あの男の音を初めて聞いたのは、もうずいぶん昔のことだ。大正の終わり、まだ路面電車の音が街の賑わいを彩っていた頃、薄暗い喫茶店の片隅で、彼がただ指でカップの縁をなぞる、その無意識の所作から生まれた、澄んだ残響。それが始まりだった。
彼はいつも、どこか所在なさげに、しかし内には深淵な集中を宿した目で、身の回りにある「何か」を楽器に変えた。煤けた路地裏の錆びた水道管、銀座のモダンなショーウィンドウのガラス、解体されかけの西洋建築の梁。彼の指が触れると、それらは命を得て、私だけが聞き取れる旋律を奏でた。そこには喜びも、悲しみも、怒りも、明確な感情は見て取れない。ただ、音そのものが純粋に在るだけ。その無表情な顔が、かえって彼の内なる音の世界の広大さを物語っていた。
私は作家だ。言葉で世界を紡ぐことを生業としている。だが、彼の音を聞くたびに、言葉の無力さを思い知らされた。ラジオが家庭に入り込み、電気蓄音機がより豊かな音を届け始めた時代にあって、彼の奏でる音は、そんな機械仕掛けの再現とは一線を画していた。意味や感情を超越し、魂の奥底に直接響くものだった。彼はその音を世に問うことなど、微塵も考えていない。承認欲求の欠片もない。ただ、奏でるという行為そのものが彼にとっての宇宙なのだ。それが、私にはもったいなくてならなかった。この奇跡のような音を、誰にも知られずに終わらせていいはずがない、と。
私は密かに彼を追い始めた。決して声をかけることはしない。彼の日常を遠くから観察し、彼の音が聞こえる場所へと赴き、耳を澄ませた。雨の日の静謐な音、夏の終わりのけだるい音、雪が降る夜の澄み切った音。彼の音は季節や時間、そして彼の人生の無意識の動きと同期しているようだった。私は彼の音から、彼の人生を想像し、言葉に置き換えていった。彼の生い立ち、彼の喜び、彼の孤独。すべては私の想像に過ぎないが、彼の音という確かな手がかりがあった。
ノートには、彼の姿と、彼の奏でる音が五線譜のない楽譜のように書き連ねられていった。時には彼の音のあまりの美しさに、ペンを持つ手が震えた。ある日、古びたオルガンが置かれた廃教会で、彼が鍵盤に触れているのを見た。埃を被ったそのオルガンは、彼の指が紡ぎ出す旋律によって、まるで数世紀の時を超えて響く賛美歌のようだった。彼の無表情な顔が、その時だけは、ほんの少し、恍惚の表情を浮かべていたように見えた。
彼の生涯を書き綴ることは、私自身の音を探す旅でもあった。彼が世を去ったという知らせを、誰から聞いたわけでもなく、ただ、音の途絶えで知った。もう、彼の音はどこからも聞こえてこない。私は書き上げた原稿を抱きしめた。これは、彼が望まなかった、彼の人生の記録だ。だが、私の心の中では、彼の音は決して消えることはない。そして、この本を手に取った誰かの心にも、きっと響き続けるだろう。