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幸せな夢を見ると起きたときにがっかりする。
「おはよう」
けれど今朝は特別だ。目覚めてからの方が幸せを感じるのだから。
「希咲……おはよう」
瑞記は満たされた想いで希咲の体を抱き寄せた。
「ふふ、瑞記ったら朝から積極的ね」
そう言う希咲も瑞記の首に腕を回し、頬にキスをしてくるのだから、どちらが積極的なのか分からない。
「どうしたの? ニヤニヤしちゃって」
揶揄うような甘い声。
「ニヤニヤなんてしてないよ。ただ幸せだなと思っただけだ」
「私も幸せだよ。ずっとこのまま過ごしたいよね」
「ああ」
瑞記は希咲の髪に指を差し入れる。サラサラした髪を撫でてから、昨夜何度も触れた唇を塞ぐ。
「んっ……」
希咲も応えてくれてふたりの熱は高まり続け、収まりがつかなくなっていく。
朝の光が届く部屋で、一晩では物足りないとばかりに身体を繋げだ。
「そろそろ、チェックアウトしなくちゃね」
行為の後もベッドの中で幸せに浸っていたが、希咲の声で現実に連れ戻された。
「もうそんな時間か……」
瑞記はがっかりと溜息を吐く。幸福な時間が過ぎるのはなぜこうも早く感じるのだろう。
「シャワー浴びて来ないとね」
「そうだね」
仕方なく体を起こし、床に落ちたままの服を拾い上げる。背後で希咲も起き上がった気配がした。
「ねえ瑞記、私いいことを思いついちゃった」
「いいこと?」
瑞記は振り返り、首を傾げた。
希咲はその思いつきが相当気に入ったようで、明るい笑顔になっている。
「今日の予定は移動だけでしょう?」
「そうだね」
瑞記はスケジュールを思い出しながら頷く。
今日はクライアントとの打合せなどは入れていない。東京に戻ったら事務作業に充てるつもりでいた。
「明後日の約束もリスケしたいって言われたでしょう? だから今日と明日はオフにしても大丈夫じゃない?」
「……確かにオフに出来るけど、でも処理しなくちゃならない事務作業が溜まってるんだよな」
「それはあとで頑張ってやれば大丈夫。でも連休は今しか取れないんだよ?」
希咲が瑞記ににじり寄る。
「だからこの連休はふたりで過ごさない?」
「え……ふたりで?」
あまりに魅力的な提案に、瑞記の心が舞い上がる。
「こんなビジネスホテルじゃなくて、温泉でもある旅館でゆっくりしたらきっと楽しいよ」
(希咲とふたりで温泉……)
きっと最高の思い出になるはずだ。瑞記の頭の中から、溜まりに溜まった事務作業のことなど消え去った。
「希咲の言う通りかもしれない。会社を立ち上げてから今まで全力で走って来たんだから、たまにはゆっくり過ごそう」
瑞記自身が彼女と離れたくないのはもちろんだが、それとは別に瑞記を受け入れてくれた希咲の希望を叶えてあげたい気持ちが強かった。
「やった! それじゃあホテルか旅館を急いで探さなくちゃ」
上機嫌でスマホを見始める希咲の姿に、瑞記はこみ上げる愛しさを感じていた。
ビジネスホテルをチェックアウトしてすぐに、希咲が見つけた旅館に移動した。
隠れやのような雰囲気の宿で、ふたりでゆっくり過ごすに相応しいところだ。
食事の時間と入浴の時間以外は、常に触れ合っていた。
朝目覚めて腕の中に希咲の温もりを感じたとき、瑞記はもう彼女のことしか考えられなくなっていた。
(彼女がいれば他には何も要らない。誰にどう思われても構わない)
言い争いをして感情的になった妻に離婚を告げられたときは、世間体と家族の目を考えると離婚なんてあり得ないと思った。しかし今はもうそんな些末なことはどうでもいいと感じる。
「あ、瑞記おはよう」
考えに浸っている内に、希咲が目覚めたようだ。けれどまだ眠むそうに目をこすっている。
