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──翳りのない優しい声音が
静まり返った店内に溶けた。
「お客様⋯⋯
大変困惑されていることと思いますが⋯⋯
ここに留めてしまっている
ご無礼をお許しください」
喫茶桜に残された、たった一人の客。
時也はその少女をこれ以上怯えさせぬよう
言葉選びに細心の注意を払い
柔らかな声色で語りかけていた。
だが──
少女は時也を一瞥もしなかった。
ただ
ティアナの展開した結界の光に
視線を向けたまま
ぴくりとも動かない。
(心の音は⋯⋯穏やかですね)
声もなく、波もなく。
少女の心は──
嵐の前の静けさのように、凪いでいた。
「ティアナさん?
そろそろ、彼女を
解放してくださいませんか?」
時也は足元にいる白猫へと視線を向けた。
しかし
ティアナもまた一歩も動かず
瞳を細めて少女を見つめている。
まるで、少女の奥にある何かを
見定めようとしているかのように。
その時──
「時也様。
転生者のものを部屋に運んで参ります」
背後から、静かな声が響いた。
振り返れば、幼子の姿をした青龍が
昏倒した転生者の青年を
容易く抱きかかえて立っていた。
「えぇ、頼みます。
それと──
レイチェルさんの様子を見てきて
報告してください」
「御意」
短く応じた青龍が
足音一つ立てずに店の奥へと消えていく。
──残されたのは
ティアナと、少女と、そして時也。
時也はふと、視線を硝子の向こうに向けた。
(アリアさんを
ずっと薄暗い中に
閉じ込めてしまってましたね⋯⋯)
特設席には、混雑中はカーテンがかけられ
客の注目を避けるように営業が行われていた
それは許可の無い撮影や好奇の目から
彼女を守るためでありながら
同時に、世界から遮断する行為でもあった。
時也はゆっくりと歩み寄り
カーテンを摘み──
静かに、音を立てないように引いた。
そこにいたアリアは
血と煤に汚れたドレスのまま
椅子に腰掛けていた。
体内を喰い荒らした虫の痕跡が
なおも肌に淡く残り
しかし彼女はその全てを受け入れるように
ただ静かに目を閉じていた。
時也の姿に気付き
僅かに瞼を持ち上げたその瞳は──
深紅で、燃えるようで
けれど酷く静かだった。
「最後のお客様をお帰ししましたら
直ぐにお部屋にお連れしますので⋯⋯
もう少しだけ、お待ちくださ──」
言いかけたその時だった。
「あああああああああああ!!!!」
店内に、突如として怒声が響いた。
その瞬間
空気が一変する。
空間が軋む。
鼓膜が震え、喉奥を凍らせるような
悲鳴と怒声が混ざった
尋常ならざる咆哮。
時也が振り返った先。
そこには──
結界の中で
両腕を振り上げている少女の姿があった。
「何故ですか!
私は貴女の代わりに
人間を葬ろうとしただけだったのに!!!
厄災は人間どもの方だっっっ!!!!」
それは
先ほどまでの気弱で
怯えきった少女ではなかった。
煤竹色の髪が逆立つほどの怒気を纏い
朽葉金色の瞳には〝怒り〟と〝憎しみ〟が
渦巻いていた。
その声は、あまりにも歪で──
あまりにも深い
絶望から生まれた声だった。
ガンッ!ガンッ!と
結界の内壁が打ち鳴らされる。
小さな拳が波紋を立て
幾重にも光を撥ね飛ばす。
しかし
ティアナの結界は揺らぎこそすれ
破られることはない。
それでも彼女は止まらなかった。
──何度も。
──何度も。
まるで、それが己の存在を証明する
唯一の手段であるかのように。
その姿を前にして、時也は目を見開いた。
風のような声は
もう少女の耳には届かない。
届くものは、もっと奥底──
魂のずっと奥に沈む、失われた記憶と感情。
〝彼女は一体、何者なのか〟
時也の背筋を
氷の針のような確信が貫いた。
(強い憎しみ⋯⋯
まさか、この少女も──!?)
