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「レモニカ様? 足元にお気を付けください」ソラマリアの気遣わしげな声を耳にして、レモニカは夢から覚めるように我に返る。「やはりこの組分けがご不満ですか?」
レモニカとソラマリアは二人きりでクヴラフワ東部のシュカー領を行く。もはや残留呪帯は遥か背後に遠のき、どこへ続くのか定かではない廃れた街道を行く。
かつては整然として人々や馬車、物資と情報の道行きを支え、名高い盗賊王バダロットや不死の王とその伴侶岬を照らす星、滅びに瀕して救われたという最初のシシュミスの信徒たちが歩んだという歴史ある石畳はもはや生気を失った老人の肌のように割れて崩れ、罅割れの隙間から死者の指のような枯れた草が茂っている。北も南も生者の近づくことのないうら寂しい陰気な湿地だ。ところどころに生命のいない浅い水場が点在し、生きていても生気のない葦や菅が疎らに生えた黒ずんだ土地がずっと広がっている。古くは乾いた大地だったが、あまりに広大な封呪の長城の建設によって天地の営みは大いに狂い、湿り気がこの土地を占拠するに至ったのだった。
使命を忘れて荒廃していくばかりの道路に足を取られ、ソラマリアに支えられ、レモニカは取り留めのない物思いから戻ってくる。
「やはりって何よ。ご不満だけど、別に気にする程ではないわ。それより驚きの方が勝ったわね」
「驚き、というと? それほど変わった組分けとも思えませんが。大王国の関係者である私たち。母子三代。……ベルニージュとグリュエーは共通点が思い浮かびませんが。ベルニージュの方はグリュエーに興味津々のようでしたね」
暇があれば質問攻めするベルニージュをレモニカは思い浮かべる。
「グリュエーというより魂を分割する妖術に、という気がしたけれど。そこじゃなくて貴女に対する評価よ。ベルニージュさまとジニさまという強力な魔法使いが二手に分かれるのは分かるけれど、次点が貴女だなんて。ユカリさまだったなら、今頃……」とレモニカは責めるようにソラマリアを凝視する。
「申し上げにくいことですが、ユカリに後れを取るとすれば空に退避された場合くらいのものです。それも私の氷の槍の射程ならば――」
「それ以上申し上げなくていい。そもそもわたくしはそういうようなことを考えていたわけではないわ」
「では何を?」
レモニカは話しながら嘘をつく。「ちょっと、慣れなくてね。つまり、この体によ。わたくしの本当の体だというのに。まあ、いつもユカリさまに変身してもらって触らせてもらうわけにもいかないものね」
それも一部本当のことではあったが、レモニカは慣れない体を取り扱うこと自体にもう慣れていた。
そして実際にレモニカが思いに耽っていたのは兄ラーガに聞かされた予言に、だった。
『仮初の実りは客を満たさない。真の実りは地に散り落ちる』
最も近くにいる者の最も嫌いな生き物に変身する呪いから解き放たれた際に死ぬと解釈される予言だ、と兄ラーガに教わった。ラーガはこの予言は加護だとも言っていた。つまり、呪われている限り決して死なないのだ、と。レモニカには何の慰めにもならなかったが。
初めは絶望したレモニカだが、何か方法があるはずだと考えなおした。少なくとも魔法少女に触れている時や蒼玉の指輪の魔導書で変身している時は本来の姿に戻れるのだ。それに呪いの結果ではあるがソラマリアの傍にいる時も、だ。そして未だ死にはしていない。同様の例外が他にあるかもしれない。
「普段あまりその指輪を使って元の姿に戻られないのは何か理由があるのですか?」
不躾な質問だと思いつつレモニカはと胸を突かれる。ユカリに触れる方法はユカリへの遠慮があるからだ。頼めば断られることはないだろうが、煩わしく思われたくない。しかしこの指輪に関しては誰に迷惑をかけることもない。ならばなぜ自分は己の真の姿をおざなりにするのか。
ソラマリアはレモニカの虚を突くと同時に真を突いた。心の内で強がってみてもやはり実際のところレモニカは予言を恐れているのだ。いまや自分自身の本当の姿に戻ることを恐れてしまっているのだ。
「別に。結局のところ、この呪いには慣れてしまったのよ。なんてことないってわけね。わたくしが怯えさせてしまった人々には申し訳ない気持ちでいるけど。その心配がない時にわたくしが罪の意識を感じる必要なんてないもの。つまり苦しめている相手がいないのに罪悪感を覚える必要がある?」
それはソラマリアに対して言ってもいた。が、大陸一の剣士は困惑した様子で微笑むだけだった。
