「おはようございます」
「おはよう、蓮ちゃん」
翌朝、秘書室に初出勤すると、葉子はもう来て、お茶の用意をしていた。
「すっ、すみません。
いつもより早く来てみたんですが」
まだ早い方がいいようだ、と思い、時計を確認する。
「あら、違うのよ。
私はバスと電車の乗り継ぎの都合で、ずいぶん早くに着いちゃうだけなの」
気にしないで、と葉子は笑う。
「早めに来て、此処でお茶飲んだりして、くつろぐのが好きなの」
そこで声を落として、葉子は言った。
「此処では、いつも気を使ってばかりじゃない?
だから、此処で一人がお菓子とか食べたり、たまに本を読んだりして自由に過ごすと、なにかこう、やってやったっ、て感じがしてスッキリするの」
だから、早く来なくてもいいのよ、と言ってくれる。
ほんとやさしくて可愛い人だな、と思う。
自分もこんな先輩になりたいなと思ったが、派遣社員なので、いつ、違う会社に変わるかわからない。
残念だな、と思っていた。
「おはようございます」
と葉子が振り向き、挨拶した。
「おはようございます」
現れた脇田に深々と頭を下げると、脇田が笑う。
「おはよう、秋津さん。
渚にはともかく、僕にはそこまでかしこまらなくてもいいよ」
そこで声を落として―― だが、葉子も聞きたがっているからだろう、ちゃんと彼女に聞こえる声で、脇田は言った。
「夕べ、渚、いそいそと帰ってったけど、君んちに行った?」
蓮も気持ち声を落として言う。
「来ましたよ、菊の花を持って」
ぷっ、と葉子が吹き出した。
「なんで菊の花」
と葉子が言う。
「いや、それしかなかったそうです。
その前は、しきみで」
「それってあれじゃない?
共に墓に入るまで、一緒に居ようってプロポーズだとか」
と言って葉子は笑っている。
いや、あの人、意外となんにも考えてないですよ、と思っているうちに、渚が来た。
おはようございます、と三人が頭を下げる。
「おはよう」
と返す渚は特にこちらを見もせずに、行ってしまう。
仕事で頭がいっぱいのときは、私のことなど、丸投げですね、とちょっと恨みがましくその背を見送った。
昼休み、会食用に仕出し弁当を手配したついでに、自分たちの分も頼んだので、手が空いてから、秘書室で食べることになった。
「こういうのって見た目はともかく、味はいまいちなことが多いけど、此処のは美味しいですね」
と葉子に言うと、
「でしょー?」
と葉子は勝ち誇る。
それで一緒に頼もうと誘ってきたようだ。
「手配と言えば、夜になってから、コンビニで菊買ってこなくても、他の時間に手配しとけばいいような気がしませんか?」
そう花のことで、葉子に愚痴った。
菊やしきみに不満があるわけじゃなくて。
……いや、あるが。
一番の問題はそこではない。
「絶対、仕事終わるまで、私のことなんて、ケロッと忘れてるんですよ。
それで、暇になったから、急に思い出して、おお、忘れてた。
まあ、あいつにやるのなんか、この仏壇の花でいいかって」
「あの、蓮ちゃん、後ろ……」
と葉子が苦笑いした。
振り返ると、渚が立っていた。
「いや、その時間までお前のことを考えてないわけじゃないんだが」
と言ってくる。
いや……忘れてますよね、完全に。
わかっている。
そんな呑気な仕事でないことくらい。
「いいんですよ、別に」
ちょっと愚痴っただけです、と蓮は言った。
「それに、仕事してる渚さんはちょっと格好いいかなって思いますし」
「じゃあ、好きか?」
「……どうしてそう、結論を急ぐんですか」
と言うと、
「考えてるよ」
と渚は言う。
「仕事中もお前のことを。
早く会いたいと願ってる」
いや、会ってますけどね、今も、と思っていると、その考えを読んだように、
「いや、二人きりでだ」
と言ってくる。
だが、すぐになにか思い出したらしく、なにも言わずにさっさと社長室に戻っていってしまった。
これだからな、もう~と振り返り、見ていたのだが、扉が閉まった途端、
「やだーっ」
と葉子が叫ぶ。
き、聞こえますよ、と思ったのだが、休み時間だからいいのか、葉子は、かまわず叫んだ。
「いいじゃない。
いいじゃない。
正直言って、社長、幾ら男前でも、あんまり女性にマメじゃないから、結婚相手としては、どうなのかなって思ってたんだけど」
そんなこと思ってたんですか……。
「やだ、ちょっと録音しときたかったわ、今の。
宗ちゃんにも言わせたい~っ」
「誰ですか、宗ちゃんって」
と言うと、
「浦島さんの彼氏だよ」
といつから居たのか、戸口に居た脇田が言ってくる。
「なんと、大学生」
「犯罪ですよ!?」
未来と同じくらいではないか。
大学生とは言っても、まだ小僧といった感じの子も多いので、落ち着いた葉子とは合わないのではないかと思ったが、そうでもないようだ。
「まー、たまに疲れるんだけどね。
なにもかもこっちにおんぶに抱っこだから。
でも、そんな中で、たまに、葉子さん、疲れたら、僕に寄っかかっておいでよ、とか言われたら、もう、貢《みつ》いじゃうーって感じなのっ」
「……貢いでるんですか?」
そこでいつものように冷静になって葉子は言った。
「いや、私は将来のために貯蓄してるから。
彼の方がアルバイトして、食事代とか出してくれてるわ」
そ、そうなんですか……。
「私、浦島さんの彼氏は、なんとなく、脇田さんみたいな人かと思ってました」
と言うと、何故か、二人は声を合わせて、いやあ、と否定してくる。
「浦島と一、二回、食事に行ったことはあるんだけど」
と脇田が、さん付けでなく、葉子を呼んで、そう言った。
「ま、合わないな、と思って」
と二人同時に言う。
だからね、と葉子が笑って言った。
「釣り合うとか釣り合わないとか、そんなこと考えて付き合っても駄目だと思った。
脇田さんには、蓮ちゃんみたいな子の方が合う気がするわ」
そんな葉子たちの話を聞きながら、仕事仲間として合う、というのと、そういうのは違うんだなあ、とぼんやり思った。
殴ろうかな、浦島……。
流れに合わせて笑いながらも、脇田はそんなことを思っていた。
『脇田さんには、蓮ちゃんみたいな子の方が合う気がするわ』
いやいや、手に入らないものを勧められても困る。
そう思ったとき、ふと蓮の足首が目に入った。
目立たないタイプの絆創膏が貼ってある。
「まだ治らないの?」
とそこを見ながら訊くと、
「ああ、でも、ちょっと擦っただけですから」
と蓮は笑った。
「脇田さんは大丈夫ですか?」
と問われて、うん、と言う。
結局、あれが蓮の部屋に行った最初で最後だったなと思う。
あのあとは、渚が入り浸ってるから。
忙しいのにご苦労なことだ。
頼まれれば、蓮が好みそうな花の手配くらいしてやらなくもないのだが。
プライベートなことなので、向こうから言ってこない限りはするつもりはない。
『じゃあ、えーと。
……コンビニ弁当半分こと昨日の残りでどうですか』
あのとき、照れ臭そうに言った蓮の顔を思い出す。
というか、あれから何度も思い出している。
渚にも言っているのだろうか。
『コンビニ弁当と昨日の残りでいいですか?』
平気で言いそうだな、と思い、笑うと、蓮が、なんだろう? という顔でこちらを見ていた。
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