その瞬間。
何の前触れもなく
時也の隣に〝彼女〟が立っていた。
「アリアさん⋯⋯まだ、お身体が⋯⋯」
心配を口にしかけたが
その言葉は途中で掠れた。
アリアの深紅の瞳が
結界の内の少女を見据え
揺るがぬ意志を灯していたからだ。
「構わん⋯⋯ティアナ」
たった一言。
その命に
ティアナは一瞬だけアリアを見上げ──
静かに身を翻した。
彼女の白い身体が滑るように離れ
同時に、光の膜がふわりと膨らみ始める。
「待ってください、アリアさん⋯⋯
僕も、結界の中に
共にいさせてはくれませんか?」
時也の願いに、アリアは目を細める。
その表情は静謐で
鋭さの奥に、わずかな憐憫が滲んでいた。
そして──小さく、頷いた。
「お前ならば⋯⋯害されることも無かろう」
その言葉と同時に
結界は三人を包んで完全に閉じられた。
──空気が変わった。
瞬間
時也の鼻腔を甘すぎる香りが強烈に貫いた。
着物の袖で口元を覆った彼の眉間に
深い皺が刻まれる。
(これは⋯⋯
発酵や、腐敗に似ている⋯⋯?)
生花のような瑞々しさはなく
果実のような爽やかさもない。
それは
生命が朽ち、膿み、腐りきった先にだけ漂う
〝死の香り〟
少女の怨嗟が爆ぜた。
「あれだけ⋯⋯
貴女のために、貴女をお護りしたくて
人間を殺したのに──っ!!!!
貴女も生きたまま
蝕まれてしまえばいいっっっ!!!」
怒声と共に、空気が振るえた。
ぶわり。
少女の身体から、うっすらと白濁した
〝霧〟のようなものが立ち昇る。
それは水蒸気ではない。
粒子の細かい
細菌と胞子を含んだ〝生きた雲〟──
空気の密度が異常に高まり
肌にざらりとまとわりつく。
次の瞬間
アリアの身体を風が撫でたように見えた。
いや──違う。
〝それ〟は
空気を媒介に侵入した微生物群だった。
まず、アリアの肌に湿り気が滲む。
それは汗ではない。
皮膚の表面に、うっすらと
〝膜〟のようなものが浮かび
そこに白い粒子が留まり始める。
微細な胞子が
彼女の体温と、血中の鉄分と、水分を養分に
繁殖していく。
彼女の鼻腔から、鮮やかな紅が一筋
たらりと滴った。
だがそれは、ただの鼻血ではない。
血の混じった粘液が
内部での〝崩壊〟を示していた。
アリアの口が僅かに開き
呼吸音が変質する。
ひゅっ、ごっ、ごぷ──
不自然な喘ぎ。
肺胞に絡みつく菌糸が、空気の流れを阻害し
彼女の呼吸を濁していく。
その音が、かすかに泡立ち始めた。
(肺胞に⋯⋯菌糸が繁殖している?)
苦悶の表情で見守る時也の瞳が細められる。
だが、アリア自身は
依然として表情一つ変えなかった。
次に変化したのは、彼女の皮膚だった。
鎖骨の辺り──
白磁の肌に
薄桃色の小さな斑点が浮かび始める。
その斑点は、次第に盛り上がり
まるで息をするように脈打った。
ぶつ、と音を立てると
皮膚が微かに裂ける。
そこから
白く濁った胞子嚢のような物体が顔を出し
それは〝小さな茸〟だった──
湿気を帯びたその形は
まるで森の腐葉土に生える茸のよう。
アリアの肩から、指の間から
腹部の皮膚の隙間から
複数の胞子体がゆっくりと芽吹いていく。
そのたびに
血と膿が微かに滲み、ドレスを染める。
足元に滴った体液が
床のタイルに黒く染みを広げていく。
──しかし、アリアは倒れない。
細く、しかし確かな足取りで
一歩前へ進んだ。
ドレスの裾が引きずるように揺れ
咳のように肺から濁った呼気が漏れる。
それは、肺の中に巣くった菌糸が
音を反響させる異音だった。
彼女は朽ちかけた肉体のまま
なおも前を向く。
命を奪おうと牙を剥く
〝転生者の少女〟に向かって──
崩れかけた美しさが
より一層、異様な神聖さを帯びていた。
不死であるがゆえに、侵されても死なず。
死なぬがゆえに
腐り、朽ち、芽吹かされても
なお在り続ける。
「──っ、アリアさん⋯⋯」
時也は、拳を握りしめる。
だが──動かない。
転生者の怒り。
彼女の咆哮と
吐き出された〝呪い〟が齎したこの惨状を
心苦しくとも、止めてはならないと
時也は理解していた。
彼は黙して見守る。
すべてを受け止めようとするアリアの背に
そっと視線を送った。