東北新幹線は雪のため遅延が続いていたが、8時を過ぎ、ようやく運行が決まった。
着替えも持たず、財布一つで、片道3時間半もかかる新幹線に乗り込むのは、篠崎くらいなものだった。
埃っぽいホームに音楽が反響しながら流れる。
寝不足の頭に響くその音に軽く頭を振りながら篠崎はガラガラの指定席を見回した。
(そうか。今日は金曜日か)
平日の朝の新幹線の、しかも指定席は空いていた。
篠崎は欠伸をこらえながら、自由席にしてもよかったかもしれないと小さく後悔した。
ダウンジャケットを脱ぎ、上部の荷物置きに突っ込むとシートに腰かけた。
軽くリクライニングを倒し窓の外を眺める。
新幹線に乗る機会などほとんどないが、今年はこれで2回目だ。
新谷に「気色悪い」と暴言を吐いた次の日、篠崎は長岡美智に電話を掛けた。
番号は変わっていないはずだったが、彼女は何度かけても出なかった。
仕方なく会社を休み、この東北新幹線に飛び乗ると、篠崎は彼女の実家がある秋田を目指したのだった。
今も変わらずパソコン横のラックに置きっぱなしにしてある手紙のことを思う。
1枚目は、連絡を怠った自分の謝罪、そして待っていてくれる篠崎への愛で溢れていた。
しかし「ゲーテの詩」が書いてあるはずの2枚目は―――。
発車を知らせるベルが鳴り響いた。
その甲高い音に、篠崎は瞼を閉じた。
ゲーテの詩「銀杏の葉」に付け足す形で書かれていた彼女の想い。
彼女は地元秋田で、穏やかな時を過ごすうちに、自分に起きたことを冷静に見つめ直すことが出来ていた。
そして両親の温かい説得もあり、当時の篠崎の考えや想いにも、燻るものはあったものの納得しかけていた。
その時、新谷が彼女のもとを訪れた。
誰に何を聞いたかはわからないが、新谷は本気で、篠崎が美智を待ち続けていると思っていたらしい。
彼のまっすぐな思いに、美智の凍った心はほぐれ、石化した恨みが滲みだした。
そして彼女は、嘘をついた。
喜んだふりをし、渡してほしいとわざと手紙を新谷に託した。
その際にいつでも覗けるように封筒にほんの小さなシールを貼って。
帰りの新幹線で、新谷は手紙を見ただろうか。
しかし紫雨が言う通り、そして彼女の目論み通り、きっと2枚目は読まなかっただろう。
とにかく彼は、それを篠崎に渡した。
篠崎の幸せを願って……。
篠崎は狭いシートで持て余している長い脚を組み替えた。
景色からはだんだん建物が消え、稲刈りをとっくに終えた暗い田園風景が続いていた。
あの日の朝、篠崎は同じように東北新幹線に乗り込むと、新谷のことを思った。
今までゲイでありながらも、彼女と幸せな日々を過ごしていたと思っていた新谷が、自分のことを好きだったとしたら……。
『マネージャー!俺、彼女いるんで!!』
『あの……どうして昨日、俺のこと、助けてくれたんですか?』
『俺、別に、男ならだれでもいいわけじゃないんですよ!』
『尊敬はしていますが、恋愛感情はありません…』
『なんですか?俺の顔に用がないなら離してください』
『……篠崎さん。一度でいいので、俺を……抱いてください』
「…………」
そう考えると、彼の今までの言葉が、反応が、驚くほどしっくり来た。
……新谷が、俺を……。
正直言って、戸惑いよりも喜びの方が先に立った。
自分に恋愛感情はないと言い切られた手前、どこかでブレーキをかけ遠ざけていた新谷が、いきなり懐に飛び込んできたような温かい感覚を覚えた。
しかし………。
自分が諸手をひろげて彼を受け止めれば、それでハッピーエンドなわけではない。
彼が頻繁に口にする「幸せ」。
それは自分と新谷が築く未来にはそぐわない言葉である気がした。
誰を犠牲にして、
何を失うのか。
彼が今後の人生で、得られるはずだったものは、
自分一人なんかよりも比べ物にならないほど大きく、そして尊い。
人生は“今“だけではない。
世界は、“恋愛“だけじゃない。
人間は、“二人“だけでは生きていけない。
彼の母親を含め、これからできるだろう家族を、そしてこれから彼自身の一生を左右する選択だ。
……自分はいい。
両親は亡くなり、妹はカナダで優しい旦那とこれから幸せに過ごしていく。
きっと妹は篠崎の報告を聞いても「あっそ。キモ」と笑って終わりだろう。
だが新谷は違う。
女手一つで育ててくれた母親がいる。
そしてその母親から譲られたコンパクトカーを素直に乗るほど、彼も母親を大切にしている。
自分が彼に思いを告げて一緒に生きていく未来と、
彼が家庭を作り、その子供たち、さらには孫たちと生きていく未来を天秤にかけた時、
その重さの差は歴然としている。
それであれば……。
これから生きていく毎日で、その選択を後悔し続けるのであれば……。
自分の今の想いを封じるのなど、赤子の手を捻るより簡単なことだ。
3ヶ月前のあの日、時速1200kmの速さで美智に謝罪をするために向かった新幹線の中で、篠崎はそう思った。
新谷には自分が結婚すると見せかけて、
前々から出ていた八尾首展示場の話を進めることで、
完全に諦めてもらうことにした。
騙すことに罪悪感はあるし、少しずつ自分から離れてゆくだろう彼の心のことを思えば、胸は痛むが、
そんなの、彼の未来を考えれば、
耐えられる気がした。
◇◇◇◇◇
一睡もすることなく、新幹線はいつの間にか宮城県に差し掛かっていた。
篠崎は軽く首を回して、窓の外を見つめた。
あの夜、秋田から戻った篠崎は、紫雨を呼び出し、手紙を見せて全てを話した。
ゲイである彼は納得していなかったようだが、同じような話を新谷からされたことがあると鼻で笑い、それ以上は反対しなかった。
彼に頼んだことは二つ。
一つは篠崎が結婚するという噂を流してほしいこと。
もう一つは、新谷が千晶との結婚を決めた時には篠崎に教えるということだ。
なんだかんだ彼はその二つを律儀に守ってくれた。
しかし……。
瞼を擦る。
迷いが全くないと言えば嘘になる。
新谷の未来のことを考えれば、あの彼女に全てを任せて、自分が消えた方がいい。
でも……それでも……
俺は、あいつを手放したくない。
長いトンネルを抜けた。
「…………………っ」
視界に飛び込んできた真っ白な風景に、篠崎は思わず息を吐いた。
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