを見つめるマザー・カタリーナにぼそぼそと聞き取りにくい声でリオンが呟くと、少し間があるが優しい温もりを感じさせる声が名を呼ぶ。
「リオン。ゾフィーと何の口論になったのですか?」
「・・・・・・今まで色んな人と付き合ったけどさ、身辺調査なんて始めてされちゃったぜ、マザー」
「そうなのですか?」
「うん。オネエサンの顔色が変わったから、多分間違いは無いと思う」
「オネエサンとはどなたのことなのです?」
椅子をギシギシと軋ませながら身体を前後に揺らし、オーヴェのお姉さんと天井に向けて呟き、がたんと激しい音をさせて椅子を正しい姿勢に戻すとその勢いをかって腕をテーブルに叩き付ける。
「身辺調査をする家族がいる恋人などとは別れてしまえって・・・!」
己を最も理解し見守ってくれていると思っていた彼女の口からは決して聞きたく無かった言葉を聞かされ、その事に対してのみ怒りを覚えたリオンが怒鳴ったのだが、思い出すだけでも腹が立つのか、握った拳が微かに震えている。
その震えも怒りも悔しさも総てを感じ取ったように目を伏せたマザー・カタリーナは、そっと目を開けて歯軋りをするリオンの頭を見つめてもう一度名を呼ぶ。
「リオン、あなたが今本当に腹を立てているのは誰に対してなのです?」
「え?」
「お姉さんにですか?それともゾフィーにですか?」
それとも、彼女が言うように恋人の身辺調査をする家族がいるバルツァーさんをですかと問われてぽかんと口を開けたリオンは、怒りのあまり浮かび上がっていた尻を椅子に落とすと、ぽつりと問いをテーブルに落とす。
「・・・誰に対してだろ・・・」
「バルツァーさんにですか?」
「違う!!何で今更俺の事を調べなきゃならねぇんだ?俺がここで育ってどんな事をしてきたかも・・・ある程度は知ってる」
互いの過去を知りたいと願いつつも互いにそれを口に出す事に激しい嫌悪感と躊躇いを覚えている為に断片的に伝える事しか出来ず、その事で何度か口論になったこともあった。
二人で歩く為の地固めとして必要な口論を乗り越えてきたのだ、今更どうしてリオンの調査などする必要があるのか。
その必要があるのはウーヴェ自身ではなく、最も近い場所にいるであろう家族や親族ではないのか。
己の考えを訥々と告げながら俯いたリオンは、マザーの優しい手が組み合わせた手に重ねられたことに瞬きをし、自分の考えは間違っているのだろうかと呟くが、マザー・カタリーナの頭が左右に動いた事に安堵の溜息を吐く。
「ならば、彼のお姉さんですか?」
「・・・・・・腹が立つっていうか・・・ああ、本当に金持ちなんだなーって思い知らされた」
「どうしてです?」
「んー・・・恋人の身辺調査をするなんてさ、ドラマとか映画の話だと思ってた」
良くある古い物語では身分差による悲恋が仰々しく描かれていたり、現代であっても生まれた国によって言われない差別を受けて別れなければならない事情を悲しく描いているが、そんな話やそれ以外のものでの身辺調査と言えば己の職種に関わってくる様な事柄ばかりだった。
己の恋人は確かに地位も金もある程度の名声も持っているが、あの広い家で二人きりになった時や、恋人の家の廊下と同じ広さしかない自分の部屋でテレビを見ながら寛いでいる時などは本当に居心地が良くて、自分達の間には地位も名誉も金も存在せず、ただ互いを想う気持ちだけが溢れていたのだ。
それなのに突然やって来た姉によって心理的に引っかき回されて苛立ち、頭を冷やすために離れた翌日にまさかの遭遇を果たしてしまい、抑えながらも毒を吐いてしまったのだった。
「バルツァーさんはその事を知っているのですか?」
「してると分かったらすぐに止めさせるように指示すると思う」
「そうですね・・・あなたから聞いたお話や直接お話をした時に感じた印象は、彼は人を公平に見ている、そんな真っ直ぐな姿でした」
マザー・カタリーナの声にリオンの身体中に巡らされていた無意識の緊張が一気に解れたのか、テーブルに突っ伏して頭を抱えてしまう。
「マザー・・・っ!」
昨夜は何とか己の中で思いを纏め上げて後悔もし、また次に同じような事にならない為にどうすれば良いのかも考えた筈なのに、自分たちが知らない間に調査をされたという事実がリオンの中では予想外に深い場所の何かを抉ったらしく、掠れた声でマザー・カタリーナを何度も呼ぶ。