はたしてソラマリアはなぜ予言のことを黙っていたのだろうか。なぜ呪いを解けば死ぬということを黙っていたのだろうか。レモニカは湧きあがりかける恐怖に蓋をする。
二人は四つ辻に行き当たり、古い立札を見つける。何度か補修された跡があり、東西南北の行き先にある街や村の名が連ねて書いてある。よくよく東南北への道を見ると崩れた石畳が再び踏みしめられて平らになっていることに気づく。特に東への道が比較的人通りが多いらしい。
東の道の先にあるのはかつての偉大なる都、グレームル領の中央都市ビアーミナやケドル領のカードロアにも比肩する屍使いの屍たちが築いた大都市、旧シュカー侯国首府屍宮だ。
ここからはまだその姿は見えないが、代わりに東への道の先から誰かがやって来る。幾人かの男性と女性、馬車をひく馬。レモニカとソラマリアは警戒するが、どうやら行商人のようだった。ようやく人に会えて話しかけようとした矢先、異常に気づく。
足音が聞こえる前に腐臭が届いた。行商人たちは石灰のように色褪せ、轅を曳く馬までも毛が抜けて血の気のない素肌が顕わになっている。比較的まともといえるのはがたついた馬車と乱雑な積み荷くらいのものだ。まるで冥府の使いを思わせる忌まわしい姿の者たちが歩を早めも緩めもせず近づいてくる。
ソラマリアがレモニカを背に追いやり、構えはしないがいつでも剣の柄に手をやれるよう警戒する。少なくともやってくる者たちに殺意や敵意はないようで、陽気な話し声まで聞こえてくる。そして親しげに挨拶される。
レモニカたちも無難に挨拶を返すが特にそれ以上の交わりもなく行商人らしき一行は北の道へと歩き去って行った。
「あれが話に聞いたシュカー領の呪い、『年輪師の殉礼』ですね」ソラマリアは特に感慨もない様子で生者の住まう地上を歩き去る死者の背中を見送る。「死者の魂を呼び戻しているわけではなく、ただ生前と同様に振舞わせる呪いだそうですが。一体戦争で何の役に立つんでしょうね?」
「死者たちにさせられることによっては役に立ちそうではないかしら? それこそ兵士として利用できるなら厄介だわ。そもそも屍使いとはそういうものでしょう?」
ムローの都にたどり着くはるか前からその威容を目にする。白っぽい日干し煉瓦を積み重ねた背の高い建築物はネークの塔には及ばないが針山の如く数限りなく林立していた。外縁に立ち並ぶ高圧的な監視塔。地下水を組み上げている取水塔。貴き者たちが君臨した宮殿の塔。シシュミスに捧げられた神聖な塔。そのうえ都市全体が緻密に設計されていたらしく、まるで空に描かれた巨大な幾何学模様のようだ。往時は塔から塔へ橋や索道が渡されていたらしく、そのほとんどが崩れ、棄損しているが辛うじて空に繋ぎ止められている橋や吊り籠がある。閉ざされた窓はどれも小さめで、木の窓蓋には黴が生えている。柱や梁には、まるで糸を束ねたような肌理細かな溝が彫刻されている。
「まるで蜘蛛の巣ね」とレモニカはぽつりと感想を述べる。
緑の空に仄光る八つの太陽と目が合ったような気がした。
ムローの都に近づいてみればクヴラフワのどこよりも活気があった。都を出入りする者たちは後を絶たず、とても滅びた国には見えない。そのほとんど全てが死者による活気だったが。
何より目についたのはライゼン大王国の調査団らしき天幕だった。都の外に陣取ってはいるがレモニカたちには予想外だった。シュカー領はクヴラフワの東方地域。いまや封呪の長城に隔てられているとはいえ、シグニカ統一国に境を接している。ビアーミナ市の中でそうであるように、クヴラフワの東西で機構と大王国が二分しており、接近しないのが暗黙の了解だと思っていた。確かにバソル谷では小競り合いがあったが、それも極力関わり合いにならないようにしているからこその摩擦のはずだ。
しかもその天幕は兄ラーガの天幕だった。ビアーミナ市で顔を合わせた直後に先んじて出発していたらしい。
「大王国の調査団ということは、ここにも巨人の遺跡があるってことよね?」
「ということになりますね。いかがいたしますか?」とソラマリアに尋ねられ、レモニカは少し考える。
無視するわけにもいかない。ソラマリアが罰される心配は杞憂に終わったので厭う理由もない。
「今思い出したのだけど、そういえばお兄さまが貴女にお話があるそうよ」
「私にですか? 何の話でしょうか?」
「さあ。貴女個人への話だからわたくしには話せないと仰っていたわ」
「ラーガ殿下と私に関係あることというと、ヘルヌスくらいしか思いつきませんね」
ふと兄ラーガが女であることについてソラマリアは何か知っているのだろうか、と疑問に思うが知っていてかつ教えても構わないなら今まで黙っていたりはしないだろうと思い直し、レモニカは天幕の方へと足を向ける。