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それは、音ではなかった。
崩れ落ちた祈りのように──。
誰にも届かぬ
ひとつの命が擦り切れるような
淡く消え入るような言葉だった。
「⋯⋯すまない⋯⋯」
肺に絡みついた菌糸が
呼吸のたびに擦れ、軋み
血の味と共に喉を満たす。
鼻腔と気道は
もはや空気の通り道ではなく
濁った微生物の霧に満たされていた。
それでもアリアは──
声を紡いだ。
掠れた息の隙間から、静かに、確かに。
血を喉の奥から掻き出すようにして
彼女は言葉にした。
「⋯⋯お前は⋯⋯
人間に屈した私の代わりに⋯⋯
戦ってくれたのに⋯⋯」
胸の奥から絞り出されたその声は
ひどく濁っていた。
けれど
そこには責めも、怒りもなく。
あるのは、ただ静かな悼みと、赦し。
過去を悼み、そして寄り添うような
限りなく優しい声色だった。
──次の瞬間。
アリアの両腕が
ゆるやかに、しかし確かに広がった。
そして
少女の細い身体を包むように抱き締めた。
朽葉金色の瞳が、見開かれる。
硬直したようにその肩が跳ね
心臓の鼓動が、皮膚のすぐ下で
震えを伴って弾ける。
それは恐怖の反応だった。
けれど、同時に──
想定外の〝温もり〟への戸惑いでもあった。
少女は、腕の中で微かに震えながら呻いた。
「憎い⋯⋯アリア様⋯⋯貴女が⋯⋯
私を⋯⋯殺した貴女が⋯⋯!」
声は怒りに震えていた。
けれど
それ以上に、寂しさが滲んでいた。
感情が崩れる直前の言葉。
怒号ではなく
拗ねた子供の泣き声に似た
哀しみの残響だった。
アリアの腕は
強くもなく、弱くもなかった。
ただ、包み込むように。
自身の腐りゆく身体すら恐れず
ただその魂の苦しみに
寄り添おうとする温もりだった。
少女の声が、少しずつ変わっていく。
「⋯⋯あ⋯⋯あった、かい⋯⋯
わたし、ずっと⋯⋯
誰にも、触れてもらえなかった⋯⋯のに──」
その震えは、憎しみではなかった。
怯えではなく、渇きと、飢え。
人としての輪郭を取り戻すように
少女の呼吸が、緩やかに、深くなっていく。
──そして。
がくり、と身体が崩れ落ちた。
そのままアリアの胸元で、少女は力を失い
穏やかに眠りに落ちた。
その顔には、怯えや畏怖ではなく
緩んだ表情──
安らぎの色がうっすらと浮かんでいた。
「アリアさん、彼女は──」
静かに近づいた時也が問いかけると
アリアはほんの僅かに顔を上げた。
だが、答えるより先に──
咳が、喉の奥から溢れ出た。
「⋯⋯腐敗の⋯⋯魔女⋯⋯」
その声は、肺の底で鳴る濁流のように
重たく震えていた。
「植物の⋯⋯一族の庇護にあった⋯⋯魔女だ
だから⋯⋯お前に⋯⋯害は、及ばない⋯⋯」
一言ごとに、肺が音を立てて軋む。
呼吸のたびに混ざる、濃い液体の音。
そして。
アリアの唇から
またしても粘り気を帯びた血と胞子が
溢れ落ちた。
それは真紅に近い
しかしどこか白く濁ったものだった。
彼女の深紅の瞳が潤み、視線が揺れる。
それは、虫と菌に侵された身体の
限界の兆しだった。
「っ⋯⋯アリアさん⋯⋯」
声にならぬ痛みを
時也は奥歯で押し殺した。
静かに着物の袖からハンカチを取り出し
彼は躊躇わず、その口元を優しく拭った。
布地には、赤と白の濁った液体が滲み広がり
やがてそれは
湿った花のような模様をつくった。
そしてもう片方の手で
アリアの背を支える。
その身体は驚くほど軽く
けれど異様な熱と冷気を同時に孕んでいた。
生命と腐敗が拮抗する
危うい境界線にいるのが明白だった。
「⋯⋯お疲れでしょう。
どうか、お部屋でゆっくり
身体を癒してください。
──参りましょう」
その囁きに
アリアはうっすらと瞼を閉じた。
よろり──と、立ち上がる動作すら儚い。
その横で、白猫のティアナが
足音ひとつ立てずに歩き出した。
三人を取り囲んでいた結界を
静かに移動させながら保ち続けている。
結界の外に〝感染〟が漏れぬように。
この空間に漂う胞子と微生物の流出を
完璧に抑えるために。
ティアナの瞳は、常よりも細く鋭く
明確な使命を帯びていた。
時也はアリアの隣で
少女を両腕に抱き上げる。
彼女の身体は羽のように軽く
けれどその温度は、まだ確かに
〝生きている〟ことを証明していた。
ドレスの裾が床を擦り
汗と血に濡れた茸の胞子がふわりと揺れる
しかし、それすらも
ティアナの結界に吸収され
外へは一切流れない。
──静寂の中
三人と一匹はゆっくりと歩き出す。
まるで、祈りを運ぶような静かな行進。
誰も声を発さず、誰も焦らず
ただ一歩一歩を
確かに踏み締めて進んでいく。
ドアが音を立てずに開かれ
廊下を過ぎ、階段を上り
やがて居住区の奥へと辿り着く。
そこは、音も届かない
柔らかな陽射しのみが降り注ぐ
静かな休息の部屋。
時也はその扉を、静かに押し開けた。
「彼女を休ませてきましたら
直ぐに戻ります⋯⋯」
ベッドに横たわるアリアに一声かけるが
言葉はなく
濁りが残りつつも
規則正しい呼吸音のみが返ってくる
(不死の血が、菌を破壊してるのか)
時也は少女を抱えながら一礼すると
音も立てずに部屋を後にした。