「まずあなたがしなければならないのは、その調査とやらをバルツァーさんに伝えることではないのですか?」
「でも・・・」
「彼を信じている、あなたは以前そう言っていましたね?」
だったら今回の事もちゃんと話し合い、事実が何処にあるのかを見極めなければならないのではありませんかと、優しさと厳しさが同居する声に諭され、顔を上げたリオンの横にマザー・カタリーナが静かに立ち、最も手が掛かった子供の成長を優しく見守る母の顔で頷いてリオンの頭をそっと抱き寄せる。
「・・・そう・・・言ったっけ、俺。・・・うん、言ったよな」
「ええ。それだけは忘れてはなりませんよ、リオン・フーベルト」
愛する人を信じる心を忘れてはなりませんと優しく諭しながら、子供のようにしがみつくリオンの髪を何度も撫で、もしもその調査があなたの過去を調べる為に行われたのだとすれば本当に残念なことですねと、彼女自身も傷を負ったような顔で己の息子を慰める。
「オーヴェは疑ってねぇし、調べられたことは腹が立つけど・・・・・・」
でも、どれだけ腹を立てたとしても、それを実行させたのは愛するウーヴェの家族なのだ。
その事実が重く心にのし掛かるのをしっかりと見抜いているマザー・カタリーナがリオンの髪を撫でる事で少しでもそれを軽くしようとしているようで、リオンが少しだけ甘える様に身体を傾けると、ウーヴェとはまた違う優しさで受け止められる。
「俺はマザーにも職場のみんなにもオーヴェと付き合ってることを話してるけど、オーヴェは誰にも話をしてない」
それが酷く寂しかったんだと、怒りと嫌悪といった負の感情の下に沈み込んでいた寂寥感にようやく気付いたリオンがぽつりと呟き、誰にも話をしていないのですかと問われて無言で頭を振る。
「そうなのですか?」
「うん」
「あなたと彼が良く行くレストランの名前は何でした?」
今話題にしている事とは全く関係のない事を問われ、目を丸くして顔を上げたリオンは、真剣な顔で見つめてくる彼女に息を飲んでゲートルートと答えると、そちらのオーナーは彼の幼馴染みで、あなた達の付き合いを知っているのでしょうと問われて絶句する。
「違いますか、リオン?」
「・・・知ってる」
「では、彼のクリニックで事務をされている方はどうなのです?」
マザー・カタリーナの言葉に脳裏に思い描いたのは、場所も弁えずにウーヴェをハグしてキスを強請り、それを目撃してしまったオルガに睨まれた後、ウーヴェにも睨まれた場面だった。
「知ってる」
「誰にも話していないと言うわけでは無さそうですね」
きっと彼には彼の事情があり、あなたとは違うペースがあるのでしょうと諭されて更に目を瞠ったリオンは、またしても自分だけが焦ってしまった事に気付き、前髪を掻き上げて自嘲に顔を歪める。
「まーたやっちまったかぁ・・・・・・」
どうしてこうも馬鹿なんだろうと自嘲し、いつもウーヴェやヒンケルに馬鹿だと言われるのも仕方がないと肩を揺らしたリオンは、一頻り己を笑い飛ばした後、両手で頬を勢いよく叩くとそのまま立ち上がる。
「ダンケ、マザー!」
己の過ちを気付かせてくれてありがとうと、素直な心で感謝の思いを伝えれば、この時初めてマザー・カタリーナの顔にリオンを自慢に思う、そんな笑顔が浮かび上がる。
「リオン・フーベルト」
「Ja」
「前にもお聞きしましたね。─────あなたは、あなたの愛する人を信じられますね?」
あれは何のことで口論になった時だろうかと思い出し、ああ、あの頃から自分は全く成長していないと反省をしたリオンだが、きっとこれからも自分は同じ事で悩み苦しみ、こうして周りの人々の手助けを受けて行くのだろうと気付き、もう一度マザー・カタリーナに感謝の思いを伝えた後、もちろんと力強く頷き、拳を掌に打ち付ける。
「それと、どうかゾフィーを許してあげて下さい。あの子はただあなたが心配なだけなのです」
「・・・・・・うん、それも知ってる。謝って来ようっと」
さっきは自分もかなり感情的になったと苦笑し、今この孤児院で暮らしている子ども達と一緒にいる姉とも慕う彼女の元へと向かったリオンは、さっきの気配を微塵も感じさせない顔で子ども達の輪に飛び込み、ゾフィーが呆れ返ってしまうような顔で一緒になって遊ぶのだった。
