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第28話:見違えるほどの淑女、その第一歩
目が覚めて、なぜか鏡を覗き込んだ。朝の光が薄く差し込む寝所で、寝乱れたままの自分の姿が映る。
案の定、ひどい有様だった。伸ばしっぱなしの白髪があちこちで跳ね、寝ている間についた癖がそのまま形になっている。何年も気にしたことなどなかった。今更誰に見せるものでもない、どうせ髪自体の重みであらかた整う、生活に支障がなければそれでいい。
そう思ってきたはずだった。
それなのに、気づけば指先は勝手に卓上の櫛へと伸びていた。一房、また一房。丁寧に梳いていくと、暴れていた髪はいつもより幾分か大人しくなる。ただそれだけのことに、なぜか少しだけ安堵している自分がいた。
(……陛下が娶るというのなら、仕方ありません。見苦しい格好で隣に立たれては、困るのは陛下でしょうから)
けれど、髪一つを整えるだけでも、これほど手間取る。ましてや、言葉遣いや作法となれば、独学でどうにかなる範囲を明らかに超えている。付け焼き刃で恥をかくくらいなら、最初から専門家に頼る方が早い。
適任者は、一人しか思いつかなかった。
その日のうちに、私は椿様の私室を訪ねた。前置きという前置きもなく、単刀直入に用件を切り出す。
「言葉遣いと、作法を、一から教えていただきたいのです」
椿様は、扇を持つ手を止め、しばし呆気に取られたように私を見つめた。
「……あの薬師殿が、わたくしに頭を下げて教えを乞う日が来るとは。失礼、少し驚いてしまって」
驚くのも無理はない。少し前までの私ですら、こんなことは考えもしなかっただろう。かつて自分を「田舎から来た薄汚い娘」と見下していた相手に、こうして頭を下げる日が来るとは。
「陛下は、私を本当に皇后にするおつもりのようです。……それならば、最低限の体裁くらいは整えておくべきでしょう。恥をかけば、陛下の治世に傷がつきます」
椿様は、しばらく私の顔をじっと見ていたが、やがて得心したように頷いた。
「そう。それは、大変結構な心掛けです」
扇を閉じ、目元を柔らかく緩める。
「治療の恩は、こういう形でも返させていただきますわ」
こうして、私の急ごしらえの淑女修行が始まった。
稽古は、思っていたよりずっと難航した。扇の開き方一つ、お辞儀の角度一つ、椿様に指摘されるたびに、自分の身のこなしがいかに粗雑だったかを思い知らされる。淡々と処置を告げる口調は染み付いているが、それを「上品に」言い換える技術は、まるで別の言語を学ぶようなものだった。
(……これは、思っていたより骨が折れますね)
それでも、必要なことだ。やるしかない。
すると、数日も経つ頃には、私自身が驚くほどの速さで、身体が「作法」を取り戻していくのが分かった。忌み子として森に追いやられるまでは、私も伯爵家の娘として、それなりの教育を受けていた。記憶にはほとんど残っていない。それでも、指先や背筋は、忘れたはずの所作を覚えていた。扇を持つ手つきも、歩く際の視線の高さも、一度直されればもう間違えない。むしろ、教えられる前に、勝手に手が動くことすらあった。
昔取った杵柄、というやつだろうか。
椿様は、その飲み込みの早さに何度も目を丸くしていた。他の令嬢方は、これだけでも一月はかかるものですよ、と。私はそれに、大した感慨もなく答えた。忘れていた記憶を掘り起こしているだけで、一から積み上げているわけではないのだから、当然のことだ。と。
(陛下が娶るというのなら、これくらいはできて当然でしょう)
言葉遣いにも、次第に慣れていった。皮肉や軽口を、そのまま口にするのではなく、一枚布を被せるようにして「上品に」隠す技術。それを覚えた途端、私の毒舌は、むしろ以前より鋭さを増したように思う。相手を傷つける刃を、柔らかな布で包んで差し出す。その方が、かえって効くこともあると知った。
私が少しずつ言葉と所作を取り戻していくのと同時に、周囲が私に向ける目も、緩やかに変わり始めていた。すれ違う女官たちの会釈が、以前より深くなった気がする。聞こえよがしに囁かれていた陰口も、心なしか鳴りを潜めている。
あの高札の効果も、多少はあるのだろう。功績が一人歩きした結果か、あるいは私自身の振る舞いが変わったせいか。……おそらく、その両方。理由がどうであれ、得られる結果が同じなら、深く詮索する必要もない。
(これも、陛下の隣に立つために必要なことです。……それだけの話です)
そう自分に言い聞かせながら、私は稽古を重ねていった。日が暮れるたびに疲労は溜まっていったが、不思議と、それを苦痛だとは感じなかった。むしろ、明日はどの所作を直されるだろうかと、どこかで先を楽しみにしている自分がいることに、私自身、気づかないふりをしていた。
数日後、椿様は稽古の総仕上げにと、内輪だけの茶の席を設けてくれた。離宮の一角、色づき始めた庭に面した部屋だ。
集まったのは、かつて清め水の毒害から私が治療した女官たちだった。桔梗様たちのような刺のある集まりとは違い、終始和やかな空気で進んだ。茶碗を持つ手つきも、頭を下げる角度も、椿様に幾度となく直されたものが、ようやく板についてきた頃合いだった。
私は仕込まれた所作を、危なげなくこなしていく。……はずだった。だが、そのくらいはどうでもいいことだと、すぐに思い知らされることになる。
かつて顔の爛れを治療した美世という女官の一人が、扇の陰から興味深そうにこちらを見て、軽口を叩いた。
「随分と、様変わりなさいました。以前は、血まみれの袖で『失礼』だなんて仰る余裕も、なかったではありませんの」
一同が、小さく笑い声を上げる。私も、当時のことを思い出した。椿様の顔から膿を掻き出していた頃、確かに身なりを気にする考えなどなかった。
「わたくし、正直申し上げて、少し感動しております」
その一言に――頬が緩むのを感じた。
(……営業用の笑みでは、ないわね)
気づいたのは、私自身が最初だった。指先で頬に触れかけて、思いとどまる。誰かに指摘される前に、それを取り繕う余裕すら、なぜか湧いてこなかった。
「……あら。良いお顔をなさっている」
椿様が、目を細めてそう言う。
「気のせいでしょう」
私はいつもの調子でそう返したが、頬の緩みは、思ったより長く残っていた。
(これも、必要だったから。それだけの話です。……でも、悪くない)
そう、私はその日の茶の席を後にした。庭の紅葉が、夕刻の光を受けて赤く燃えているのが見えた。稽古で覚えた歩幅で、いつもより少しだけ、足取りが軽い気がした。それが、身についた所作のせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、私にはまだ判別がつかなかった。
コメント
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あーーもう、この回めっちゃ良かった!!😭💕 主人公が自分から椿様に教えを乞うシーン、あそこからの成長が尊すぎて…!「忘れてた記憶を掘り起こすだけ」って言いながら、どんどん所作を身につけていくの、めっちゃカッコよかったよ✨最後の茶席で営業用じゃない笑顔が漏れるところ、ずるいよ〜!ちゃんと心開いてるじゃん…!「悪くない」って認めたのも大きな進歩!次の話も楽しみにしてるね!📖💖