そんな仕草も可愛くて、瑞記は自然と笑みを零した。
「おはよう」
「今、何時かな?」
「七時半だよ」
「そっか。早起き出来たから朝のお風呂入ってこようかな」
今にもベッドから起き上がりそうな希咲の体に瑞記は覆いかぶさる。
「もう。瑞記ったら」
希咲は楽しそうに声を上げて笑った。
「瑞記はもっと淡泊かと思ってた。人は見かけによらないよね」
しばらくお互い触れ合いじゃれあったあと、、希咲がしみじみした様子で言った。
「希咲が魅力的だからだよ」
「ええ……でも奥さんにだって同じようにしているんでしょ?」
「まさか。園香とはあり得ないよ」
もう半年以上は触れ合っていないし、思い出しただけで、盛り上がっていた気分が萎んでいくくらいだ。
「希咲……僕は妻と別れようと思う」
「えっ?」
瑞記の言葉に、希咲は衝撃を受けたように目を見開く。
「ど、どうして突然?」
彼女が驚くのも無理はない。瑞記は今まで離婚について一度も口にしたことが無かったのだから。
「希咲とこういう関係になった以上、園香と結婚生活を続けるのは無理だと思うんだ」
「でも奥さんが可哀そうじゃないの?」
希咲はかなり動揺していた。園香に対する罪悪感が強いのかもしれない。
「大丈夫だよ。離婚は園香の方から言い出したんだ」
「奥さんから?」
希咲は目を伏せて何か考え込んでいる。瑞記は宥めようと彼女の肩を抱いた。
「少し喧嘩しちゃったんだ。それで園香の方から離婚を言い出した。そのときの僕は離婚に踏み切れなかったけど、今なら迷わない」
「瑞記が離婚しても、私は離婚出来ないんだよ?」
「それは……分かってるよ」
そう答えながらも心がもやもやした不快感で満たされる。彼女の夫に嫉妬しながらも何も出来ない立場の自分が辛い。
「前に話したと思うけど、夫は口うるさいことは言わない人だけど、離婚は出来ないの。瑞記が私を想って離婚したとしても、応えられないんだよ」
「……分かってるよ。それでも妻とはもうやっていけない。妻だって離婚したいと思ってるんだから、別れた方が喜ぶはずだ」
「それでも別れないで!」
希咲は驚く程真剣な目で瑞記を見つめる。
「希咲?」
「私が瑞記と長い時間を過ごしても何も言われないのは、瑞記が既婚者だからなの。だからもし瑞記が離婚したら、夫が仕事を辞めるように言うかもしれない」
「え……」
(希咲が仕事をやめる? そんなの駄目だ)
「こうやって自由に外泊できるのは瑞記が既婚者で心配要らないと思ってるから。離婚したら夫が邪魔して二度と会えなくなるかもしれない。瑞記はそんなことになっていいの?」
「駄目に決まってる!」
(くそ、希咲が結婚していなかったら)
彼女の夫である名木沢清隆の人格は知らないが、社会的立場と経済力から、その気になったら自分と希咲を引き離すのは容易いはずだ。
(名木沢清隆……自分こそいつも希咲を放って好き勝手にやってるのに、なんて勝手なんだ)
怒りがこみ上げるが、今は何も打つ手がない。
「瑞記、考え直してくれる?」
希咲の願いに、不本意ながらも頷いた。
「分かった。しばらくは園香と離婚しないよ」
「よかった。安心したよ。それから私たちの関係は絶対に誰にも知られたら駄目。ふたりの秘密だから」
「ああ、分かった」
胸を押さえて微笑む希咲は、心から安堵しているように見えた。
(そんなに不安だったのか)
彼女の夫には不満が募るが、希咲が珍しく動揺したのは、瑞記との別れを恐れたから。
(僕も彼女の気持に応えないといけない)
瑞記は自分を気持を曲げてでも、希咲との関係を守ろうと決意した。
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