その後、子ども達が満足して眠りに就くまで一緒になって遊び倒したリオンは、疲れを滲ませるゾフィーに労いのキスをした後、さっきは悪かったと素直に詫びるが、だけどやっぱりマザーとゾフィーにだけは自分の恋人の事を理解して欲しいと苦笑混じりに告げる。
「それは・・・分かってるわ。私も言い過ぎたって反省してる」
でも相手の過去や身辺を調べるような家族がいる相手だといつか悲しいことになりはしないか、それだけが心配だとゾフィーがぽつりと告げた途端、リオンが太い笑みを浮かべて彼女の身体に腕を回す。
「安心しろよ、ゾフィー。そんなことにはならねぇって!」
「・・・そう?」
「もちろん!」
だからそんな不安を先読みして己を防御するような寂しいことを言うなとも告げ、柔らかな細い身体を抱き締めたリオンだが、あんたの事だから何かとんでも無い事をしでかして捨てられるかも知れないわねと憎まれ口を叩かれて絶句する。
「・・・・・・ひでぇな、ゾフィー」
「そうならないように、しっかりやりなさい!」
叱咤激励をするように腰に拳を宛って上体を折ったゾフィーにリオンがぶつぶつと文句を垂れるが、マザーもゾフィーも驚くほど幸せになってやると力強く宣言し、今日はこれで帰ると告げて彼女を驚かせてしまう。
「もう時間も遅いんだから泊まって帰れば良いじゃない」
「んー。暫くはお姉さんがいるみたいだからいつでも来られる。だから今日は帰るな。じゃあな、ゾフィー。お休み」
「んもう・・・お休みなさい、リオン」
お互いの頬にキスを残し、また明日と互いの背中をぽんと叩きあうと笑顔で見送るゾフィーに手を挙げて煙草に火を付けつつ外に出る。
雪が残る道を歩きながら今日の出来事を振り返ったリオンは、一日の締めくくりを忘れていた事を思い出し、携帯に残されたほとんどの履歴と同じ番号に電話を掛けると、ホームに帰る前に恋人の姉と繰り広げたやり取りが脳裏を過ぎる。
どのような理由から己の調査をしたのかは不明だが、マザー・カタリーナが言うように恋人にそれを確認しても良いだろうかと悩み、もしもそれを告げたことで彼が酷く悲しむ事になるのならば、今回の事は己の腹にだけ収めておこうと決め、いつもと変わらない陽気な声で名を呼ぶ。
「ハロ、オーヴェ」
仕事お疲れさまと優しい労いの言葉に事情を軽く説明し、自分のことについて何か言っていたかと問いかけると、何のことだと心底何も知らない声が問い返してくる。
何でもない、気にするなと声を弾ませてはぐらかそうとするが、不意に今目の前にウーヴェがいない事実に胸が締め付けられたような苦しさを感じてしまう。
付き合いだして色々な事を経験し、気が付けばウーヴェの家で夜を越え朝を迎える事が当たり前になっていた。そんな日々から以前のように何処かで逢って食事をして別れていた頃に戻れと言われても到底戻れるはずが無かった。
その苦しさに拳を握ったリオンは、白く光る細い月を見上げ、その柔らかな光から恋人の顔を思い浮かべると、逢えない寂しさに押しつぶされそうな声で呟いてしまうが、同じ思いが込められた声が返されて、まるでたった今見上げた月が返事をしたような錯覚を抱いてしまう。
『もう少しだけ、待ってくれ』
その言葉に素直に頷いてうんとだけ返した後で口を閉ざしたリオンは、満月に比べれば頼りないがそれでも明るい月を見上げて目を細める。
その時流れ込んできた早口の告白に胸の奥深くを抉っていた傷がじわりと治癒の痛みをもたらしたようで、小さな痛みを覚えて目を閉じるが、電話が切れる前にゆっくりと同じ言葉を口にする。
今日一日の仕事の疲れを労い、明日もお互い頑張ろうと力を分け与えあった後、そっと携帯をブルゾンのポケットに戻して短くなってしまった煙草を街灯の灰皿に投げ捨てる。
己の身辺調査の理由が何処にあるのかをウーヴェではなく彼の姉に直接問い質すにはどうするべきかを思案しつつもう一本煙草を取り出して火を付けると、ホームに向かった時とは打って変わった明るい表情で暗い夜道を歩いていくのだった。
そんなリオンの姿を遙か上空から細い月が、まるでいつも彼を見守る人と同じように静けさを湛えて見下ろしているのだった。